銀二が贔屓にしている、日本橋のこじんまりとしたフランス料理屋で遅めの夕食をとっている間中、リツカはどこか暗い顔をしていて、始終うわの空といった調子だった。銀二が何か話しかけても、手応えのある返事は返ってこない。
リツカは一般的な女性よりも少しばかりお喋りな性格だ。いつもなら自分や家族の近況に始まり、仕事の進行状況や職場の上司の事から、久しぶりに会った友人の事、近所で飼われている犬の話まで、よくもまあそこまで話題があるものだと思うほどよく喋り、よく笑うのだった。
その話に時々相槌を打ちながら耳を傾けるのを、銀二は密かな楽しみとしていた。しかし、今日のリツカはどうだろう。普段の饒舌はなりを潜め、まるで部屋の隅で怯えて身をすくめている猫のようだった。
「どうしたんだ、顔色が良くないぞ。どこか体調でも悪いんじゃないのか」
「いえ…、大丈夫、です。大丈夫なんです、すみません」
フォークでサラダをつついていたリツカは顔を上げると、頬のあたりをひくりと動かした。笑おうとして失敗したらしかった。
店を出て、駐車場に停められている銀二のドイツ車の所まで来たリツカは、「今日はわたし、家に帰ります」と言った。普段ならば銀二の都合が悪くない限り、このままどこぞのホテルまで二人で向かうのが常であったが、銀二は静かに頷いた。
「わかった、近くまで送るよ」
他者の心を読む事に長けた銀二には、リツカが何を考えているのかが既になんとなくわかっていた。だがそれを顔には出さなかったし、口に出しもしなかった。
リツカは車の助手席で、しばらく何も言わずに身を縮めていた。両手を膝の上できつく握りしめ、あちらこちらに目を泳がせては、また辛そうに項垂れる。
そんな事を何回か繰り返した後、リツカは弱々しい声で「平井さん」と銀二を呼んだ。
「なんだい」
「言わなきゃいけないことが、あるんです」
「ああ。聞くよ」
リツカは銀二の方から顔をそむけ、つぶやいた。
「わたし、お見合いをしたんです」
その声はわずかに震えていた。
「二週間ほど前、です。親戚のすすめで。相手の方は中学校で国語の先生をしている、三十ちょっとくらいの優しそうな人でした。好きな作家が同じだったので、それでけっこう盛り上がって、今度また会おうって話になったんです」
リツカは口をつぐんで、ぎゅっと苦しげに眉を寄せた。車のエンジン音と、二人の息遣いだけが車内に響いている。
どこかのカフェでリツカとその国語教師の男が向かい合わせに座り、コーヒーを飲んでいるシーンが鮮やかに銀二の頭の中を流れた。リツカは好きな小説の話をし、楽しそうに笑っている。相手の男もそれを楽しそうに聞いている。窓から射し込む光は明るく、客達のざわめきがほどよく溢れた店内。コーヒーとケーキの匂い。
暖かく平和で幸せで、そして恐ろしく退屈な光景。
「だから、もうお終いにしませんか」
信号が赤く光った。ブレーキがかかり、静かに車が止まる。
「リツカ」
「………はい」
銀二はリツカの顔を見た。視線を上げた彼女と、まっすぐ目が合う。
「すまなかったな」
銀二がそう言うと、リツカの細い眉が歪み、白い頬に涙がこぼれた。
「どうして、平井さんが謝るんですか……悪いのはわたしです、わたしなんです…、ごめんなさい、ごめん…なさい…」
一度溢れた涙は止まることなく、後から後からリツカの頬を濡らした。
「自分勝手で…ごめんなさい、でも、わたし、もう、無理なんです。平井さんと居ると心が苦しくて、息が詰まってしまうんです。おかしいですよね、だってわたし、わたし、」
「わかってるよ。言わなくても、わかってるさ」
リツカは涙を手でぬぐい、かすかな嗚咽を漏らした。
脆いガラスで出来た球体が、圧力に負けて砕け散るような冷たい感覚を、銀二は胸の中で転がした。予期していたとはいえ、その冷たさはいつもと同じく心に刺さる。半世紀近い銀二の人生において、この感覚を味わうのは何度目のことだろう。
いつもそうだ。その球の美しさに抗えずに手の中で触れたり撫でたりしているうちに、とうとう力を入れすぎて壊してしまうのだ。それが儚いものだという事をよく知っているはずなのに。
最近、リツカが自分といる時、折に触れて苦しそうな顔をしている事を銀二は知っていた。
持病を持つリツカの母親は、二十代も半ばを過ぎたというのに浮いた話の一つもない娘の事を、とても心配しているという事。早く結婚なり婚約なりをして身を固め、母を安心させたいとリツカが思っている事。そのためには銀二との関係は足枷にしかならない事。全て銀二はわかっていた。
「俺は君といる時間が好きだったよ」
ハンドルを切りながら、銀二は自らの口をついて出た嘘くさい台詞に自分で呆れた。
もう無意識の内に動詞が過去形になっている。それに“君といる時間が”だなんて!こんな時ですら銀二は「君が好きだ」と直接言うことが出来ないのだ。
目元を赤く染めたリツカは鼻をすすり、どこか諦めたように微笑んだ。
「わたしも、ですよ。本当は、本当はもっとずっと一緒に居たいです」
「ああ」
「でも、駄目なんです。だって平井さんは、わたしとずっと一緒には居てくれないでしょう」
「……リツカ…」
思った以上に非難めいた声が出て、銀二は唇を噛んだ。ハンドバッグからハンカチを出して目頭を押さえていたリツカは、わずかに肩を震わせた。
責めるような言い方をするつもりはなかった。リツカの言う通りだ。銀二は生涯結婚をしないと若い頃から決めているし、一人の女と添い遂げようなんて考えた事すらない。つまり銀二にとって、女との関係は全て遊びなのだ。本気になった方が負けの、だらだらと続く心地良いゲーム。
「すみません、嫌な質問でしたよね」
「いいや、いいんだ。悪かったよ」
リツカは割り切ったゲームを楽しむには、優し過ぎるし若過ぎる。このまま関係を続ければ、いつか押し潰されてしまうだろう。きっとここらが良い潮時なのだ。
「なぁ、リツカ。俺に気を遣う必要なんてねぇよ。君の人生なんだから、自分が幸せになる道を選ぶべきなんだ」
銀二はぐっとアクセルを踏み込んだ。
「お終いにしよう」
リツカはまた涙をこぼした。
それから銀二は黙ったまま車を走らせ、夜の東京を進んだ。もう夜深けだったが、闇をものともしない眠らぬ街は眩いネオンの光で溢れ返っていた。
大きな街道を抜けて、四角く整備された区画を進めば、リツカの住む新興住宅街に差し掛かる。もう泣き止んで外を見ていたリツカは、服の裾をきつく握った。
銀二がリツカのアパートからすぐの所に車を停めると、彼女はのろのろとシートベルトを外した。
「ありがとうございました」
「ああ」
銀二は手を伸ばして、乱れていたリツカの前髪を直してやった。柔らかな直毛が指をくすぐる。リツカは戻っていく銀二の手を掴んで名残惜しそうに指を絡めたが、すぐに悲しげな顔でそれを離した。
銀二は軽い笑みを見せると、目を細めた。
「じゃあな」
「はい。……さようなら」
車から降りると、リツカは深く一礼をした。顔を上げた時に一瞬だけ銀二を捉えた瞳は、まだ揺れているようにも見えたが、リツカは背を向けて歩き出した。
去って行くリツカの背中を車のガラス越しに見つめながら、銀二は深く長い溜め息をついた。もう、彼女に会う事はないだろうと思った。
***
手に持っていたペンが落ち、床にぶつかった音で銀二は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。ソファーと膝の上に散らばっていた資料をまとめてテーブルの上に置き、銀二はペンを拾い上げた。
つけっぱなしだったラジオからは、アメリカの女性歌手の古い歌が流れている。失恋歌だ。二人の関係はもう駄目になってしまったのだということを、歌手は柔らかな曲調に乗せてゆっくりと歌いあげている。
もう遅いの 遅すぎるのよ
なんとかしようと本当に努力したけれど
私の中の何かが死んでしまって
隠すこともごまかすことも出来ないの
銀二は億劫そうに、古いトランジスタラジオのスイッチを切った。ついでにテーブルの上のグラスを取り、底に少し残っていたラム酒をひと息に飲み干す。
ふと、銀二はリツカの笑った顔を思い出した。
そうだ、好きな俳優が出るから楽しみにしていると言っていた邦画の出来はどうだったのだろう。向かいの家で飼われているという太り過ぎのダックスフンドは、今度こそダイエットに成功したのだろうか。オフィスで育てている鉢植えのサボテンのつぼみはきちんと開いたのか。
リツカから聞いた些細な世間話が、まだ少し霞がかったままの頭をぐるぐると回る。これは失恋ではない。彼は恋などしていなかったのだから。しかし、確かな喪失感がそこにはあった。
どこにでもいるごく普通のOLの、ごく普通の日常が、銀二にはたまらなく愛おしかった。ありふれた彼女の毎日の話を聞いていると、不思議と心が安らいだ。まるで自分がそこらの会社勤めのサラリーマンで、若い女との密かなアバンチュールに浮かれる中年男にでもなったような、そんな。
時計を見ると、午前一時半を少し過ぎた所だった。銀二はわずかに髭が伸びた顎をさすり、シャワーを浴びるために立ち上がった。
リツカが好きな男と結婚し、子供を授かって母親になり、陽の当たるところでずっと幸せに暮らせばいいと銀二は思った。若い頃の過ちなど、自分のような愚かな男にのぼせた馬鹿な時間など、全て忘れて。