土曜日の午後二時すぎ、例のごとく連絡もなしに、赤木はリツカの住むマンションへとやって来た。つい先ほど起きて、朝食兼昼食を食べ終えたばかりのリツカは、あくびをしながら赤木を迎え入れた。

「リツカ、今日仕事は?」
「お店が定休日だから休みです」
「どっかの客とデートの予定が入ってたりしないのか」
「わたし、同伴とアフター以外の時間外デートは基本的にしませんから」

部屋の中に入ってきた赤木は、いつも身軽な彼にしては珍しく、大きな紙袋を持っていた。土産物かなにかだろうかとリツカは少々期待したが、よく見るとその紙袋は大型紳士服チェーン店の物だった。
赤木は居間にあるソファーに腰をおろすと、紙袋の中をあさり、黒い布製のスーツカバーと、紙箱をひとつ取り出した。

「赤木さん、これ、スーツ?」
「そうだよ。リツカ、ハサミあるか?」
「たぶん、どこかには」
「貸してくれ」

リツカが引き出しの中からハサミを出して持ってくると、赤木は袋の中からスーツを引きずり出し、タグをハサミで切り始めた。中から出てきたそれは、ごく普通の真っ黒いスーツだった。

「スーツ、しかも黒いスーツなんて、どうしちゃったんですか赤木さん」
「んー、実はな、葬式があんだよ、明日」
「お葬式?」
「ああ。何度か代打ちやったことあるとこの会長。ま、ちょっくら世話になったし、葬式くらいは行ってやるかと思ってよ」
「あ、喪服なんですね、これ」
「そうだよ。黒いスーツなんて持ってねぇからさ、慌てて買ってきたんだ」

スーツの上下と白シャツ、黒いネクタイ。それが紙袋に入っていた全てだった。

「ちょっと意外。赤木さんがそういうこと気にするのって」
「そういうこと?」
「お葬式だろうがなんだろうが、いつもの服でそのまま行くようなイメージありましたから」

リツカはソファーに座っている赤木の服装を見やった。今日の赤木は、なんとも言えない抽象画のようなガラの入った赤い開襟シャツに、ベージュのスラックスを合わせている。
似合っているのは確かだが、とても普通のサラリーマンには見えない格好だ。赤木はいつもこんな感じの、どこで仕入れているのか首をひねりたくなるような服を着ている。

「あー、そうだな。俺だってめんどくせえよ。でもよ、ヤー公ってのはそういう礼儀だとか仁義だとかいうのをやたら気にする人種なんだ。会長の葬式に白い服なんかで行ってみろ、本気で殺されるよ」

赤木はそう言いながら、ビニール袋を開けて白いワイシャツを取り出した。型崩れしないように入れてある厚紙を抜き取り、シャツをばさりと広げる。

「ちょっと着てみるかな」
「え、お店で試着したんでしょ?」
「したけどよ。俺、店の試着室って好きじゃねぇんだ。あそこじゃてきとーにパッと着ただけだからよ、もっかい着てみてもいいだろ?」
「まぁ、べつに、構わないですけど」

リツカの返答が終わる前に、赤木はさっさと自分のシャツのボタンを外し始めた。まさかこの場で着替えるなどとは思わず、唖然としているリツカを無視して、あっという間に全てのボタンが外されていく。
赤木の指がベルトのバックルを外しにかかったので、リツカは慌てて目をそらし、ごまかすように台所へ向かった。
リツカは男の裸に頬を染めるような初心でもなく、赤木とだって知らぬ仲ではない。だがこうして白昼堂々、居間の真ん中で着替えられると、やはり目のやり場に困る。

しかし、来てはみたものの台所でやることなど特にない。あたりを見渡すと電気ケトルの中にお湯が少し残っているのが見えたので、リツカはあの傍若無人なお客人にコーヒーをいれてやることにした。


「リツカ」

マグカップの中のインスタントコーヒーをスプーンでかき混ぜて溶かしていると、赤木からお呼びがかかった。

「ちょっと待ってください」

リツカがマグカップを二つ持って戻ると、赤木は白いシャツに黒スーツ姿になっていた。その首には不格好な結び目のついた黒いネクタイが引っかかっており、彼はそれをいじりながら眉をひそめている。

「お前、ネクタイ結べるか?」
「ええ、たぶん」
「そりゃよかった。これ、やってくれ」

赤木は妙な具合に絡まったネクタイをなんとか首から外し、それを元の通りの一本の布にほどいた。リツカはマグカップをテーブルの上に置き、そのネクタイを受け取った。

「できないんですか」
「普段しねぇから」
「じゃあ結んであげますから、ボタンを一番上までとめて、襟を立ててください」

赤木は神妙な顔をしてボタンをとめ、大人しくシャツの襟を立てた。
リツカは赤木の首にネクタイを回し、左右の長さを調節して合わせた。赤木は歳の割に背が高い方なので、こうして向き合うとリツカの目線はちょうど赤木の喉元のあたりになる。
時折悩ましげに眉を寄せながらも、リツカは両手を動かしてネクタイを結んでいった。

「ね、赤木さん、知ってる?」
「なんだ」
「女性から男性にネクタイをプレゼントするのって『あなたに首ったけ』とか、そういう意味があるんですって」
「ふーん」
「輪っかとして首につける物ですからね。ネックレスなんかもそうですけど、輪になってるアクセサリーは束縛の象徴なんだとか」

リツカがネクタイの小剣を下に引っ張り、結び目を持ち上げてぎゅっと締めあげたので、その窮屈さに慣れていない赤木は思わず顔をしかめた。
全体の長さを調整して、形を整える。リツカは少し顔を離し、バランスを確認した。

「ま、どっかで読んだ雑誌の受け売りですし、どこまでホントかわかりませんけど。はい、出来ましたよ」

立てた襟を戻してやり、結び目の位置を整えてから、リツカはうなずいた。赤木の首元には、最もシンプルなプレーンノットが美しく出来上がっていた。

「おお、すげえ、ちゃんと出来てる。さすがはクラブのホステス様だなぁ」

部屋のすみに置いてある姿見をのぞきこみ、赤木は感嘆の声をあげた。

「赤木さん、そういうかっちりした格好も似合いますね。普段からネクタイすればいいのに」

リツカの口から出たその言葉は、お世辞ではなく本心だった。
スーツの黒によって体全体が引き締まって見えるし、ネクタイで縦のラインが強調され、元々すらりとした体格なのが更にスタイル良く見える。赤木は日本人にしてはやや彫りの深い西洋系の顔立ちをしているので、これで黒いサングラスでもかければ、そのまま外国のアクション映画にでも出てきそうだった。

「けっ、やなこった」

赤木はソファーにどかっと座ると、マグカップを手に取った。リツカも赤木の隣に腰をおろすと、赤木がコーヒーを飲む様子を黙ってぼんやりと眺めていた。
南向きの大きな窓からは、昼下がりのあたたかな日射しが部屋の中を照らしている。寒すぎず暑すぎず、小春日和と言うに相応しい陽気だった。
ジャケットの前のボタンをとめていないので、前かがみでコーヒーを飲む赤木の膝のあたりでは、黒いネクタイの先がゆらゆらと揺れている。

「ネクタイピンでもあったら良かったんですけど。残念だけど手持ちにないもので」
「タイピン?」
「ええ、あると便利かも」
「使い方がわからん」
「わたしが教えてあげますよ。そうだ、ひとつプレゼントしてあげましょうか」

リツカがそう言うと、赤木はマグカップを置いて、にやっと笑った。

「なんだ、そんなに俺を縛りたいのかい」

リツカがぽかんとしていると、赤木は「束縛の象徴なんだろ、ネクタイは」と続けた。

「べつに、わたしはそんなつもりじゃ……」
「そうか?」

赤木は尚もにやにやしながら、リツカの髪をひと筋つまんで軽く引っ張った。

「ちょっとくらいなら縛られてやってもいいぞ。なにごとも経験だから。ほら、紐でもロープでも持ってきな。なんなら縛るほうだっていいんだぜ」
「……赤木さんにそんな趣味があったなんて知りませんでしたよ」

リツカは呆れたような視線を赤木に送りつけ、髪を引っ張っている手をぴしっと指で弾いた。
そのままリツカはなにやら赤木の顔を見つめたまま考えこんでいたが、ふいに両手を伸ばし、赤木の首にあてがった。彼女の予期せぬ行動に、赤木は少しばかり驚いた様子で身じろいだ。
リツカはそれを無視して、赤木の襟元の結び目に指をかけ、引っ張った。しゅるりというわずかな衣擦れの音をさせて、ネクタイはあっけなく抜き取られた。

「やっぱり前言撤回。赤木さんはネクタイなんかしないほうがいいですね。そのうちこれで誰かに絞め殺されそうだから」

リツカはネクタイの結び目をほどくと、丁寧にシワを伸ばした。
そもそも赤木は、自由奔放が服を着て歩いているような男なのだ。束縛なんて、最も似合わない言葉のひとつだろう。

「おいおい、物騒なこと言わないでくれよ」
「だってあなた、絶対にロクな死に方しませんよ。ぜっったいに」
「心配しなくても、なるようになるだけさ」
「ほら、その考え方がまずもうダメ」
「いいんだよ、先のことなんかどうでも。今が良ければそれでいいんだ」

赤木は笑いながら伸びをして、さっさとシャツのボタンを二つ目まで外した。

「うーん、眠くなってきたな。昼寝でもするか」
「あー、寝るならそれ脱がないと、買ったばっかりのスーツがシワになりますよ」
「なら、脱がしてくれ」
「バカなこと言わないでください」

赤木はソファーの上でごろりと横になった。はじに押しやったクッションに頭を預け、伸ばした脚を思い切りリツカの膝の上に乗せる横暴なスタイルに、思わずリツカの眉根が寄る。

「おもい」
「頭がそっちのがいいか?」

悪びれもせずそんなことを言う赤木は、相変わらず楽しそうに笑っている。

そのうち誰かがなんて言わず、わたしが今この場で絞め殺してやろうかしら。

そんなことを考えながら、リツカは手に持っていたネクタイをテーブルの上に放り、自分のマグカップを手に取った。口をつけたコーヒーは、すっかりぬるくなっていた。
日射しはこんなに暖かいのになんでだろうと不思議に思いながら、手始めにリツカは、目の前にある赤木の足の裏をくすぐってやった。



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