「コーヒー、お待たせしました」


リツカが声をかけると、男は読んでいた新聞、週刊碁から顔をあげた。
新聞の一面には、碁盤の前で難しい顔をしているスーツ姿の男性プロ棋士がアップで載っており、その隣には大きく『名人戦 第三局』と見出しがつけられている。


「おお、ありがとよ」


男はそう言って、コーヒーのカップを受け取った。
リツカは男の隣にある碁盤の前のイスに座り、新聞記事に目をやった。


「名人戦、どっちが勝つと思いますか?」
「そうだなぁ…。よく知らねえけど、俺はこの趙ってやつが勝つと思うな。ねーちゃん、あんたはどう思う」
「私はやっぱり武宮さんに連覇して欲しいですね。武宮さんの碁、好きなんです」


平日昼前の碁会所は静かなもので、アルバイトであるリツカと、この男、赤木の二人きりしかいなかった。

碁会所にやって来る客はだいたいがリタイア後の高齢者で、くせのある人たちばかりだったが、その中でも赤木は特に不思議な客の一人だった。
昼間などの誰もいないような時間帯にふらりとやって来て、煙草を吸ったりコーヒーを飲んだりしてゆっくりした末、碁に関することは何もすることなく、またふらりといなくなったり。
そうかと思うと一番混み合う時間にやって来て、リツカやそのへんの客を相手に、まるで殴り合いのような重い碁を平気で何局も打ったりする。

いつも派手なスーツを着込み、仕事は麻雀をすること、と語るその男がいったい普段何をしているのか、リツカには全く見当もつかなかった。
ただ、とてもスジのよい、それでいて驚くほど大胆な碁を打つことだけは知っていた。


「一局打ちますか?」
「いや、今はいい。気分じゃねぇんだ」
「じゃあ私、棋譜並べでもしようかな」


リツカはそう言うと、近くに置いてあった碁の雑誌を手に取り、ぱらぱらとめくった。
棋譜並べとはプロ棋士が打った碁を初手から並べなおすことで、碁の勉強法のひとつである。リツカはこういった客のいないときなど、暇つぶしがてらによく行っている。

その雑誌に、ちょうど現在行われている名人戦七番勝負の第一局目の棋譜が載っていたので、リツカはその碁を並べることにした。
パチン、パチン、と盤に石を打つ音が、静かな碁会所の中に響く。


赤木が初めてこの碁会所を訪れたのも、ちょうどこんな感じで人がほとんどいない平日の昼下がりだった。二年ほど前のことだ。

赤木は自分でドアを開けて入ってきたくせに、ひどく驚いた顔をして部屋の中を見回していたのをリツカは覚えている。
聞けば、隣のビルにある雀荘と間違えたのだと言う。囲碁は全く知らないがせっかくなので打ってみたい、と言うので、暇を持て余していたリツカは始めから打ち方を教えてやった。
碁のルールは少々複雑なため、最初でつまずいてしまう人も多いのだが、赤木は飲みこみが早く、あっという間にそこそこ打てるようになった。
あまりの赤木のセンスの良さに、リツカは教えながら内心舌を巻いていた。常人ならば、何年か続けた結果にやっとぼんやり掴む石の並びに対しての感覚を、赤木は数時間でモノにしてしまったらしかった。

『へぇ、碁って面白いんだな』

赤木はそう呟いて、盤の上の黒石と白石を興味深そうに眺めていた。リツカの石を、初めて大きく取ったときのことだ。

それ以来、赤木はときどきこの碁会所にやって来るようになった。



「東京タワー、か」


突然、赤木がそう呟いたので、リツカは盤の上から目線を上げた。
赤木は壁にかけられたカレンダーを見ていた。東京の風景写真のカレンダーで、今月の写真は昼間の東京タワーだった。


「登ったことあるか?」
「えーと、小さい頃に一度だけ。たしか家族旅行でした」
「そうか。俺は一度も行ったことがないんだ。ずっと東京にいるってのにな」
「そういう人、けっこう多いらしいですよ。東京に住んでるとわざわざ行こうって気になりませんもんね」
「…あれが完成したのは、俺が中学生くらいの頃だったかな。初めて見たときはあんまり高いもんで驚いたが、今じゃ同じくらいの高さのビルがごろごろあるから、たいして珍しくもなくなっちまったな」


赤木はまっすぐカレンダーを見つめたまま、ブラックコーヒーをすすった。


「そういやガキの頃、できたばっかの東京タワーを見上げて、あのてっぺんに登ってみてぇって思ったよ。……懐かしいな。ずっと忘れてたのに、どうして急にこんなこと思い出したんだか」


リツカは棋譜を並べる手を止めて、赤木の顔を見つめた。
色素の薄い赤木の瞳は、碁会所もカレンダーも東京タワーすら飛び越えて、どこか遠いところを見据えているような気がした。どこか、ずっとずっと遠いところを。


「てっぺん、ですか?」
「ああ。何が見えるんだろうな、あそこからは」


まだ子供だった赤木は巨大な赤い鉄塔を見上げて、いったい何を考えたのだろう。リツカにはわからなかった。

赤木はコーヒーを飲み干すと、ジャケットの内ポケットから財布を取り出した。


「ねーちゃん、コーヒー代」
「あ!忘れてました、すみません。250円です」


赤木はジャラジャラと小銭を取り出し、リツカに差し出した。リツカはそれを受け取って数え、あら、と声を漏らした。


「240円しかありませんよ」
「ん?おかしいな……。悪い、もう10円だよな」


赤木は小銭入れから10円玉を出して、リツカに渡した。


「最近、なんだかこういうことが多いんだ。麻雀やってても細かい点棒計算をよく間違えちまってよ。俺も歳ってことかね」
「何言ってるんです、ぜんぜんお若いじゃないですか」
「そんなことねぇんだよ、本当に。その点、碁はいいな。計算しなくていいから」
「あはは、赤木さんの碁はだいたいいつも途中で攻め合いになるから、ほとんど整地までいきませんもんね」
「だらだら続けるより戦ったほうが楽しいだろ?勝っても負けても」


赤木は目の前の碁盤の上に放り出されていた新聞を手に取り、角を合わせて畳んだ。
それから煙草の箱とライターを取り出し、一本くわえて火をつけていると、リツカが慌てて灰皿を持ってきた。赤木は煙を吐き出して、その灰皿に灰を落とした。

リツカは元いた席に戻り、棋譜並べを再開した。広い碁盤の上に、黒い石と白い石が一つずつ増えていく。
赤木は煙草を吸いながら、その様子をじっと見ていた。


「ねーちゃんは碁が好きかい」
「好きじゃなかったらこんなとこで棋譜並べたりしてませんよ」
「それもそうだな」
「赤木さんは碁より麻雀のほうが好きですか?」
「うーん、どうなんだろうな……。よくわからねぇ」
「私はやらないからよく知らないんですけど、麻雀って夜通しやったりするんでしょう?」
「ああ、やるよ」
「好きじゃなきゃ、そんなに長い時間できませんよ」
「そうか…、そうかもしれないな」
「好きなことをずっとやってられるっていうのは、すごく幸せなことですよね」


パチン。絶好の位置に黒石が置かれた。白を効率よく睨む妙手だ。

赤木は立ち上がって窓のそばへ行き、外を眺めた。狭い道路に古びた建物たち。何の面白味もない景色だったが、空だけはくっきりとした青さでビルの隙間からのぞいていた。


「そうだな。俺は本当に幸せもんだ」


赤木はそう言うと、リツカのほうを見て笑った。
綺麗な笑顔だった。




赤木がその碁会所を訪れたのはそれが最後だった。
何の言葉を残すこともなく、赤木はぱったりとやって来なくなった。碁会所のような店では、そう珍しいことでもない。

その年、1997年の名人戦七番勝負は、赤木が言った通り挑戦者である趙が武宮を破り、名人の座を手にした。


あれから数年後。
碁会所でのバイトはやめてしまったが、東京タワーを目にするたびに、リツカは赤木のことを思い出す。あの奇妙な空気をまとった静かな男のことを。その美しい打ち筋を。

そして考える。

彼はあの塔のてっぺんに登ることができたのだろうか、と。


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