※森田離脱後



銀二は灰色の墓石を眺め、手を合わせるべきか少々悩んだ。故人が死後の世界なんてものを微塵も信じていなかったことを思い出し、彼の冥福を祈ることに疑問を抱いたのだ。
すぐ隣ではリツカが静かに花を活けている。

墓の中で眠っているのは、銀二の古い友人だった。
取り立てて大きな成功を収めていたわけではなかったが、小規模な会社をいくつか経営する気風のいい男で、銀二が打算抜きで友人と呼べる数少ない存在であった。
亡くなったのは一年ほど前。死因はくも膜下出血だったそうだ。数年前から体調を崩していたと聞いていたが、まさかこんなにも早く逝ってしまうとは思わなかった。

銀二はぼんやりと男の顔を思い出す。
今度会ってゆっくり飲もう、と随分前に電話で話したのが最後で、とうとうその約束を果たすことはできなかった。それどころか仕事が立て込んでいた影響で、葬儀に参列することすら叶わなかった。

線香の匂いが鼻をかすめる。
銀二は煙草の煙を吐き出した。

「うん、いい感じ」

花を活け終わったらしいリツカが立ち上がった。彼女は背筋を伸ばすと、手を合わせて目を閉じた。
彼女が目を開けるまで、銀二は煙草を吸いながらその横顔をじっと眺めていた。

「……行こうか」
「もういいんですか?」

顔をあげたリツカが、少し驚いたように尋ねる。

「ああ。付き合わせて悪かったな」

銀二は左手の腕時計に目を落とした。
2時18分。夕方に銀座の料亭で打ち合わせの予定が入っているが、それまでまだ時間はかなりある。

銀二は首を回し、墓地全体を見渡した。
東京郊外の住宅地に囲まれる形で開かれているこの霊園は、最近できたばかりの新しいものだ。そこかしこに花の咲きほこる花壇や噴水などが設置され、墓地につきものの暗いイメージを払拭したヨーロッパガーデン風のつくりになっている。
敷地も広く、目の前にある友人の墓のような一般的な直方体の墓から、外国の墓地で見るような小さな四角い墓まで、色々な形の墓があるようだった。

「時間もあるし、せっかくだから少しここを見ていかないか」

銀二はジャケットから携帯灰皿を取り出すと、短くなった煙草を揉み消した。

「はい、もちろんです」

リツカはスカートについた汚れを手で払って、小さくうなずいた。


結局、銀二は手を合わせなかった。







何種類ものバラが咲くアーチをくぐり抜けると、また違ったタイプの墓が並ぶ区域に入った。
30cm角程度の小さな墓石に、様々な彫り込みが施してある。刻んであるのは名前の他に、『愛』や『絆』といった言葉や、花や動物、故人の好んだと思しきものなど、多種多様だった。

「うわぁ、すごい、最近のお墓はこういうのもあるんですねぇ。ヒマワリとかネコとか…、あれはテニスラケットかな?あ、カメラとか自動車なんかが書いてあるのもありますよ」

リツカは楽しそうあたりを見回しながら、軽い足取りで墓地の中を散策している。
銀二はその少し後ろについて歩きながら、墓石の一つ一つにじっくり目をやった。

ぽつぽつと目に付くのは、幼い子供の墓だ。やはり重苦しく大行なものよりも、このような明るく可愛らしいものが好んで選ばれるのだろう。
それから、まだ忌日の刻まれていない墓も案外多い。入るべき先祖代々の墓などがない場合、生前に自分の墓を買っておいてしまうという人も増えてきているようだ。

「俺もそろそろ、自分が死んだ時のことを考えなきゃいけねぇ歳になったかなぁ」

銀二の小さなぼやきに、リツカは歩幅を緩めて振り返った。

「……どうしたんです、急に」
「ずっと、やらなきゃいけないとは思ってたんだ」

リツカの細い眉がわずかに歪んだ。
時折、彼女はこうしてどこか苦しそうな悲しそうな顔で銀二を見る。それは決まって銀二が自分自身の存在を邪険に扱うような言動をした時だ。
銀二はいつもその表情に気がつかなかったふりをして、雄弁に言葉を振るう。

「お前もよく知ってると思うけどな、人が一人死ぬってのは色々と面倒くせぇことなんだ。まどろっこしい書類は山のようにあるし、やれ葬式だ、相続だ、税金だって、馬鹿みたいに仕事がありやがる。もし、明日にでも俺が心筋梗塞かなんかで死んだとするだろ。そしたら俺の後始末をつけるヤツはそりゃあ大変だぜ。無駄に金があるからな」

銀二は自分のすぐ右側に建つ墓に目を落とした。
故人はキリスト教徒だったのだろう。墓石には小さな十字架と、『あなたはわたしの主 あなたのほかにわたしの幸いはありません』という詩篇16編2節の言葉が刻まれている。

「他人に迷惑をかけるのは趣味じゃない。だから、できる限り自分でやっておかねぇと」

リツカは銀二の顔をまっすぐ見て、それから前に向き直って墓地の散策を再開した。
しばらく、二人は黙ったまま並んで道を歩いた。

「いいんですよ、死んだ後のことなんか周りに任せておけば」

ふいにリツカが口を開いた。

「どうせ自分にはわからないんですから。銀さんの周りには、…ほら、そういう法律に詳しい人が何人もいるんだから、そのくらい全部任せてしまえばいいんです」

リツカの声は硬い。銀二は頬を緩めて静かに笑った。
リツカの言うところの『法律に詳しい人』の中にはもちろん、学生時代は弁護士を目指していたというリツカ自身も含まれているのだろう。
それでもあえて、全て私がやります、と言わないあたり、聡い女だと銀二は思う。俺のことをよくわかっているな、と。
銀二はそのような押しつけがましい形の愛を好まない。

「なぁ、俺の死因は何だと思う」

柔らかな口調で、銀二は楽しそうに問いかけた。

「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「いいじゃねぇか、ただのゲームだ。もし当てたら、そうだな、俺の遺産をそっくりお前にやろう」

リツカは傍らの銀二にちらりと目をやって、また眉根をわずかに寄せた。
空はくっきりと青く、花に囲まれた墓地は静まりかえっている。

「窒息死ですね。山のように積もった札束やら証券やらに押しつぶされて、息が詰まって死んじゃうんです」

リツカは肩をすくめてそう言った。

「くく、はははっ!窒息死か、そりゃあいいや」

銀二は喉を震わせて笑った。
近くの木にとまっていた小鳥が、ピーピーと鳴きながら飛んでいった。

「ちっともよくないでしょう。銀さんはもっと自分を大事にしてください。……私は心配ですよ」
「心配?なにがだ」
「なんだか最近、銀さんが小さくなったような気がして」
「まあ、俺も歳だからな。背は縮む一方さ」

リツカが何を言いたいのかわかっていたが、銀二は笑ってはぐらかした。

息ができなくなるまで、そう長くないかもしれない。銀二は思う。
紙切れの海は胸のあたりまで迫り上がってきている。もう満足に動くことすらできない。それでも銀二は毎日あくせく働いて、自分を埋める紙切れの数をせっせと増やしている。
何のためにこんなことを続けているのかなんて、とうの昔にわからなくなってしまった。だが、それ以外の生き方を銀二は知らない。続ける他に道はない。

「窒息する前に逃げ出してくださいよ」

リツカは道の真ん中に落ちていた小石を、パンプスの先で転がした。

「ああ。精一杯努力する」

銀二がそう答えると、彼女は声に出さず唇だけで、嘘ばっかり、と言って寄越した。



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