「あ、銀二さん!いらっしゃい」

玄関を開けて現れたリツカは、ぴったりしたキャミソールにニットのショートパンツという、ほとんど裸に近い格好だった。長い髪は頭の上の方にまとめあげられており、剥き出しの首筋はしっとりと汗ばんでいる。

「ストレッチ中だったか」
「ええ、そうです。さ、どうぞ入ってください」

リツカはにこにこしながら家の中に銀二を迎え入れ、手に持っていたタオルで額や首の汗を拭った。

「そういう格好で来客の対応をするなって、いつも言ってるだろ」
「うちには銀二さんくらいしか来ないから平気ですよぉ。それにレッスンの時はいつもこんな感じだし」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「ふふふ、ちょうどね、会いたいなぁって思ってたとこだったんです。あ、お茶いれますね。麦茶しかないけど大丈夫ですか?」
「ああ、頼むよ。夜とはいえ外はずいぶん暑かったから、喉が乾いた」

跳ねるような足取りで部屋の中へと消えていったリツカに続き、リビングに入った銀二は、その惨状に思わず顔をしかめた。
リツカのアパートのリビングは、テレビの前にソファーとテーブルが置かれているという、配置自体はごくありきたりなものだ。銀二の頭を痛めている問題は、そこに溢れかえっている物品だった。服や雑誌、メイク用品に髪飾りなど様々な物が散乱し、テーブルの上どころか、下にひかれたラグが見えないほど混沌としている。部屋の隅には、履き潰されたトゥシューズが依然として何足も転がっており(前回来た時に捨てろと言ったはずだ)、ニスの瓶や松脂などの間に混じって、飲みさしのペットボトルやよくわからない紙ゴミなどが散らばっていた。

「相変わらずだなぁ、これじゃあコップを置くスペースもないぞ」

床の上に放り出されていたバレエ雑誌を拾ってまとめてやりながら、銀二は小さくため息をついた。

「寄せればなんとかなりますよー。そこに座っててくださいね」

キッチンで準備をしながら、リツカが声をかける。

「座れって言われてもよ…」

リツカの服が積み上げられたソファーを前に、銀二はぼやいた。この布の山が洗濯した後の物なのか、脱いでから放ってある物なのか、それすらわからない。
銀二は仕方なく靴下やタイツをつまみ上げて脇に寄せ、丸まっていたジーンズを畳み、大きなショルダーバッグを下におろして、なんとか人間がふたり座れる程度の場所を確保した。
ソファーに座ってジャケットを脱ぐ。テレビの近くでは、小さな扇風機が気だるげに首を回していた。

「はい、銀二さん」

麦茶の入ったコップをふたつ持ってやって来たリツカは、ひとつを銀二に手渡して、自分も銀二の左隣に無理やり腰を下ろした。
銀二は喉を鳴らして冷たい麦茶を飲むと、テーブルの上に転がっていたファンデーションとアイシャドーのケースを寄せて、コップを置いた。

「リツカ、もういつものことだから俺もわかってはいるがよ、もう少し、もう少し片づけようぜ」
「えー、今はけっこうキレイな方だと思うんですけど…」
「どこがだ、まったく」

テーブルの上の、銀二のちょうど目の前には、半分ふたの開いた裁縫箱が放置されている。その周りにはピンク色のリボンとゴム、トゥシューズが転がっているので、シューズにリボンとゴムを取りつけようとしていた跡だ。しかしリボンのつけられたシューズは片方のみ。裁縫は半端なまま放棄されているようだ。おそらくは縫い物の途中で飽きてしまい、何か違うことを始めてそのままなのだろう。
こんな散らかった中に針やハサミを置いていては危険だ、せめて裁縫道具はしまえ、と叱ってやろうかとも思ったのだが、銀二は自分が今日ここへ来た理由を思い出し、その言葉を胸の中だけに留めた。

「リツカの誕生日は来月だったよな」
「はい。九月十日ですよ」
「ちっと気が早いんだがな、ほら、誕生日プレゼントだよ」

銀二は自分の革鞄に手を入れると、中から白い封筒を取り出した。麦茶を飲んでいたリツカは目を丸くして封筒を受け取り、銀二の顔を見た。

「開けてもいいですか?」
「どうぞ」

銀二は微笑みながら、リツカが封筒の中から二枚のチケットを取り出すのを見つめた。

「あ…!これって…」
「再来月に東京文化会館でやる、シルヴィ・ギエムの『ボレロ』のチケットだ」
「ギエムのボレロ!すっごく観たかったんです!銀二さん大好き!」

リツカは顔をぱあっとほころばせると、腕を回して銀二の首に抱きついた。銀二はそれをなんとか受け止め、困ったように笑った。

「おいおい、苦しいよ」
「だって、まさかこんなに素敵なプレゼント貰えるとは思わなくって!しかも10列の18番19番って、一階のど真ん中じゃないですか!こんなに良い席、よく取れましたね」
「舞台の席ってのはな、あるとこにはあるもんなのさ」
「それに、二枚あるってことは、銀二さんも一緒に観に行ってくれるんですよね?」
「もちろん」
「あぁ、嬉しいです、銀二さんと一緒に行けるなんて、すごく、すっごく嬉しい」

リツカは銀二の首に腕を回したまま、頬と唇に情熱的なキスを送った。ニューヨークに留学していた経験をもつ彼女は、たまにこうして西洋的な感情表現を見せる。

リツカは都内の中規模バレエ団に所属している、プロのバレエダンサーだ。銀二はそのバレエ団のオーナーと知り合いであり、団の経営が傾いた時に、いくらか金と人脈を用立てて助けてやったことがあった。それ以来、彼は都内で大きな公演を行う時は、必ず案内やチケットを送ってくるようになった。しかし、盆暮れ正月お構いなしで働いている銀二に、ゆっくりバレエを観劇する余暇はなかなか訪れなかった。
あれは去年の春のことだ。その日、銀二は特に何も予定がなく、朝から自宅のマンションにいた。久々の休暇ではあったが、ワーカホリック気味の銀二はやることがなくなってしまうとかえって落ち着かない。仕方なく、煙草を吸いながら溜まった郵便物の整理などをして時間をつぶしていた。
その時たまたま、引き出しにしまいこんでいた葉書の束の中から、バレエの案内が入った封筒を見つけ出したのだ。確認してみると、公演の日程はちょうどその日の夜を含んでいた。気まぐれを起こした銀二は、その場でオーナーに電話をして当日券を一枚確保し、飛びこみで観に行ったのが『ジゼル』の全幕公演だった。

「一度ね、ギエムが踊るのを生で観たいと思ってたんです。この間も雑誌の特集で読んで、いいなって。わたしの憧れなんです、彼女は」
「話には聞くが、そんなにすごいダンサーなのか、シルヴィ・ギエムは」
「ええ、そりゃあもう!なんてったってパリオペの最年少エトワールですもん。ギエムはね、もともと体操をやっていて、そこからスカウトされたっていう異色の経歴の持ち主なんですよ。だからバレエを始めたのはかなり大きくなってからで……」

ジゼルの舞台で、銀二は主役のジゼルよりも亡霊ウィリの女王、ミルタに目を奪われた。涼しい顔で見せる超絶技巧もさることながら、ぶれない上体の軸や繊細な指先の表情など、本当にため息が出るほど美しかったのだ。ブルーのライトに照らされた舞台上のミルタは冷たく厳しく、小さな動きの中にもウィリとしての怒りや悲哀すら感じられるようだった。
だから幕が下りた後、銀二は義理で買ってあった豪勢な花束を持って、まっすぐミルタを演じていたリツカの元へと行ったのだ。あの時、ウィリ達を従えて厳かに踊るリツカは確かに、美しくも冷酷で孤高な女王のように――

(見えたと思ったんだがなぁ)

銀二は口の中だけでそう呟き、麦茶のコップを空にした。
嬉しそうに頬をゆるませながらチケットを見つめ、ギエムについて熱弁するリツカに、女王の面影は微塵もない。

衣装を脱いで化粧を落とした素のリツカは、長年に渡って様々なタイプの人間を見てきた銀二でも、頭を抱えてしまうような存在だった。
才能は十分で、上達するための地道な努力も厭わず、クラシックもモダンもこなすリツカ。しかし彼女にはバレエ以外の部分、具体的に言えば、生きていくでうえでの生活能力が著しく欠如していた。
料理は炊飯器で米を炊くくらいしかできず、掃除や整理整頓は大の苦手。ダンサーだというのに健康管理や食事制限にも無頓着で、面倒だからと近くのラーメン屋で三食すませてしまうような適当っぷり。金の使い方もめちゃくちゃで、給料が入ると後先考えずに浪費してしまい、現在の自分の貯蓄がどのくらいなのかの把握すらしていない。
初めてリツカの部屋を訪れた銀二は、よくここまでひとり暮らしを続けてこれたなと、逆に感心したくらいだ。呆れ果てた銀二の丁寧な指導により、リツカの乱れた生活習慣(特に食事面)は一応は改善に向かっているようだが、現在の部屋の状況を見る限り、片付けだけはまだどうしても上手くできないらしい。

「そういや、今度お前のとこは何をやるんだ?」
「えーと、まだ決定ではないんですけど、たぶん白鳥になると思います」
「白鳥の湖か」
「ええ。ゲストも呼ぶみたいだし、わたしは四羽の白鳥とか、そのへんかな」

リツカはチケットを封筒に入れると、立ち上がって本棚の下の引き出しを開け、中に封筒をしまった。

「そういえばわたしね、銀二さんと最初に会った時、ドロッセルマイヤーみたいな人だなって思ったんです」

リツカはソファーに戻ってくると、また銀二の左隣に腰を下ろした。そのまま銀二の左手をとり、両手で握りこむ。

「でも、本当はロットバルトみたいなヒト」

ほっそりした白い指先の柔らかな感触に、銀二は思わずどきりとした。ロットバルトとは、白鳥の湖に登場する悪魔の名前だ。大きなフクロウの姿で象徴されることが多く、オデット姫とその侍女達を魔法で白鳥の姿に変えて湖に閉じこめている。
銀二はリツカに、自分の仕事についてほとんど話したことがない。それなのに、時折こうして核心を突くようなことを言うのだから質が悪い。

「どうしたんだ、急に」
「別に、なんとなく」
「俺は悪魔って訳かい」
「そうかもしれないですね。銀二さんは悪魔にしちゃ甘いし、優しいですけど」

リツカは目線を下に落とすと、節の目立つ銀二の指を一本一本、確認するようにするすると撫でた。時折、リツカはこうして銀二の手に触れる。じゃれているように見せかけて、さりげなく左手の薬指に指輪の跡がないか見ているのだということに、銀二は以前から気がついていた。

「ひどいなぁ。わたし、こんなに優しくされたら勘違いしちゃいますよ」

リツカは銀二の指に自分の指を絡ませ、握ったり離したりして遊んでいたが、お互いの手と手を俗に言う恋人つなぎの形にして見せると、幼い子どものような顔で微笑んだ。

平たく言ってしまえば、銀二はリツカのパトロンである。経済的な援助をしている訳でも、リツカが活躍できるようバレエ団に圧力をかけている訳でもなかったが、客観的に見ればそうなるだろう。若いバレリーナと金持ちの中年男。周囲から後ろ暗い取引を勘ぐられても、文句は言えない関係だ。
リツカ本人も、そのくらいはわかっていたのだろう。彼女は初めから、銀二に恋人の有無どころか、結婚しているのかどうかすら聞いてこなかった。ロットバルトに囲われる白鳥で構わないと、最初から割り切っていたのかもしれない。
しかしリツカは本来、お世辞や気遣いが苦手で、思ったことをそのまま口にする直情径行な性格だ。都合のいい女を演じ続けるのは、どうやら不可能だったらしい。ここ最近は、緊張を無理やり隠したような顔をして、会話の合間に銀二の私生活について訊ねてくるようになった。銀二はいつもその攻撃を、のらりくらりと上手くかわしている。深く繋がってしまえばもう後戻りができなくなるような気がするから、どうしても応えてやる踏ん切りがつかない。

銀二はリツカのことをかわいいと思っている。それは確かだ。しかし、本気なのかと聞かれれば、口を噤まざるを得ない。銀二自身にも、自分がリツカをどういう位置づけとして考えているのかがわからないからだ。長いこと恋愛を暇つぶしの遊びとして捉えてきた銀二には、恋も愛もとうの昔に、実感として理解できないものとなっていた。金を信頼を名声を得るために感情を押し殺し、少しでも有利に働くよう心を偽り続けてきたせいで、気がつけば銀二の中身は空っぽだった。
若々しい、素直でまっすぐな熱情を身の内に宿しているリツカが、銀二には微笑ましくも眩しい。同時に、好きだ好きだと簡単に愛の言葉を告げる彼女が、本当は少し恐ろしい。誰にも飼い慣らされない彼女の確固たる心は、銀二がはるか昔に深くへ追いやったはずの脆く弱い部分まで浮き彫りにするようだから。

「悪魔ってのはみんな優しいもんなんだぜ」

銀二はリツカの手を握り返し、目を細めて薄く笑って見せた。リツカの好む笑い方だ。歳を重ねて臆病になった代わりに、こんなごまかしばかり上手くなった。

「気をつけろよ、大抵の悪いやつは神様か仏様かって顔で近づいてくるもんなんだ」
「じゃあ騙されても仕方ないですね」
「こら。取って食われてから泣いても遅いんだぞ」
「わたしはそれでもね、いいの」
「いいことないだろう」
「だって銀二さんがロットバルトなら、わたしは呪いを解いてくれる王子様なんかいらないですもん。ずーっと白鳥のまんまで、ぜんぜんいいんです」

それなのにリツカは、こんなにも簡単に銀二を許すのだ。
オーストリアの伝承によると、男に裏切られて死んだ若い娘は、ウィリとなって墓場を踊りながらさまようのだという。悪魔を愛した白鳥は、ウィリになってしまうのか。はたまた、悪魔が陥落するのが先か。

「ボレロ楽しみです。銀二さん、だいすき」

リツカは銀二の手をしっかりと握り、じゃれつく猫のように、銀二の肩に頬をすり寄せた。
口うるさく叱りはするが、銀二はこの散らかった部屋がそこまで嫌いではない。はねっかえりなリツカの頭の中をそのまま表しているような気がするからだ。それに、こんな風にソファーの上で身を寄せ合う口実にもなる。
こうして手をつなぎ、リツカの笑う顔を見ていると、愛なんていう朧げなものを少しは認めてやってもいいとすら、銀二は思ってしまうのだった。


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