「ねーちゃん、久しぶり」
いきなり目の前に男が現れたのでリツカは驚いて立ち止まり、声をかけてきた青年を見上げた。
「……しげる、じゃないの」
「今、買い物帰り?」
「…ええそうよ。夕飯の買い出し」
リツカは食材の入った買物袋をちょっとだけ持ち上げて見せた。夕方へと差しかかった往来はちらほらと人が行き交っており、遠くでは子どものはしゃぐ声が聞こえる。ほのかにだいだい色に染まった道路の上を、学生の乗った自転車が通り過ぎていった。
白い髪をした青年、赤木しげるはゆっくりときびすを返し、勝手に前へと歩き出したので、リツカは慌ててその後を追った。
「しげる、どうしたのよ急に。ずいぶん長いこと顔も見せなかったじゃない」
「なんとなく。気まぐれかな」
「……気まぐれ、ね。とうとう死んだのかと思ってた。突然いなくなったっきり、なんの音沙汰もないもんだから」
「オレも色々あったんだよ」
「ふーん、そうですか。…それで、仕事とかは?ちゃんとしてるの?」
「あー、仕事は……まあ…そこそこってとこかな」
リツカはそのぼんやりとした返事に少しだけ眉根を寄せて、隣を歩くアカギの顔を見やった。
アカギはちらりとだけリツカのほうを見ると、また目線を前へと戻した。
「聞いたよ。結婚するんだってね」
「…相変わらずそういう耳は早いのね」
「相手はどこの人?」
「長野。親戚が長野にいるんだけど、そのつてでね。一度会ったけど、のんびりしてて優しそうな人よ。たしかわたしより四つ歳上で、お役所勤めなの」
「へえ」
「あたしみたいなのをお嫁にもらってくれる人がいるなんて、感謝しないとだめね」
「結婚したらそっちで暮らすんだろ」
「ええ。きっとあのへんは雪がたくさん降るんでしょうね」
リツカはおぼろげにしか知らない長野という土地について思いをはせた。生まれ育ったこの東京とはどのくらい違う場所なのだろうか。そして夫となる人と、どんな生活を送ればいいのだろうか。
アカギはズボンのポケットから煙草の箱とマッチを取り出すと、器用に歩きながら煙草をくわえて火をつけた。西日を受けて、二人の影が長く伸びる。
「名字が赤木じゃなくなるから、もうあんたのねーちゃんじゃなくなるね」
リツカは笑ってアカギを見上げたが、アカギは黙ったまま煙草の煙を吐き出すばかりで、なにも答えなかった。
アカギとリツカは家が近く、歳も同じくらいだったため、幼いころから共に育ってきた。血縁関係はなかったが、たまたま二人とも名字が同じ「赤木」であったので、アカギは昔からリツカのことを「ねーちゃん」と呼び、いつもまるで本当の姉弟であるかのように振る舞っていた。
アカギは小さなころから不思議な少年だった。友だちと呼べるような友だちもおらず、全てを見透かしたような悟りきったような態度を見せたかと思えば、年相応の無邪気さをあらわすこともある。
リツカはいまだにアカギがなにを考えているのかさっぱりわからないし、他人を寄せつけない彼がなぜ自分を慕ってくれるのかもわからなかった。
二人の共通点といえば、お互いに家庭環境が良好でなかったということだろうか。
リツカは父親を先の戦争で亡くしており、家族は忙しくて家にいないことの多い母親だけだった。その母も三年前に病気で亡くなっていて、リツカは現在ひとりで暮らしている。アカギも家がある以上は家族がいたはずだが、リツカはアカギの家族をろくに見たことがなかったし、アカギもそれについて話すことはなかった。
そもそもアカギはたいして口数の多いほうではなかったから、リツカも二人でいるときはそれに合わせてあまりしゃべらなかった。ただなんとなく気がついたら側にいて、時折ぽつぽつと会話をして、またふらりと別れて。
リツカはアカギのことを弟のように思ってはいたが、それでいて本当にこんな弟がいたら嫌だとも思っていた。だから必要以上に干渉し合うこともなかった。それくらいの距離感がアカギにはちょうど良かったのかもしれない。
なんにせよ、もうすぐリツカはここを去り、長野へと嫁ぎに行く。もともと赤の他人である二人の奇妙な姉弟関係も、それで一応の終わりを迎える。
「少し、心配だわ」
「なにが」
「知らないところでやっていけるかってこともそうだし、それから、あんたのことも」
「……オレは大丈夫だよ」
「そうかしら」
「ああ」
「あんまり無茶なことしないでよ」
「わかってる」
バス停の先を曲がり、子どものころよく遊んだ境内の広い神社の前を通り過ぎれば、リツカの住む家はもうすぐそこだ。
煙草を吸いながら隣を歩くアカギの表情は読めない。リツカとアカギの間には白い煙が流れるばかりだった。
「ねぇ、しげる、歳はいくつになったんだっけ」
「十九。ねーちゃんの二つ下」
「なんだか顔つきが変わったような気がする。なにかあった?」
「別に。大人になったんだよ」
「…そっか。そうかもね」
大きなイチョウの木がある角を曲がって、リツカは自宅の前で立ち止まると、鍵を取り出しながらアカギのほうを振り返った。
「あがってってよ。なんにもないけど、お茶くらいなら出すから」
「いや、いい。オレ、これから行かなきゃいけないとこがあるんだ」
「あらそう。それは残念だわ」
「なぁ、ねーちゃん」
アカギはリツカの顔をまっすぐ見ると、目を細めてほんの少しだけ笑った。
「旦那さん、いい人だといいな」
リツカは、はっとしてなにか答えようとしたが、もうアカギは背を向けて歩き出すところだった。
「しげる」
名前を呼ぶと、アカギは背を向けたままひらひらと煙草を持った手を振った。沈んでいく太陽の光を浴びた白い髪は、まるで燃えるように赤く染まっていた。
リツカは遠ざかるアカギの後ろ姿をしばらく見つめていたが、アカギが振り返ることはついになかった。