※「
盆踊りと沢田 」の続きです。
ソファーに腰かけて店内の様子を眺めていた沢田は、ちらりと腕時計に目を落とした。午後3時10分。そろそろ出かけねばならない時間だ。
沢田は立ち上がり、布巾で雀卓を拭いていたリツカに声をかけた。
「すまねぇが、俺はそろそろ出るよ」
リツカはぱっと顔を上げて手を止めると、慌てたように沢田の側にやって来た。
「なにかご用事ですか?」
「ああ、これから事務所に寄らなきゃいけねぇんだ。店を頼むよ」
そう言いながら、ドアの脇のハンガーにかけていた上着を取り、袖を通す。その間リツカは、落ち着かない様子できょろきょろとあたりに目をやりながら、店の制服であるエプロンの裾を握ったり離したりしていた。
沢田は上着のえりを整えると、「それじゃあ」と言ってリツカに向かって軽く手を挙げ、少しばかり微笑んだ。リツカは頭を下げてから、どこか緊張したような面持ちで沢田を見上げた。
「あの、沢田さん、ちょっとだけお時間いいでしょうか。すぐにすみますので」
「ん、なんだい」
「すみません、その、ここだとあれですので、外でも…?」
「ああ、構わないが」
沢田がドアを開けて雀荘の外に出ると、リツカも後ろについて外に出た。相変わらずリツカの表情は固い。
沢田の経営するこの雀荘は雑居ビルの2階に位置しているため、 ドアから出るとすぐに階下へと降りるための階段が現れる。打ちっぱなしのコンクリートでできた階段を、冷たい風が吹き通った。
「どうした、なにかあったか」
店の中では言いにくい話となると、タチの悪い客が来るようになって困っているという類いか、でなければ給料か待遇のことだろうかと沢田は考えていた。しかし、リツカの口から飛び出したのは、沢田の予想を全て裏切るものだった。
「その、今週の金曜日、なんですけど」
「金曜日?」
「バレンタインデー、です」
「あ…ああ……、そういやそんなイベントもあったな…」
今日は2月10日の月曜日なので、次の金曜日は2月14日、つまりバレンタインデーにあたる。存在こそ認識していたが、沢田のような人種にはほぼ縁のない行事なので、今の今までそんなものがあることすらすっかり忘れていた。
「だから、あの、これ、チョコレートです」
リツカはそう言いながら、後ろに回していた手を前に出した。いつの間に用意していたのか、そこには平たく四角い箱があった。
箱は濃いブラウンの包み紙でラッピングされ、赤いリボンが美しく結ばれている。包み紙には、有名な外国のチョコレート専門店の名前が金色のインクで印字されていた。
「……俺に、か…?」
「はい。いつもお世話になってますから。本当は当日に渡したかったんですけど、会えるかわからないですし」
「そうか。ありがとう、嬉しいよ」
沢田は箱を受け取ろうと手を伸ばしたが、リツカは箱を差し出そうとはせず、目線を手元に落とした。
「あの、私、もうすぐここを辞めちゃうでしょう」
「その予定だな」
「だからっていう訳ではないんですけど、その、なんというか、」
リツカは現在、大学4年生である。もう就職先は決定しており、来月には卒業を控えている。この雀荘でのアルバイトは、卒業と同時に辞めるということで話はついていた。
リツカはちらちらと沢田の顔を見ながら、今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。沢田はただならぬ雰囲気を感じたものの、リツカの言わんとしていることが掴めず、軽く首をかしげながら言葉の続きを待った。
「月並みでなんのひねりもなくて、申し訳ないとは思うんですが、言わせてください」
リツカは頭を下げ、チョコレートの箱をぐいっと沢田に差し出した。
「ずっと前から好きでした、私とお付き合いして欲しいです」
どっかーん!と、沢田の頭の中でなにかが爆発したような音がした。
もちろん、そんなものは沢田の幻想に他ならないのだが、沢田はその爆発の衝撃から立ち直ることができず、目を見開いて固まった状態のままそこから動くことができなかった。
どうして俺なんかに、そもそも付き合うってのは、好き、好きってなんだ、なにかの間違い、悪い冗談、罰ゲーム、賭けかなにか、まさかのドッキリ……沢田の脳裏を、様々な言葉の断片が凄まじいスピードでかけ巡っていった。
「……おい…そりゃあ……」
頭を上げたリツカの顔は真っ赤に染まっており、目尻には少しばかりの涙がにじんでいた。そのリツカの様子に沢田はまた頭を殴られたような衝撃を受けてしまい、なにも言うことができなかった。
しばしの間、ふたりは続ける言葉が見つからず、目を合わせて黙っていた。気まずい沈黙が流れる。
とうとうリツカは静寂に耐えかねたらしく、うつむいて唇を引き結ぶと、チョコレートの箱を沢田の胸に押しつけた。
「…ごめんなさい…急にこんなこと……ごめんなさい…っ……」
リツカは下を向いたまま沢田に背を向けると、慌ただしくドアを開け、店の中に駆けこんでしまった。ドアの上に取りつけられているベルが、場の空気にそぐわない涼しげな音でカランカランと鳴った。
沢田は箱を片手に突っ立ったまま、雀荘のドアの前で呆然と風に吹かれていた。
***
「はぁ……」
焼酎の水割りをぐっと飲み干し、沢田はまた小さくため息をついた。
向かいの席で焼き鳥をかじっていた天は、ひそかにやれやれと思った。この店に入って1時間、沢田はずっとこんな調子なのだ。
「もう、なんなんすか」
「お前にはわからんかもしれねぇがな、本当に困ってるんだよ俺は」
「困ることなんかなんもないと思うんだけどなぁ……」
「おい、いいか、天。何度も言うがな、あの子はカタギで、しかも大学生なんだぞ」
「もうすぐ卒業っすよ」
「どちらにせよ俺よりひと回り…いや、ふたまわり近く年下だろう。俺のガキくらいの歳じゃねぇかよ」
「そうなりますね」
「ちゃんとした会社に就職も決まってる」
「らしいっすね」
「それに比べて俺はどうだ?歳は食ってるし、陽の当たらんとこでしか生きられねぇ極道もんで、しかもバツイチときた。どう考えても数え役満じゃねぇか」
沢田は眉間に深いしわを寄せながらハシを取り、皿の上のさつま揚げを口の中に放りこんだ。
数え役満なら役なしよりよっぽどいいじゃんかと天は思ったが、その言葉は胸の内だけにとどめておくことにした。
「リツカちゃんだってそのくらい承知の上ですって。あ、ビールで良ければつぎますよ」
「ああ、悪いな」
天はビールのビンを手に取り、からになっていた沢田のグラスにビールを注いだ。適当にビンを傾けたため、グラスの半分ほどを泡が占めることになってしまったが、沢田は気づいてもいないような様子でそのビールに口をつけた。
「あの子はヤクザがどんなもんなのか、ちっともわかっていないんだ」
「……つーか、ヤクザならむしろ若い女囲ってなんぼなんじゃないんすか?」
いつもより早いピッチで酒を飲んでいるためか、酔いでやや顔を赤くした沢田は、向かいの天をじろりと見やった。
「俺はな、女に関しちゃもうこりたんだよ」
「ってぇと、前の奥さんの話っすかね」
「ああ。所帯まで持っておいて、俺はあいつらになんにもしてやらなかった。最低な人間だろ?だから、今さら他の女とどうにかなる資格なんてないんだ」
あいつら、と複数形なのは、別れた元妻に加えてその子供も入っているからなのだろう。
「俺にはわからねぇよ。こんなくたびれた中年男のどこに魅力があるってんだ?きっと、いや絶対に、これはなにかの間違いなんだ。あの子はなにか勘違いをしてるんだよ。そうに決まってる。そうでなけりゃおかしい」
天は揚げ物をつついていたハシを止め、ビールを飲む沢田の顔をじっと見つめた。
夜の8時半を過ぎた居酒屋の中は、ほどよく酒の入った客達の上機嫌な声で溢れていた。しかし天と沢田が差し向かいで飲んでいるこのテーブルだけは、少々空気が重たい。
「じゃあ、リツカちゃんの気持ちはウソだってんですか?」
沢田は少し考えこむ素振りを見せてから、グラスを置いた。
「ウソだとは言ってない。ただほら、わかるだろ?あのくらいの年頃だと、ちょっと道徳やら法律やらから外れたもんに惹かれたりすんだ。今回のことはその延長線上というか、一時の気の迷い、若気の至りみてぇなもんなんだろうよ」
沢田がそう言って目線を皿の上に落とした瞬間、天が飲んでいたビールのグラスを机の上にどんと叩きつけた。その衝撃で、グラスの底に少し残っていたビールが激しく波うつ。
驚いて顔を上げた沢田の目に映った天は、わずかに怒りを含んだような厳しい表情をしていた。
「見損ないましたよ、沢田さん。アンタ、ぜんっぜん男らしくない」
「……なんだと…?」
「リツカちゃんがどんな子か、ちゃんと知ってんでしょ?なんとなくだとか、興味本位とか、そんなんでほいほい付き合ってくれなんて言う子じゃ絶対にない。それに、勘違いなんかしてないですよ。リツカちゃん、沢田さんのこと全部知ってますもん。どんな人かってのも、仕事のことも、全部。そうでしょ?」
「…ああ……」
「ものすげえ悩んだと思いますよ、リツカちゃん。それでも自分の気持ちを真剣に考えて、沢田さんと真っすぐ向き合おうとしてんじゃないんすか」
天はテーブルの端に置いてあったタバコの箱を掴み、中から1本を取り出して火をつけた。炎がじりじりとタバコの先を焼き、白い煙が立ち上る。
「それなのに、沢田さんのほうはなんなんすか。なにかの間違いだとか、そんなはずないとか、全部相手のせいってことにして、リツカちゃんと正面から向き合うことから逃げてるだけじゃないっすか」
天の言葉に、沢田は静かにうなだれた。
「…そうだな……その通りだよ、天」
逃げていた。たしかにそう言われてみればそうかもしれない。彼女はあんなにも真剣だったのに、自分はどうだろうか。言い訳ばかりしてはいなかったか。
天の言う通り、男らしくなかったかもしれないと、沢田は自らを省みて恥ずかしく思った。
「ぶっちゃけ、沢田さんはリツカちゃんのことどう思ってるんすか?」
「なんだその、どう、ってのは」
「沢田さんの素直な気持ちっすよ。雇い主としてっつうか、ひとりの人間としてっつうか」
「…そうだな……あの子は…真面目でよく働くし、愛想もいい」
「見た目は?」
「あ?」
「見た目ですよ、見た目。顔とか体とか。オレはかなりかわいいと思ってますよ、リツカちゃんのこと。リツカちゃん目当てで来てる客も多いらしいじゃないすか」
「ああ、そうらしいな。……まぁ、かわいいと思うよ、服の趣味もいいし…」
天はタバコの灰を灰皿の上に落とし、きらりと目を光らせた。
「つまりさ、好きなんでしょ、リツカちゃんのこと」
「……それとこれとはまた少し違うだろう…」
「好きか嫌いかで言ったら好きでしょ」
「…そりゃあ……な」
「でしょ?」
にやにやと口角を上げている天をちらりと見やり、沢田は脱いであったジャケットのポケットを探って、中からタバコの箱とライターを取り出した。くわえたタバコに火をつけ、本日何度目かのため息と共に煙を吐き出す。
「そうさ、そうだよ。あの子がいい子だって知ってるからこそ、俺みたいなのと関わったせいでせっかく開けてる未来をつぶしたくないんだ。こんなおっさんなんかじゃなく、もっと普通の、若くて真っ当な職に就いてるような男と一緒になるべきなんだ……」
「あ、オレとか?」
「お前にはもういるだろ、やたらと元気のいいのが2人も。それに、代打ちのどこが真っ当な職だってんだ」
「でも、沢田さんがいらないってんなら、別にオレがもらっちゃってもいいっすよね」
天はにやっと笑うと、自分のグラスにビールをつぎ足し、からになった茶色いビンをテーブルのすみに押しやった。
「女の子おとすんなら、失恋して傷ついてるとこが一番いいんすよ。半分くらいヤケになってるし、話聞いてあげて、ちょっと優しくしてあげればもうオッケー。あとは酒の勢いでも借りてホテルに連れこんじゃえば、それでおわり」
「…天……お前……」
「はい?」
「あの子にちょっとでも妙なことしてみろ…いくらお前でも容赦しないぞ……」
沢田は手にしたタバコを握りつぶさんばかりの勢いで天をにらみつけた。酔っているとはいえ、その筋の人間にあからさまな憤怒を向けられ、さすがに天の笑顔も凍る。
「や、やだなぁ、冗談ですよ、冗談。…さすがに3人目となるとオレも体力的にキツいし…」
「あ゙あ?」
「だから冗談ですってばぁ」
「お前が言うとシャレに聞こえねぇんだよ」
「でも沢田さんってば、リツカちゃんのこと大事に思ってるんじゃないっすか」
「当たり前だろう。従業員を危険から守るのもオーナーの仕事の内だ」
「危険って……」
天はテーブルに頬杖をついてタバコをふかしながらなにやら考えていたが、突然、「あ」と声を漏らした。灰皿を引き寄せて短くなったタバコをもみ消し、天は沢田の方に目を向けた。
「ちょっと待ってくださいよ。リツカちゃんが沢田さんの言う通り、若気の至りで悪い男に憧れてるんだとしたらですよ、このままほっといたらその内もっとヤバいやつにひっかかるんじゃないっすかね」
「む……たしかに、そういう考え方もできなくはないが……」
「だって、沢田さんに惚れるくらいなんすよ?」
「ああ…そうだよ、そこなんだ。それだけがどうしてもわからん。あんなにごくごく普通の素直な子なのに、なんで俺なんだ?まったく意味がわからねぇ」
「でしょ?その意味のわからないセンスを持ってるリツカちゃんなんだから、このままにしとくと危ないですよ。沢田さんとこの若いのくらいならいいですけど、もっとヤバめなやつんとこにふらふら行っちゃうかも。そしたら素直でいい子なぶん、下手すりゃ最悪の展開が待ってますよ」
「最悪の展開…」
口にこそ出さなかったが、沢田は本業である分、天の言う『最悪の展開』を凄まじいまでのリアリティーを持って想像することができた。アルコールの回った沢田の脳裏には、さんざん男に貢がされたあげく、つくった借金返済のためソープに沈められるリツカの姿がありありと浮かんでいた。
「それはまずいな…」
「だったらほら、リツカちゃんのこと近くで見張っとかないと」
天は笑顔を見せると、皿の上にひとつだけ残っていた鶏の唐揚げをハシで突き刺した。それは誰もが好感を持ちそうな屈託のない笑みだったが、沢田は疑り深げに眉間にしわを寄せながら、グラスに残っていたビールをあおった。
「天、お前もしかして、俺とあの子をくっつけようとしてるのか…?」
「あっ、バレました?だってそのほうが面白いし」
「てめぇを楽しませるために悩んでる訳じゃねぇんだぞ」
「それにオレ、リツカちゃんが泣くとこなんて見たくないんですもん」
「……そんなの、俺だって同じだよ…」
沢田は小さな声でそうつぶやくと、タバコの煙を細く長く吐き出した。天は唐揚げをほおばりながら意味ありげにうなずいた。
「ま、最終的に答えを決めるのは沢田さんですからね、オレはなんも言えないすけど。真剣に考えてあげてやってくださいよ」
***
ポケットに手を突っこみながら雀荘に入ってきた天は、客にコーヒーを出しているリツカの姿を見つけると、ぶんぶんと大げさに手を振った。
「リツカちゃーん」
「あ、天さんだ。いらっしゃいませー」
夕方から夜に差しかかろうかという時刻の店内は、平日とはいえそれなりに客がおり、がやがやと賑わいを見せていた。
からになった食器を盆に乗せて、流し台まで戻ってきたリツカは、店の中を見渡してから天の顔を見上げた。
「ごめんなさい、今ちょうどよく埋まってて、あいてる卓がないんです」
「あ、いいよいいよ、待ってるし。てか、そんなことよりさ、」
天は腰をかがめてリツカの耳元に口を寄せ、小さな声でささやいた。
「その後どうよ、沢田さんからお返事きた?」
リツカは少し間を置いてから、にっこりと笑って見せた。
「ええ、つい3日ほど前に」
「おお!で?で?」
「ふふふふ、やりましたよ、天さん」
「なにぃ!マジか!」
「はい、『まずはお友達から』だそうです!」
リツカは嬉しくてたまらないといった風に頬をゆるませ、天の腕を掴んで小さくぴょこぴょこと飛び上がった。喜びを抑えきれない様子のリツカとは裏腹に、天は思わず眉をしかめ、口をへの字に曲げていた。
「なんじゃそりゃあ…、まったく、中学生かってぇの…」
「でもでも、断られてはいないわけですよね?」
「まぁなぁ」
「さらになんと、自宅の電話番号もゲットしたんですよ」
「イエデンかい!」
「あの人、ポケベルも携帯も持ってませんからね。もう私、嬉しくって嬉しくって」
「うーん、ま、オレが突っつきまくったのがきいたね。さすがの沢田さんでも、まさかオレとリツカちゃんが最初からグルだとは気づくめぇ」
リツカは天の腕を離し、にこにこしながらカウンターの内側に入った。天はドアのそばのソファーに勢いよく沈むと、得意げに笑った。
「けっこう神経使ったんだぜ?さりげなーくリツカちゃんの話題になるように誘導して、さりげなーく相談事として引きずりだして」
「ふふん、沢田さんのことだから、もし相談するなら天さんだろうとは思ってましたよ」
「やっぱオレ、信頼されてるし?」
「ほんと、天さんのおかげですよ」
中身が少なくなっていた電気ポットに水をつぎ足しているリツカを見つめながら、天は腕を組んだ。
鼻歌まじりで雑務をこなしているリツカは、どう見てもごく普通の若い女の子である。これがあの沢田をあそこまで弱らせているのだから、世の中わからない。
「しっかしさぁ、リツカちゃんも変わってるよなー」
「え?そうですか?」
「だって、よりによって選んだ相手が沢田さんなんて」
「なにかおかしいですかね」
「うん。かなり」
「そうかなあ……だってあの人、すごくかっこいいし、それにかわいいじゃないですか」
「…かわいい……か…?」
「なんだかほっとけない感じっていうか。天さんは男だからわかんないんですよ」
天は頭の中で沢田のことを思い描いてみたが、『かっこいい』はまだしも、彼が世間一般で言うところの『かわいい』に当てはまるとはとても思えなかった。それはリツカの言う通り天が男であるからなのか、それともリツカの目に分厚い色眼鏡がかかっているからなのかは、かなり微妙なところだ。
「沢田さんのことをずいぶん困らせて、悩ませてしまったことはわかってます。本当はね、言うつもりなんてなかったんですよ。私の中だけの秘密にしとこうって。だって、どう考えたって断られるだろうし、それなら沢田さんの心を無意味にわずらわせるのは申し訳ないから」
リツカはカウンターに置いてあった紙の束を整理しながら、やや自嘲気味に眉を下げた。
「でもね、もうあと少しで沢田さんと会えなくなると思うと、耐えられなかったんです。断られて楽になろうなんて、自己満足でしかないってわかってたけど。でも、勇気だしてみて本当に良かったです」
「うん、オレもそう思うよ」
「ここを辞めても、会いに来ていいってことですよね」
「いいんじゃねぇの。お友達なんだから」
「お友達ですもんね」
天とリツカは、顔を見合わせて楽しそうに笑い合った。
その時、カランカランとドアベルが鳴った。
噂をすればなんとやら、やって来たのは、現在のふたりの話題の中心であり、この店のオーナーである男だった。
「沢田さん!」
リツカはその姿を認めると、ぱっと顔をほころばせた。今日いちばんの笑顔だった。
「……おぅ」
沢田は低い声でそれだけ言うと、どこか照れたように目を細めた。