2月半ばの夜7時、カイジはとある駅の前に立ち、人を待っていた。
暦の上では立春を迎えてはいたが、まだまだ寒さは厳しく、雪が降ってもおかしくないような気候だった。カイジはよれたジャケットのポケットに手を突っ込み、肩をすくめて軽く足踏みをした。
そこそこ大きな駅なので、駅前には様々な店が並び立ち、人通りも多い。駅から出てくる人、駅へ入っていく人の流れを見るともなしに眺めながら、カイジは白い息を吐いた。
なかなか来ないなと思っていると、駅の中から現れた若い女性が、カイジに向かって小さく手を振っているのが目にとまった。

「カイジ、久しぶり」
「おう、リツカ。久しぶり」

近づいてきたリツカは、カイジの顔を見ると軽く笑った。

「何年ぶりだっけ。カイジ、ぜんぜん変わってないね」
「そうか? リツカは…大学生って感じだな」
「そりゃ大学生だからね。いいでしょ、華の女子大生よ」
「ええと…今は3年?」
「うん、そうよ。それにしてもカイジ、髪の毛ちょっと長すぎじゃない? 切ったほうがいいよ」
「うるせぇ。会っていきなりそれかよ」

カイジは長く伸びた髪に手をやり、不満げに口を曲げた。
こうして彼女に会うのは約3年ぶりになるだろうか。久々に見たリツカは、コンビニで見た女性向けファッション誌に載っているような、まさに今どきの女子大生という格好をしていた。
目の前にいるのは確かにリツカのはずなのだが、その姿はカイジの中にあったイメージと少し外れていた。まるで初めて会う他人のようで、カイジは少し気恥ずかしくなった。

「ねぇ、カイジ。今日、あたしが誰のために来てあげたと思ってんの?」

リツカが眉の間にしわを寄せてカイジを見る。

「お金のないカイジ君に晩ごはんをおごってあげるために、わざわざここまで来たのよ? ちがう?」
「うぅ…。はい、その通りでございます…」
「だったらもっとあたしをおだてなさいよ。帰るわよ」
「あ、いや、それはちょっと…。あーそのー、すげぇキレイになってたから目のやり場に困ってさ。へへへ」
「そうそう、やればできるじゃない」

リツカは満足そうに鼻を高くした。見た目は大人びたが、勝気であけすけな性格は変わっていないらしい。
こうして軽口を言い合っていると、学生時代に戻ったようだ。

「で、何が食べたいの」
「いや、オレはなんでも……」
「わざわざ電話で呼びつけといて、なんでも?」
「うー、じゃあ、あそこはどうかな…」

電話しておきながら何も考えていなかったカイジは、すぐ見えるところにあるチェーン店の牛丼屋を指さした。

「え、そんなんでいいの? せっかくおごってあげるんだから、別に遠慮しなくていいのよ」
「いや、でも最近食べてないし、たまには牛丼が食べたい気分なんだ。リツカがいいならでいいけどさ」
「まあ、カイジがそう言うなら、あたしはなんでもいいけど。じゃあ、とりあえず入ろっか」
「そうだな」
「早く行こ、ここ寒いよ」

ずんずん進んでいくリツカの後について行きながら、カイジはリツカのまっすぐな長い髪を見つめた。

彼女、館林リツカは、カイジの中学校時代の同級生である。ずっとクラスが一緒だったのと、カイジの姉とリツカが同じ部活だったので、ふたりはそれなりに仲が良かった。
高校は互いに別のところへと進学したが、家が近いこともあり、交流は続いていた。
そして高校卒業後、奇しくもふたりは同時に東京へ上京することとなった。カイジは就職、リツカは大学に進学するためである。
東京は全く知らない土地であり、不安も多かったが、同郷の友人もこれからここ暮らすのだと思うと、少しだけ心強かったのを覚えている。
先ほど3年生だと言っていたから、あれからリツカはひとり暮らしを続けながら、留年することもなく普通に大学に通っているらしい。しかしカイジのほうはというと、どんな仕事をしてもちっとも続かず、ギャンブルと自堕落な生活に溺れる日々だった。


夕飯時ではあったが、幸運にも店内はそれほど混んでおらず、ふたりは並んでカウンター席に座った。
リツカはもの珍しそうにきょろきょろと辺りを見回している。カイジは慣れているのですぐに頼むものを決めたが、リツカは時間をかけてメニューを読んでいた。あまりこういう店に入ることがないのだろう。

「カイジ、最近はどう?」
「別に、普通かな」
「いきなり電話してきたからびっくりしちゃった。そしたら『金がないから飯おごってくれ』なんてさ。ちょっと何言われたのか信じられなかったわよ」

リツカはそう言って髪をかき上げ、からかうような笑みを見せた。

「そりゃ悪かったな」
「でも、金……で詰まるもんだから、てっきり『金貸してくれ』って言われるかと思っちゃった」
「……さすがに、オレだってそこまでじゃねぇよ…」

カイジは言葉を濁してうつむいた。
横目で隣のリツカを見ると、あらわになった耳に小さくピアスが光っていた。大学に入ってから開けたのだろう。
自分は立ち止まっている間に、彼女ばかり大人になっていくような気がする。

本当は、リツカの言う通りだった。

つい数日前、カイジの家に遠藤とかいう闇金業者がやってきた。
1年ほど前にバイト仲間だった古畑が、借金30万を1円も返さずに消えたと言うのだ。カイジは古畑の連帯保証人になっていたので、この借金はカイジが支払わなければならない。しかも金利が上乗せされていて、現在の金額は385万だと言うではないか。とてもとても、今のカイジに払える額ではない。
そこで遠藤が提案してきたのは、一夜限りギャンブルクルーズとかいう、非常にうさんくさい催しであった。結局、なんだかんだ言いくるめられるような形で、そのクルーズに乗るという契約書にサインをしてしまったが、家に帰ってよくよく考えてみれば怪しいことこのうえない。どんなギャンブルを行うのか全く不明なうえ、負けた際の処遇も不明。大手の企業がスポンサーになっているとは言っていたが、こんな酔狂な催しなのだから、何をされるのかわかったものではない。
そもそも元金は30万のはずなのだから、300万も400万も払う必要はないはずなのだ。とりあえずこの30万だけ払うことができれば、今のこの状況は抜け出せるのではないか。そう考えはしたものの、やはりそんな金はない。となると、もう誰かに借りるしかない。
そこで家中を探し、引き出しの中に埋まっていたメモ帳を引っ張り出して、その中にリツカの名前と電話番号を見つけたのだ。上京して少したったときに会った際に、教えてもらったものだった。
いくら考えても他に頼れるような知り合いはおらず、かなり長いこと逡巡した結果、カイジは決死の覚悟で電話をかけた。しかし、電話に出たリツカの声を聞いたら、とても金を借りたいなどと言い出す気になれなかった。だからごまかすように、金がないから飯をおごってくれ、なんて口走ってしまったのだ。

「カーイージー。どーしたのよ、つまんなさそうな顔しちゃってさー」

隣から伸びてきたリツカの手に、頬をつままれ引っ張られて、カイジは「ぐえっ」と間抜けな声をあげた。

「ちょっ、やめろよ」
「なんか話したいことあったから、あたしのこと呼んだんじゃないのー?」
「ち、ちげぇよ。ほんとに金なくてやばくてさ…」
「ふーん。最近、仕事は?」
「……やめた」
「はぁ? やめたの?」
「なんかオレには向いてなかったというか、周りとなじめなかったというか…」
「ってことは今、プータローな訳?」
「フリーターって言ってくれよ」

リツカは呆れたような視線をよこし、何か言葉を続けようとしたが、店員が頼んだ牛丼を運んできたので、とりあえずその話は中断された。
目の前に置かれた、ほかほかと温かい湯気をたてている牛丼の香りは、朝からろくなものを食べていなかったカイジの空きっ腹を大いに刺激した。リツカも空腹だったのか、嬉しそうに「いただきます」とつぶやいて割り箸を割っている。
カイジもリツカに習い、箸を掴んだ。牛丼はがっついて食べるに限ると日頃から思っているので、丼ぶりを持ち、かきこむようにして肉と米を口に入れる。

「そんなに急いで食べたらノドに詰まるよ」

ゆっくりと味噌汁を飲んでいたリツカが笑った。
思えば、誰かと一緒に食事をするなんて久しぶりのことだった。いつもと同じ牛丼も、肉の柔らかさや玉ねぎの歯ごたえを隣の友人と共有していると思うと、なんとなくいつもより旨いような気がした。

「カイジ、牛丼好きなの?」
「あー、まあ、好き、かな? 安くて腹にたまるからよく世話になってるけど」
「ひとり暮らしなんだし、ちゃんとご飯は食べないと体壊すからね。っていうか、お金ないんなら、家に連絡すればいいのに。お姉さんもう働いてるでしょ。たしか公務員だったよね? 言えばちょっとくらい援助してくれるよ」
「いや…、家族に迷惑かけるのはやっぱイヤなんだ。こっちに出てきたのだってオレの勝手だし。オレだって男だから、自分のことくらいは自分で責任持ちたいし」
「あんたそういうとこ、無駄に律儀だよね。別にいーじゃん、仕事上手くいきませんでしたって実家帰ったってさ。許してくれるよ」
「ひとりで生きてきてぇんだよ、オレは」
「無職なのに?」
「………」

カイジは中身が半分ほどになった丼ぶりの中を見つめた。器にへばりついた米粒を箸でかき集めながら、ぼんやりと家族のことを思う。
連絡してみようかと思ったことは確かにあった。しかし、できなかった。母親や姉に迷惑をかけたくない気持ちはもちろんのことだが、それ以上に、心の中の見栄がじゃまをしたのだ。自分は他人に頼らずともひとりで生きていける男なのだと、そう思いたかった。
その結果が、今のこの状況だ。

「オレ、やり直せるかなぁ」

思わず、小さな声で本音がこぼれた。

「なーに言ってんのよ」

カイジが隣のリツカを見ると、彼女は不思議そうな顔でカイジを見ていた。

「カイジ、あんた東京に出てきて何年?」
「は? いや、お前と同じで3年だけど」
「でしょ? まだたった3年じゃない。それに20代も始まったばっかり。やり直すもなにも、まだなんにも始まってないでしょ」

リツカは味噌汁の中からワカメをつまみ上げながら微笑んだ。

「これからスタートなのよ。ちがう?」

嫌味でも皮肉でもなんでもなく、リツカは心からそう言ってくれていた。カイジの前にある未来を信じてくれていた。カイジは咀嚼していた牛肉を飲みこんで、小さくうなずいた。
確かにそうだ。まだ、自分の物語はこれからなのだ。やり直すんじゃない。まだ勝ち負けはついていない。ここが始まりなのだ。
リツカの笑みに、ひとりきりの怠惰でゆるんだ時間の中で、じわじわと腐るように鬱屈していた意識が、吹き飛んでいくようだった。

「ありがと、リツカ」
「…? なにが?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」

今日、リツカに会えて良かった。そう思った。

「あ、あのさ、やっぱオレ、自分の分くらいは払うよ」
「いいよ別に。お金ないんでしょ」
「でも…」
「はいはい、好意は素直に受け取る。その代わり、今度お金が入った時になんかおごってね」
「ああ。もちろん」

そう言ってカイジは笑みを浮かべた。
勝てばいい。そうだ、勝てばいいんだ。もうじたばたせずに、例のギャンブルクルーズに行こう。そして絶対に勝とう。船を降りたら仕事を見つけて、ちゃんと稼ごう。そしたらリツカに飯をおごってやろう。オレの人生はそこから始まるんだ。
カイジはそんなことを考えながら、牛丼の最後のひと口を噛みしめた。



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