目の前のふすまがコトッと小さな音をたてて二センチばかり開いたので、赤木はタバコを吸っていた手を止め、その隙間の奥に目をこらした。廊下につながっているその細い暗がりから、するりと白い指先が現れ、ゆっくりとふすまを開けていく。

「あーかーぎーさん」

開いたそこから顔をのぞかせたのは、にっといたずらっぽい笑みを浮かべたセーラー服の少女だった。

「やれ、誰かと思ったらリツカお嬢さんかい」
「はーい、リツカちゃんでーす」

部屋の中に入ってきたリツカは、肩にかけていたスクールバッグを畳の上にぽいと放り、赤木の傍に膝をついた。そのままおどけた調子で机に両手を乗せ、赤木の顔を下の方からのぞきこむ。若々しいツヤのある黒髪が大きく揺れた。
着ている白いセーラー服は半袖なので、もう夏服なのだろう。スカーフと同じ色のグレーのスカートは校則通りの膝丈だ。服の胸元には、いわゆるお嬢様学校として名高い都内の女子高の校章が刺繍されている。

「えへへ、ここの客間だと思ったー。大当たり」
「あんまり驚かさないでくれよ、お嬢さん。俺の命を狙う刺客かと思ったじゃねぇか」
「え?赤木さん、狙われてるの?」
「いや別に」
「なーんだ。でもここなら安心安全だよ」
「そうかぁ?ヤクザの屋敷だぞ。逆に危ないだろ」
「そんなことないよ。うちのセキュリティーシステム、ばかにしないでよね」

リツカは得意げな様子で鼻を高くした。
赤木は笑いながら、机の上にあった灰皿を引き寄せ、まだ火をつけたばかりのタバコを未練なくもみ消した。

「お嬢さんよぉ、あんまりこっちには来るなって言われてんじゃなかったのか?」
「まあねー。でも裏からこっそり入ってきちゃった」
「ガバガバじゃねぇか、セキュリティ」
「それはリツカだから特別?みたいな?そりゃ何人かには見つかっちゃったけど、黙っててってお願いしてあるしー」
「無茶してくれるなよ。さもないと俺がお前の親父さんに殺されちまう」
「大丈夫、大丈夫。パパ、いつも赤木さんのことすごいすごいって言ってるし。それにもし赤木さんになんかしたら、リツカもうパパとえーえんに口きかないもん」
「そりゃありがたいことで」
「あー、ゼリーだ」

リツカは机の上にあった木皿の中から、上品なレモン色の寒天ゼリーをつまみ上げ、周りのセロハンをべりべりと剥きにかかった。

リツカの『パパ』とは、四代目大内組若頭補佐にして二代目浦沢組組長、津山俊雄である。高校一年生のリツカはお嬢さんと組の中で呼ばれているので、赤木も周りにならってそう呼んでいる。
彼女の父親である津山は頭の切れる男で、極道者らしく冷酷非道な選択も厭わない性格だったが、若い妻と一人娘のリツカには人が変わったかと思うほどに甘かった。
若い頃から組のために駆けずり回り、自分の身をほとんど省みてこなかった津山は晩婚で、そのせいもあるのかもしれない。遅くにできた娘がかわいいのは、どこの世界も同じである。
しかし、その溺愛ぶりは単なる家族思いの域をはるかに超えており、ことリツカに対しては、目に入れても痛くないと津山自ら公言しているほどだった。それこそ彼女らが望めば抗争のひとつやふたつ起こしかねないくらいの勢いなので、二代目浦沢組において最も権力があるのは組長ではなくその妻と娘の方だ、という噂が組の内外でまことしやかに流れていた。

「ねぇ、これって何待ちの時間なの?」

寒天ゼリーを三つ続けてぺろりと食べてしまったリツカは、今度は銀紙で包まれたチョコレートに手を伸ばしながらそう聞いた。

「あーっと、晩飯待ちかな」
「ご飯食べたら麻雀?」
「そうさ」
「パパも好きだよねぇ、麻雀」
「ところでお嬢さん、今日は部活は休みなのかい。たしかテニス部だったよな?」
「んー、ほんとは練習ある日なんだけどー、赤木さんが来るって聞いてたから、抜けてきちゃった」
「おいおい、サボりはよくねぇなぁ」
「だって、赤木さんに会いたかったから」

チョコレートも食べ終え、赤木のお茶請けとして出されていた菓子の大半を胃袋に収めたリツカは満足したのか、来客用の分厚い座布団の上に寝そべるようにして転がった。
赤木は机に頬杖をつき、畳と座布団の上でごろごろしているリツカを眺めた。

「それ、俺みたいなおっさんに言うセリフじゃないぜ。もっと年の近い男に言ってやりな」
「まだおじさんって年じゃないでしょ、赤木さん」
「おっさんだよ。もう四十になるんだ」
「見えないよぉー、若い若い。それにリツカ、年上のほうがぜんぜん好きだし。高校生なんか子どもだもん。っていうか、彼氏なんかできたらそれこそパパに殺されちゃうよ」
「まぁ…なぁ……」

赤木はぼんやりと津山の顔を思い描いた。あの津山のことだ、リツカに恋人などできようものなら、冗談抜きにその手で撃ち殺しかねない。

「あーあ、赤木さんがここにずーっといればいいのに」

リツカはぱたぱたと足を動かし、無邪気に頬をふくらませながらそんなことを言う。

この組に代打ちとして雇われるようになってから五年ほどたつが、なぜか組長の津山以上に、赤木はこのお嬢さんからずいぶんと気に入られていた。リツカがあまりにも赤木にまとわりつくので、見かねた津山が、用もなくこの屋敷に来ることを禁止したほどだ。だが、それもたいした意味はなかった。
ここは表向きは津山の持ち家であるが、実際はほとんど組の事務所として使われている場所なので、リツカたちの家族が住んでいる家は別にある。リツカがここにいるということは、本来まっすぐ家に帰らなくてはいけないところを、迎えの運転手に無理を言って連れてこさせたのだろう。それもこれもいつものことで、赤木が来る日はこうしてこっそり忍びこんできては、嬉しそうにおしゃべりをしていくのだった。
正直なところ、いったい自分の何がそんなにも彼女の心を惹くのか、赤木にはまったくわからなかった。赤木は麻雀の腕くらいしか取り柄のない人間だが、リツカは麻雀などルールすら知らないのだ。

「ほんとはね、パパに頼んで赤木さんのこと、ずっとリツカのそばに置いといてもらおうかなって思ったこともあるんだよ」

いきなり飛び出したやや物騒な発言に、赤木はわずかに眉根をよせた。

「でも、やめた。絶対そんなことしないから安心してね」

リツカはうつ伏せに寝そべったまま、目線だけを上げて赤木を見た。

「どうして」
「んー?」
「どうしてやめたんだい」

赤木が問いかけると、リツカは何か考えこむような様子で、うーんとうなった。
リツカの言う通り、赤木ひとりをどこかに軟禁しておくことなど、彼女の父親の力をもってすればなんの造作もないことだ。娘の言うことならどんなことでも聞く津山のことだから、リツカが強くそれを望んだならば、赤木は文字通り、ずっとこの組の中で生活することを余儀なくされるだろう。

「リツカ、小さい頃ね、お祭りでひよこを買ってもらったことがあるの」
「ひよこ?」
「うん。カラーひよこ。ピンクのやつ」

リツカは体を起こし、膝を抱くようにして座った。スカートの折り目を指先でいじりながら、あごを膝の上に乗せる。
カラーひよことは、縁日などで売られている、羽毛をカラフルな色に染めたひよこのことだ。そのかわいらしさと目を引く色合いから、子どもに人気がある。

「すっごくすっごくかわいかったんだよ。でも、なにがいけなかったのかな、三日くらいで死んじゃった。ご飯もちゃんとあげてたし、必要なものは全部あったはずなのに。あのときは悲しかったなぁ」
「そりゃ残念だったな」
「それでね、思ったの。死んじゃったのはもしかしたら、リツカがかわいがりすぎちゃったせいなのかもって」

リツカは死なせてしまったひよこのことを思い出しているのか、いつも元気を持て余しているような彼女にしては珍しく、どことなく沈んだ表情をしている。
カラーひよこは見た目のかわいらしさとは裏腹に、羽毛を染色される際の過度なストレスや、売られる環境の悪さなどから、総じて短命だと言われている。そのひよこがすぐに死んでしまったのも、おそらくはリツカのせいではないだろう。きっとリツカも、そんなことはわかっているはずだ。

「だから赤木さんもね、ずっと家に置いといたら死んじゃう気がするの」

赤木は机に頬杖をついたままリツカの話を聞いていたが、少し間を置いてから「俺はそんな簡単に死なねぇぞ」と笑って茶化した。
リツカは顔を上げて赤木に曖昧に笑いかけ、聞こえるか聞こえないかくらいのごく小さな声でつぶやいた。

「本当にひよこなのはあたしの方かもね」

赤木が何か答えようと口を開きかけたとき、リツカは大きく伸びをして、ごろりと仰向けになった。

「あー、なんか眠くなってきちゃったなー。今日の体育、マラソンだったんだよ。もう疲れたー」

リツカは甘やかされて大事に大事に育てられてはいたが、その分、自由はないのだった。小さな頃から規律の厳しい学校に入れられ、年相応に色恋をすることも許されず、どこに行くにも目付け役がついていて満足に友人と遊ぶこともできない。
彼女がこうして赤木にまとわりつくのは、何にも囚われずにひとりで生きている赤木のことを、心のどこかで羨ましく思っているからなのだろうか。

「リツカねー、いつか赤木さんとカケオチするのが夢なんだ」
「勘弁してくれよ、命がいくつあっても足りないぜ」
「あはは、そうかもねー」

リツカは寝転がったまま赤木のジャケットのすそを引っ張り、楽しそうに笑った。

赤木と話をしにやって来た津山にリツカが見つかり、部屋からつまみ出されるまで、あと少し。

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