体中を這うような鈍痛で森田が目を覚ますと、そこは薄暗くひんやりとした所だった。全く覚えのない場所だ。
木材や鉄骨、錆びついた大型の機械などが放置されており、全体的に埃っぽい。ぼんやりとする視界の中、目だけを動かしてあたりを見回した森田の脳は、廃工場の資材置き場、という単語をはじき出した。
地面に尻をつけて座っていたので、立ち上がろうと思ったが、体が動かない。ついでに口も動かすことができない。
少し冷静になって、よくよく自分の状態を確認してみると、両手は体の後ろでロープらしき太い紐でキツく縛られ、ご丁寧にも鉄柱のようなものにしっかりとくくりつけられていた。立ち上がれるはずがない。口が使えないのは、長めに切られたガムテープがべったりと貼られているせいだった。足は自由なので、力任せにどうにか拘束を解こうともがいたが、ロープが手首に食いこんだだけであった。
縛られている両手首、それから左頬と右脇腹がじくじくと痛む。しかも長い時間この無理な体勢で気を失っていたらしく、体中がひどくしびれていた。
とりあえず、落ち着かなくては。
森田は自分をつなぎとめている鉄柱にもたれるようにして高い天井を見上げると、何度か深呼吸をした。そうしていると、霞がかかっていたようだった思考が少し晴れ、ここで目を覚ますまでの記憶がだんだんと蘇ってきた。
(そうだ。俺はいきなり後ろから襲われたんだった)
深夜、土地の権利書と契約書の類いをカバンに詰め、平井に指定されたホテルに向かっていた森田は、背後から二人の男の襲撃を受けた。
森田の方もなんとなく不穏な空気を感じていたので、頭を狙った最初の一撃はかろうじてよけたものの、もう一人の男に左頬を思い切り殴られた。しかし、ただ黙ってやられるだけの森田ではない。すぐに反撃し、持ち前の体力を生かしてかなりの奮闘をしたのだが、状況は二対一。多勢に無勢であった。
最終的には後ろから羽交い締めにされ、首元に何か金属製の物を当てられた。それ以降、記憶は途絶えている。おそらくスタンガンか何かを浴びせられたのだろう。
どのくらい気を失っていたのだろうか。天井近くにある小さな窓から明るい日差しが差し込んでいるので、夜が明けたのは確かだ。もしかしたら、もう昼くらいにはなっているのかもしれない。
持っていたカバンは見当たらず、ついでに着ていたはずのジャケットもなかった。ジャケットの方はどうでもいいとして、カバンを持ち去られたのは痛い。しかもこの状況、平井とその仲間たちにかなりの迷惑をかけていること必至である。
タクシーを使うほどの距離ではないし、歩いた方が速いからと、変なところで貧乏性を発揮してしまったのが敗因であった。ずいぶんなヘマをしたと、森田はひとりうなだれた。
その時、遠くからカツン、カツンと靴の音が聞こえてきた。音からして男が履くような革靴ではなく、ハイヒールのようなかかとの高い靴の音である。女だろうか。
来訪者は何かを探しているのか、靴音はだんだんと近づいてくる。
思わず息を潜めていた森田だったが、少し考えてから、これ以上に状況が悪くなることはないだろうと思い直した。靴音の主が森田を拘束した男たちの仲間であるなら、どうせ森田の居場所は割れているので、静かにしていたところで無意味である。しかし、もし警備員などの一般人なら、とりあえずこの状態からは助けてもらえる。
森田は体をよじるようにして動かし、鉄柱と床のコンクリートを蹴ってガンガンという音をたてた。一旦止まった靴音は、音を確認するとまっすぐ森田の方に近づいてきた。
神か悪魔か。顔を上げて目をこらしていた森田の前に現れたのは、知らない若い女だった。
「あー、いたいた。やっと見つけた」
女は森田の姿を認めると、目を細めて笑った。曇った窓から差す光が、女の姿をくっきりと照らし出した。
濃い茶色のストレートヘアーをボブカットにした、どこかすました雰囲気の美人だった。派手な模様の入ったタイトのミニスカートから、惜しげもなくすらりとした脚を見せている。靴は、十センチ以上はあろうかというハイヒールのパンプスだった。
「もう、さんざん探したんだから。足が疲れちゃったわ。もっとわかりやすい場所にいてちょうだいよ」
女はそう言いながら森田のすぐ近くまで来ると、縛り上げられている森田の姿をしげしげと観察した。自分が他人に見せられるような状態ではないことは重々承知していたが、なんとなくうつむくのは癪だったので、森田もしっかり頭を上げて女の顔を見据えてやった。
女は面白そうに笑みを浮かべながら、両手で森田の顔を包むようにして、口をふさいでいるガムテープの端をとがった爪でひっかいた。
「これ取るから、ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね」
少しめくれたガムテープの先を指先で掴んだ女はそれを引っ張り、べりべりと音をたててはがした。
やっと口が自由になった森田は何度か咳き込むと、はがしたガムテープを丸めている女を見上げた。
「誰だよ、あんた」
女はガムテープの固まりをぽいと床に投げ捨てた。
「せっかく助けにきてあげたのに、それはあんまりじゃない?」
女はしゃがんで森田と目線を合わせると、手を伸ばして、まるで犬でも相手にするかのように森田の頬をひと撫でして笑った。
「助けにきたって、あんた、俺らの仲間なのか?」
森田の問いかけを無視して、女は背中ごしにその両手が拘束されている様子をのぞき込んだ。
「んー、これはあたしじゃほどけそうにないなぁ。良かった、ハサミ持ってきて」
女は肩にかけていたハンドバックの口を開けると、裁ちバサミのような大型のハサミを取り出した。己の傍らにしゃがみこみ、手首を縛りあげている紐をジャキジャキと豪快に切り始めた女を、森田はじっと見つめた。
「なぁ、あんた、聞いてんのか」
「リツカ」
「え?」
「あんたじゃなくてリツカ。あたしの名前」
「俺は名前を聞いたんじゃなくて…」
「右手の方、もう少し上にして」
「………」
「ほら、ずっとこのままでいたいわけ?」
「……こうか」
「そうそう。もうちょっとで……はい、切れた」
シャキンと小気味よい音をたてて、拘束は全て解かれた。森田は手を動かして紐の残骸を振り払うと、解放された両手を体の前に持ってきて握ったり開いたりした。しびれて感覚のにぶい手首には、縛られていた跡が赤くはっきりとついていた。
リツカと名乗った女はハサミを床に置くと、森田の顔をのぞいて微笑みかけた。
「よろしくね、森田鉄雄クン」
****
森田はソファーに座って冷たいアイスコーヒーを飲みながら、特にすることもないので、向かいの席で同じくグラスに口をつけながら紙の束を読んでいるリツカのことを眺めていた。
彼女は明るい蛍光灯の下で見ても、やはり美人だった。前髪を目の上で切りそろえているので、深みのある切れ長の瞳が強調されている。スタイルも良く、短いスカートから無造作に伸ばされている生脚につい目が行く。
リツカという名前が本名なのかどうかはわからない。森田は彼女の年齢を二十代半ばから後半とあたりをつけていたが、それよりもっと下だと言われても、もっと上だと言われても納得する気がした。年齢不詳なのだ。
現在、森田はリツカの家にいる。
忌々しい拘束から自由になった森田は、もちろんすぐに平井のところへ行こうとした。
しかしリツカに、「その格好で?お金は持ってるの?」と笑われ、自分がジャケットを着ていないことを思い出した。もちろん、そのポケットの中に入れていた財布や手帳も存在しない。
格好の方も、とてもこのままひとりで街を歩けるようなものではなかった。髪はボサボサで体は汗とほこりにまみれていたし、シャツの右の袖口は赤茶色に変色した血で染まっていた。それに加えて元々あまり人相の良くない顔が、殴られた時にできたあざと固まった血によってさらにひどくなっていた。
よく考えてみれば、そもそもここがどこなのか知らないし、平井たちがどこにいて何をしているのかもわからないのだ。
「うちにいらっしゃい。シャワーくらいなら貸してあげるから」
リツカはくすくす笑いながら言った。
「銀さんに言われたのよ、面倒見てやってくれって。 みーんな忙しくって手が離せないんですって」
おいそれと見知らぬ女の家に上がりこむほど森田は厚顔ではなかったが、無一文では銭湯はおろか、公衆電話すら使えない。ここはこの女の言うことに従うしかないと、森田は渋々ながらも、リツカの呼んだタクシーに乗ったのだった。
「キミ、ずいぶん目ぇかけてもらってるのね。キミみたいに若くて丈夫そうな子なら、一日くらい放っておいたって死んだりしないのに」
タクシーの中でリツカは森田の顔をまじまじと見ながら、感心したように言った。
「天下の銀王様があたしにこんな頼み事するなんて嘘みたい。ほら、あの人ってプライド高いでしょ?人に貸し作るようなことするの、嫌がるのよ。さすがは期待の新人ね」
リツカが住んでいるのは、造りの新しい高級そうなマンションの一室だった。
「とりあえずさっさとシャワー浴びてきなさい」とリツカに背中を叩かれたので、森田はその言葉に甘えることにして、ありがたくシャワーを使わせてもらった。
体と顔をいつもより念入りに洗ってさっぱりすると、かなり気分が良くなった。右の目の下から頬にかけての赤黒いあざこそ消えはしなかったが、着ていたワイシャツとスラックスの埃をできるだけ払い、きちんとエリを整えて着直すと、やっと生き返ったような気分になった。シャツの袖口には相変わらず血の染みがついていたが、まくって隠してしまえば気にならなかった。
きっちりと髪を結び直してから森田が風呂場を出ると、リツカはテーブルの上に皿やグラスを並べているところだった。テーブルの真ん中には、平たく四角い大きな箱が乗っていた。
「あら、さっきよりずっと男前になったじゃない」
「そりゃどうも」
「お昼だからピザを頼んだのよ。キミがお風呂に入ってる間にね。なんでも良かったんだけど、なんだか急にピザが食べたくなっちゃって」
壁にかかっている時計を見ると、十二時半を少し過ぎたところだった。
「お腹、すいてるでしょ」
若い体は現金なもので、そう言われると急に腹の虫が騒ぎ出した。森田は大人しく席に着くと、湯気をたてているキノコとハムのトマトソースピザを口に運んだ。
リツカは少食なのか、ふた切れほど食べてしまうともう手をつけなくなったので、残り全てを森田がたいらげた。森田が食事をしている間、リツカは笑みを浮かべながらその様子をじっと見ていた。ものを食べている様を観察されるのはなんとなく気恥ずかしく、森田は目線を手元と皿の上に落としたまま、空腹を満たすことに専念した。
「銀さんに連絡したら、また折り返し電話するからもう少し待ってろ、ですって」
森田がピザを食べてしまうと、リツカは皿を片付けながらそう言った。
「待機ってことですか」
「ま、そういうことね」
森田はリツカのことを完全に信頼したわけではなかったし、知らない女の自宅にいるというのは気まずいものだったので、正直なところすぐにでもここを出たかった。しかし、そもそもミスをしたのは自分であるため、平井の言葉に逆らうことはできない。
そんなこんなで、現在の状況に至る。
この部屋はまるでモデルハウスのような、 洗練されてはいるが生活感が感じられない、ひどくシンプルな空間だった。あまりにも簡素なので、リツカが普段どんなことをして暮らしているのか全くわからない。
ただひとつ、リビングの奥に置かれている大きなグランドピアノだけが、リツカの素性を知る手がかりのように思われた。
「ピアノ、弾くんですか」
森田がそう聞くと、リツカは読んでいた紙の束から目を上げた。
「弾くわよ。仕事だから」
「仕事……ピアニストなんですか」
「まあ、アマチュアに毛が生えた程度だけどね。バーなんかでピアノの演奏をしてるのよ」
よく見るとリツカの手にある紙は全て楽譜であった。
森田は頭の中で、長いドレスを着て薄暗いバーでピアノを弾いているリツカの姿を思い描いた。なぜかそのイメージの映像の中では、ピアノに一番近い席に平井が座っていて、曲を聞きながらゆっくりと酒を飲んでいるのだった。
ほとんど氷だけになってしまったグラスを揺すってカラカラと音をたてながら、森田は次の言葉を探した。
「あの、こんなこと聞くのはあれなんですけど、あなたは…その、銀さんとは…」
「リツカ」
「はい?」
「あなたじゃなくてリツカ。さっきも言ったでしょ」
「えーと、じゃあ、リツカさん」
「なあに」
自分は森田のことをキミと呼ぶくせに、森田の方がリツカをあなたと呼ぶことは許されないらしい。
「リツカさんは、銀さんとはどういう関係なんですか」
「関係?」
「なんというか、愛人、ってやつですか」
「ずいぶんはっきり聞くのね」
「気になるもんで」
「そうねぇ……ちょっとした知り合いなのよ、あの人とは」
答えにならない答えだ。やはり愛人なのだろうか、と森田は思った。
ピアニストがどのくらいの給料がもらえるものなのかはわからないし、リツカの家族関係については一切知らないが、一般的な視点から見て、彼女は年齢と職業の割にいい暮らしをしすぎている。こんな広くて高そうなマンション、普通の生活をしていれば住めるはずがない。
つまり、彼女には何らかの後ろ盾があるということだ。そしてそれはおそらく、彼女が親しげに「あの人」と呼ぶ男なのだろう。
唐突に森田は、 平井のことがうらやましいと思った。リツカのような女を囲えるなんてうらやましいと。そんな嫉妬とも呼べるような感情が浮かぶなんて、森田は自分で自分に驚きだった。
平井が女にモテることを森田は以前から知っていた。彼ほどの器量があれば当然だと思っていたし、ただその男としての価値の高さに憧れと尊敬の念を感じるだけだった。
それなのに、目の前で意味有りげに笑うリツカを見ていると、平井がひどく妬ましく思えてしまうのだ。
「俺のことはどのくらい知ってるんですか」
「そんなに聞いてないわよ。名前と、新入りだってことくらい。話にでたのは一回か二回だけかな。あの人、仕事のこととかほとんど話さないし。でも、キミにずいぶん期待してるみたいな口ぶりだったなぁ」
「銀さんがそんなことを?」
「うん。だから会ってみたいと思ってたの。たしかに、いい顔してる」
森田が何か返答しようと口を開いたその時、ピリリリリと電話が鳴った。
リツカは立ち上がると、ソファーから少し離れたチェストの上にある電話の受話器をとった。
「はーい、もしもし。…あら、銀王様。どうも」
リツカは森田にちらりと視線を送り、わずかに微笑んだ。平井からの電話だ。
「はい、はーい、わかりました。じゃ、すぐ行かせます」
受話器を置くと、リツカはまたソファーに戻ってきた。
「キミの上司からお電話。赤プリのロビーまで来てくれですって」
「赤坂プリンスホテルですか」
「うん。すぐそこが駅だから、そこでタクシー捕まえればいいわ。……ああ、お金ないのか。ちょっと待ってね」
リツカはテーブルの上に置いてあったハンドバッグを引き寄せると、中から革の財布を取り出し、札を抜き出した。
「はい、どうぞ」
無造作にぴらりと差し出されたのは、二枚の一万円札だった。森田は立ち上がってそれを両手で受け取ると、恐縮の思いで頭を下げた。
「すみません、何から何まで。お金は今度お返しします」
「いいのよ、気にしないで。銀王様にツケとくから」
「いえ、俺が借りたんですから俺が自分で返します」
「そう?」
「はい、必ず」
森田は万札を半分に折ってスラックスの尻ポケットにねじこみ、もう一度頭を下げた。
リツカはソファーから立ち上がると、すぐそばまで歩いてきて、森田の顔に向かって腕を伸ばした。森田が思わず硬直してリツカを見つめると、彼女は首をかしげていたずらっぽく微笑んだ。
ごく近いところで焦げ茶色のストレートヘアーが揺れた。
「今度はピアノ聞きにいらっしゃいな、森田クン」
伸びてきた白く細い手でぴたぴたと軽く頬を叩かれた森田は、その瞬間、まるで雷に撃たれたかのように恋に落ちてしまったのだった。