赤信号の横断歩道の向こう、十メートル先。コンビニエンスストアの自動ドアを開けて出てきた制服の人影を見て、信号待ちをしていたリツカはあれっと思った。コンビニの前に立ち、手に持ったビニール袋の中を探っている彼が着ているのは、リツカの通う高校の制服である。ややうつむき気味なので判別がしづらくはあったが、その線の細い顔つきには確かに見覚えがあった。
信号が青に変わり、リツカはコンビニに向かって歩き始めた。視界に映る彼の姿はどんどん大きくなっていく。やっぱりそうだ。間違いない。
「宇海くん」
リツカが声をかけるのと、目線を上げた彼がリツカの存在に気がついて大きな目を丸くするのが、ほとんど同時だった。
「あ、藤谷さん」
宇海零は軽く手を振って応えると、にっこりとほがらかに破顔した。
彼は宇海零。リツカの右斜め二つ前の席の、秀才だ。成績は学年トップクラスで、スポーツ万能。人当たりがよく、優しくさっぱりとした性格で、流行りの少年アイドルグループに混じっていそうな整った顔立ち。天は二物を与えずなどと言うが、二物どころか三物も四物も持っている人間だっているんだなぁと、リツカは零を見る度に思うのだった。
しかし、零はその恐ろしいまでの完璧さゆえか、他の生徒達の輪から少しばかり外れているような印象があった。かく言うリツカも、そこまで零と親しいわけではない。休み時間に教室で他愛ない世間話なんかはするし、こうして道で会えば挨拶はするが、その程度の関係だ。
ただのクラスメイトであって、それ以上でもそれ以下でもない。同じ学校で同じ授業を受けていても、どこか近寄りがたい神聖な君子のようなイメージを、リツカは零に対してぼんやりと抱いていた。
「コンビニで買い物?」
「うん、そうなの。昨日からちょっとのどが痛いから、のど飴を買おうと思って」
西の空はオレンジとピンクの混じった色に染まり、二人の影は長く伸びている。風も冷たくなってきた。日没が近い。
リツカは右肩からずり落ちかけていたスクールバッグの持ち手を引っ張って、肩にかけ直した。
「宇海くんは?」
「オレはこれ」
零はそう言いながら、ビニール袋の中から紙の袋に包まれた丸いものを取り出し、リツカの目線まで持ち上げた。白い紙袋には赤字で『中華まん』と印刷されている。
「肉まん?」
「うん。本当はピザまんにしようと思ってたんだけど、セールで二十円引きだったから、こっちにした」
袋の中から肉まんを取り出すと、零は嬉しそうに少しだけ笑った。
「いただきます」
大きく口を開けて、そのふかふかした白い生地にかぶりつく。中から現れた茶色いあんが、ふわっと柔らかな白い湯気をたてた。
口をいっぱいにしながらせっせと肉まんを食べる零を、リツカは突っ立ったまま、自分の用事も忘れてただただ見つめた。コンビニの前で肉まんを立ち食いしている彼の姿は、普段の学校での印象とかなりかけ離れている。しかも、それを選んだ理由が二十円安かったからだなんて。
「宇海くん、買い食いなんてするんだ」
「これからバイトなんだよ。なんか食べとかないともたなくって」
「バイト…、してたんだ」
「うん」
「なにやってるの?」
「食堂。で、皿洗いとか出前とか」
「しょくどう……」
これから働くだろう食堂での零の姿を思い描いて、リツカは神妙な顔つきになった。零はまた口を開けて、肉まんを一口かじった。きれいに揃った白い歯が、西日を受けてオレンジ色に光る。
いつものすました秀才の姿はどこへやら、これではまるで本当に……。
そう思った瞬間には、頭の中だけに留めるはずだった言葉が、リツカの口からするりと飛び出していた。
「なんか、ふつーの高校生みたいだね」
もぐもぐとあごを動かしていた零は、何度か瞬きをしてから、照れくさそうに笑った。
「普通の高校生だからね」
口の端についた肉の欠片をその細い指で拭うのを、リツカは眩しい日差しに目を細めながら見つめた。
「でも宇海くんって、みんなとは違うとこあるから」
「そうかなあ?」
「うん、なんとなく、だけど」
「平々凡々な高校生だよ、オレは」
「そんなことないでしょ」
「そんなことあるよ」
都内でも一、二を争うレベルの進学校の中で、トップの成績を常に維持している彼が、平凡なんて。ずいぶんな冗談だ。
リツカが何と返答しようか考えていると、零は真剣な顔で少し離れた草むらに目をやった。そこでは一羽のハトが、食べられるものを探しているのか、あたりの地面をつついていた。
「特別な人間なんていないんだよ。少しずつ得意なことや苦手なことなんかが違うだけで、それだけなんだ。……いや、違うな。みんな特別なんだ。人間ひとりひとりが、それぞれ特別なんだよ、きっと」
ハトは首を伸ばして周囲を見渡し、忙しげに丸い目をくるくる動かした。それから大きく羽を広げて、空へと飛び立っていった。
「難しいね」
「うん、難しいよ」
駅ビルの向こうに消えていくハトを、口を動かしながら見送る零の視線は優しい。
リツカは、目の前の肉まんから立ちのぼる湯気と、美味しそうな匂いにつられて、自分の胃袋がきゅうと騒ぎ出すのを感じていた。
「なんか、わたしもお腹すいてきちゃったな」
零はその言葉に、手の中で四分の一ほどになった肉まんとリツカの顔を見比べ、おずおずと言った。
「良かったらこれ、食べる?オレの食べかけで悪いんだけど…」
「え?いや、いいよいいよ、お腹すいてるんでしょ?」
リツカは慌てて首を振り、そのまま少し考えてから言った。
「わたしも買ってこようかな、肉まん」
セールやってるみたいだしさ、と言い訳のように付け加え、リツカは足元の小石をローファーの先で転がした。
「じゃあ、オレももう一個買おうかな」
零はそう言うと、何を思ったのか、残りの肉まんを全て口の中に押し込んだ。しかし、一口で食べるには少々サイズが大きかったらしい。眉間にしわを寄せた微妙な表情で必死に咀嚼をする零の姿に、リツカは思わずくすくすと笑い声をもらした。
「もうひとつ食べたのに、まだ食べるの?」
「んん、らってさぁ、」
くぐもった声で返答した零は、なんとか口の中のものを飲み込むと、どこかすねたように唇をとがらせた。
「最近、いくら食べても食べ足りないんだよ」
「成長期だね」
「そうなのかも」
ビニール袋と包み紙を丸めて、店の前に設置されているゴミ箱に捨てる零の背中を見ながら、リツカは涼やかな驚きを感じていた。
同じクラスで日々を過ごしてはいたが、零がこんな子供のようなあどけない表情を浮かべ、裏表なく笑うことなんて知らなかった。リツカのような凡人になど手の届かない、遠い存在だとばかり思っていた。
しかし、今日の零が特別な訳ではなく、彼はただいつもと同じように振る舞っているだけなのだろう。完璧で非の打ち所のない宇海零という虚像を勝手に作り上げ、それを彼自身だとばかり信じていたのは、おそらくリツカの方なのだ。
本当の宇海零は、リツカと同じ十七歳。少年とも青年とも似ているようで異なる、狭間の年代だ。
「今度はピザまんにする?」
「うーん、どうしよう。実はカレーまんも好きなんだよなぁ…。けっこう優柔不断なんだよ、オレ」
「ほんと?わたしもだよ。外でごはん食べるときとか、なかなか決められなくって。たいてい家族の中でいちばん最後までメニュー見ながら悩んでるもん」
「わかるわかる。ああやってたくさん並べられると目移りするよね」
零とリツカはお互いの顔を見ると、おかしそうに笑い合った。コンビニの自動ドアが、かすかな機械音を響かせて開く。
そこで笑っているのは、どこにでもいるごく普通の、きれいな瞳をしたひとりの男子高校生だった。