私が銀二さんの家で暮らすようになって、もう一年が経つ。こうして一緒に暮らしてみて初めてわかったことは本当にたくさんある。
例えば、銀二さんは実はかなりの面倒くさがりやだということ。だから部屋の中に家具やものは必要最小限しか置いていないこと。とても気分がいいときにはドイツ語の歌を小さな声で歌うこと。コーヒー豆とジャムの品質にはかなりのこだわりがあること。スーツとシャツは全部、贔屓にしている老舗テーラーのオーダーメイド品であること。新聞は五紙とっていて、毎朝テレビのニュースを見ながら目を通すのを日課にしていること。リビングの棚の中には上等な洋酒のコレクションがあること。お味噌汁の具の納豆はあまり好みではないらしいこと。(私は好きだから、彼には我慢してもらってときどき入れてしまうのだけど)
それから他にも数え切れないくらいたくさん。

今までは彼の仲間たちにならって彼のことを「銀さん」と呼んでいたが、一緒に暮らすようになってからは「銀二さん」と呼ぶようになった。少しでも彼との距離が近づけばという短絡的な考えからだ。
逆に、銀二さんは私の名前をあまり呼ばなくなった気がする。そういえば例の鼻歌を聞くこともほとんどなくなった。ここ最近、銀二さんはいつも眉をしかめて、なにか考えこんでいるような顔をしている。
彼の抱えている仕事のせいなのだと思いたいけれど、私が原因だということはわかっている。たぶん、私の存在が銀二さんを苦しめているのだろう。私が、自分のことばかり考えているから。


銀二さんに初めて会ったとき、私は彼に目を奪われた。ずうっと歳上ではあったが、豊かな銀髪を後ろに流し、高そうなスーツを嫌味なくさらりと着こなして、切れ長の目を細めて静かに笑うその姿は、今まで見てきた男性の中でいちばんと言っていいほど魅力的だった。外見だけでなく中身だって素敵で、その日から私は暇さえあれば銀二さんのことばかり考えるようになった。
少々危ない橋を渡らなければいけない場面もあったが、彼に仕事を任され、働きを認めてもらえるのは純粋に嬉しかったし、やりがいもあった。
恋愛的な感情というよりは、どちらかというと尊敬や羨望に近かったのかもしれない。銀二さんはいつも冷たく厳かな雰囲気をまとっていて、まるでその通り名の通り、国を統べる王様のようだった。
なにか根拠のようなものがあったわけではないが、彼は好きになってはいけない類の人だという予感があった。深いところまで踏みこめば自分が傷ついてしまうことが、なんとなくわかっていたのだと思う。だから、あくまでも憧れの人で終わらせるつもりだった。

そのはずだったのに、大きな仕事がひとつ終わった日の夜、銀二さんが低い声で私の耳に優しい言葉をささやき、薄い唇が首筋にふれたとき、築き上げた心の壁はあっという間に壊れ、私は息をつく暇もなく彼におぼれていた。
魚のように冷たい人だと勝手に思っていたけれど、彼にもきちんと体温はあって、肌を合わせれば熱いくらいだった。孤高の王も、服を脱ぎ捨てればひとりの普通の人間だった。私は熱に浮かされたように働かない頭で好きだと言って、銀二さんは黙って静かに笑っていた。

次の日の朝早く、銀二さんは用事があると言って手早くシャワーを浴びてホテルの部屋を出ていった。
私の心は銀二さんでいっぱいだったが、銀二さんは私に対してなにか特別な感情なんてちょっとも抱いていなかった。そんなこと最初からわかっていた。銀二さんにとって私は、星の数ほどいる女のうちのひとりでしかなかった。
彼のいなくなったベッドで、私は涙を流した。

それから私たちは、度々会っては夜を過ごすような関係になった。私は銀二さんに何度も好きだと言ったけれど、彼は否定も肯定もしなかった。いつものように少しだけ頬をゆるませて、ああ、とか、知っているよ、とか言うばかりで、私はわけもなく泣きたくなってしまうのだ。

銀二さんのことになると、私は泣いてばかりな気がする。
彼が車にひかれたと巽さんから電話で聞いて、急いで病室を訪ねたときも、絶対に泣くまいと思っていたのに耐えることができなかった。
あのときは必死だったし混乱していたから、自分がなにをしゃべったのか正直あまり記憶にない。ただ、あなたの怪我が治るまで家に置いて手伝わせてくれと泣きながら頭を下げて、銀二さんが驚いたような困ったような顔で私を見ていたことは、覚えている。

私は最低な人間だ。銀二さんの弱みにつけこんだのだから。あなたのためになりたいなんて口では言いながら、本当はあわよくばそのままずっと一緒に暮らせたらなんて夢のような空想を抱いていた。
銀二さんはどんなことでもそつが無くこなせる人だから、少しは不自由するかもしれないけれど、私がいなくたってひとりで生活できたはずだ。怪我の世話なんてただの口実で、少しでも銀二さんのそばにいたかっただけだった。
飽きられて忘れられてしまうのが怖かった。会えなくなるのが怖かった。私はやっぱり、いつだって自分のことばかりだ。


一年経って、銀二さんの身体はすっかり良くなった。
複雑骨折した左足もきちんと動くようになって、私が手伝わなければいけないようなことはなくなったから、もう同じ家で暮らす必要はない。
いつ出ていけと言われるかと思うと、心臓を掴まれたような気分になる。結婚しているわけでも、きちんとした恋人同士というわけでもないし、そういう約束だったのだから仕方ないということは痛いほどわかっているのに。
今のところ、銀二さんは私のわがままに付き合ってくれているけれど、好きでもなんでもない女と暮らすのは楽しいことではないだろう。それならせめて、自分から出ていくことを切り出すべきなのかもしれない。最近そのことをずっと考えているが、どうしても決心がつかない。
銀二さんはひとりになると面倒がってあまりちゃんとした食事をとらないし、生活も不規則になるから心配だ。せめてもう少しタバコとお酒をひかえてくれるといいのだけど。


玄関のカギがあく音がする。建設会社の重役さんとの会合から、銀二さんが帰って来たのだ。
読んでいた雑誌を置いて出迎えに行く。銀二さんは玄関に立って杖を置き、帽子と手袋を外している。
その手にはいつも使っている革鞄の他に、有名ジュエリーブランドのロゴが入った赤い紙袋が下げられている。もらい物かなにかだろうか。

「おかえりなさい、銀二さん」

銀二さんは目を上げると、なんだかいつもより優しい顔で微笑んだ。

「ただいま、リツカ」


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