※離脱後捏造




「はい、お水」

ソファーに座るというよりはもたれかかるようにして目を閉じている森田に、リツカは水道水の入ったグラスを差し出した。

「大丈夫?飲める?」
「…ああ…平気…」

森田は目を開けてグラスを受け取ると喉を鳴らして水を数口飲み、リツカにグラスを返した。

「てっちゃんがこんなに酔うまで飲むなんて珍しいね」
「…んー…だって課長がさぁ…なかなか離してくんなくて…。この前のことはもういいって言ってんのに…」

森田はその後もなにかもごもごと口の中で喋っていたが、リツカには聞き取れなかった。リツカはまだ水が半分ほど入ったグラスをテーブルに置き、森田のすぐ隣に座った。

「てっちゃんとこの課長さん、酒豪なのよね」
「そう…ほんとあの人の体どうなってんだって……いくら飲んでもけろっとしてんだもん…ありえねぇよ」

ぼんやりと空中を見つめていた森田は、あちぃ、とつぶやくと、おぼつかない手つきでシャツの袖口のボタンを外し、袖をまくった。

今日は異動になる社員の送別会を兼ねた飲み会で、普段あまり飲み会に参加しない森田は、珍しがった上司にずいぶんと飲まされたらしい。
リツカが森田と交際を始めて半年以上になるが、こんなにひどく酔っている姿を見るのは初めてだった。一人でも帰れると言い張る森田をなんとかタクシーに押しこんで、自分の家まで連れて来たのは正解だったようだ。

リツカは森田の開いた袖口からのぞく、むき出しの左腕に目を落とした。手首から肘のあたりにかけて、真っすぐひきつれたような傷跡がある。リツカはふと好奇心にかられ、そっと森田の腕に指を這わせてその傷を撫でた。森田はくすぐったそうに少しだけ眉を寄せたが、体はソファーの上のクッションにあずけたまま動かさず、嫌がるような素振りは見せなかった。

森田の全身には大小合わせていくつもの傷跡や縫い跡があった。昔、交通事故にあったから、とだけリツカは聞いていた。その事故や怪我について詳しく聞こうとすると森田は困ったように言葉を濁してはぐらかすので、それ以上の説明を聞いたことはなかった。
傷跡を人目に晒したくないのか、森田は真夏でも大きく肌を出すような服を着ないし、リツカに対してでも明るい中で裸体を見せることにあまり良い顔をしない。こうして傷跡をまじまじと眺め、確かめるように触れても嫌がらないのは、眠っているときくらいだった。
だが今日はそんなことまで頭が回らないほど酔っているらしい。

「ねぇ、てっちゃん、これ…」

リツカは指で森田の左腕の傷跡をなぞった。一直線に伸びるその傷は、ガラスのような鋭利なもので切った跡のように見えた。

「ん…これ…?」
「こんなに大きな傷、すごく痛かったでしょ」
「……あー、どうだったかな…。これは…神威のビルで…いや、ちがうなぁ……ああ、あの…殺人鬼に切られたやつかな」
「え?」

森田の突拍子もない発言にリツカは驚き、顔を上げた。森田は相変わらずぼんやりした顔のまま、腕を少し持ち上げて傷跡を眺めた。

「オレさぁ、ナイフ持った殺人鬼と戦ったことあんだよ。これはそいつにやられた跡……うん、たぶんそう」
「……ナイフで、切られたの…?」
「そうだよ。…あんときはあんまり痛く感じなかったなぁ…」

森田はどこか遠くを見るような目をして、ははは、と乾いた笑いをこぼした。

「オレ、金持ちのボンボンとポーカー勝負してさ、一晩で何億って稼いだこともあんだぜ…、すげぇだろ」
「………」
「それから麻雀で命賭けたり…、政治家やら社長やらと裏取引したりさ…」
「……てっちゃん…?」
「それで、あのビルで、俺の前で何人もひとが死んで、オレ、どうすりゃいいかわかんなくて、それで…」

リツカはあっけにとられて、森田の口から出る冗談としか思えない過去を聞いていた。

「…夢みたいだよ、今思うと。…ぜんぶぜんぶ夢だったみたいだ…」

その言葉の語尾はゆがみ、鼻声になっていた。森田は唇を噛み、右手を広げて顔を覆った。
指のすき間から見える森田の目には、うっすらと涙が光っていた。リツカは思わず空いている森田の左手をとったが、どんな言葉を返せばいいのかわからず、部屋の中には沈黙が流れた。

殺人鬼、ポーカー勝負、裏取引、死…。
とても信じられない単語ばかりだったが、例えしたたかに酔っていたとしても森田がそんな笑えない冗談を言う人間でないことを、リツカは知っていた。

森田鉄雄は二年半ほど前にリツカの勤める会社に中途採用で入社してきた青年で、誠実で真面目でよく働くが、どこか他人とは一線を引いて自分のことを客観視しているようなきらいがある、不思議な男だった。
部署自体は離れていたが、ふとしたきっかけからリツカと森田は親しくなり、何度か一緒に食事をしたり、映画を見に行ったりして、そのうちに付き合うようになった。普段は堅い顔ばかりしている森田が、二人きりのときは心を許したように柔らかい表情を見せるのがリツカは好きだった。

森田は自分のことを話すのをあまり好まなかったが、それでも日常会話でぽつぽつと語られる彼の過去の中で、意図的に避けられている部分があることに、勘の良いリツカはなんとなく気がついていた。
それは森田がリツカの会社に入る前の数年間。この会社に来るまでは特に定職につかず、日雇いのバイトなどでその日暮らしをしていたと森田は言うが、肝心なことはあやふやなままだった。
政治関係に明るく、株や証券取引に詳しい一面も持ち合わせているのも謎であったし、そしてなによりも、二十代なかばという年齢に似合わぬ、達観したような落ち着きが森田にはあった。

にわかに信じがたい話ではあるが、人に言えぬような大金の動く仕事に関わっていたと考えれば、どれもこれも納得がいくようにリツカには思えた。

「今でもときどき、わかんなくなっちまうんだ。あのときのオレが、ほんとにあってたのか、どうか…」
「………」
「ちゃんと自分で決めたはずなのに、それなのに、どうして」

森田は苦しそうな顔で目をこすり、溢れそうになっていた涙を拭った。リツカは森田の手を握って、小さな声で答えた。

「ねえ、私もたいして生きてないから偉そうなこと言えないけどさ、きっと、人生ってそんなもんなんだと思うよ」
「……リツカ…」
「なにが正しくて、なにが間違ってたかなんて誰にもわからないよ。みんなわからないまま毎日過ごしてて、それが、生きるってことなんじゃないかな。てっちゃんがそうやって決めたんなら、きっとそれでいいんだよ」

森田は目を閉じ、リツカの手を握り返した。

「…リツカ…、ごめん…ごめん…」
「てっちゃん?」
「今のはさ、冗談なんだ。…ぜんぶただの冗談で、ウソで……、この傷は、そう、交通事故にあったんだ、それだけなんだ……だから、忘れてくれ…」
「うん、わかってる。わかってるよ。最近働きづめだったからさ、疲れてるのよ。今日はもう遅いし、寝よう。ね?」
「ああ…そうする…」

そう言って森田はゆっくりと体を起こした。テーブルの上のグラスを掴み、残っていた水を飲む森田を見ながらリツカは、彼が抱えている過去について話してくれる日は来るのだろうかと考えていた。森田は全て自分の中に閉じ込めたまま、ひとりで生きていく決意を固めているような気がしてならなかった。

「…三月はいやだよ、別れの季節だから」

森田はぼそりとつぶやき、うなだれた。
その手からグラスが離れ落ちてカーペットの上に小さな音をたてて転がり、わずかばかりの水が床を濡らした。



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