嫌な夢を見た。


開いたまぶたの向こう、ぼやけた視界をホテルの真っ白いシーツが圧迫している。
心臓の鼓動がうるさい。私は大きく息を吸って、心を落ち着けようと努めた。あたりは真っ暗で、まだ夜は明けていないようだった。

もう一度眠ろうと寝返りを打って目を閉じたが、先ほど見た映像が頭の中を駆け回り、たまらず目を開けてしまった。
怖い、恐ろしい、気持ち悪い。
不気味などろりとした液体が体の中をのたうちまわっているのような気分だ。この感じだと寝つけてもまた嫌な夢を見てしまうだろう。幼い頃からよく悪夢にうなされたから、なんとなく経験的にわかる。

私は眠るのを諦めてゆっくりと体を起こし、すぐ隣で規則正しい寝息をたてている男の顔をのぞきこんだ。枕に押しつけられて妙なくせのついた前髪が一筋、彼の白い額の上に垂れている。
目もくらむような大金を動かし、目配せひとつで意のままに他人を操るような彼だったが、こうして意識をベッドの中に沈めているときばかりは、ごく普通のどこにでもいる初老の男性だった。

ふと、彼の肩を揺さぶって無理やり目覚めさせ、怖い夢を見たのだと言って泣きつきたいという幼稚な欲求が胸をよぎった。
もう20年…、いや、15年若ければ、私が幼い少女であったなら、素直に彼の胸にすがりつけたのかもしれないが、今の私にはとても出来ないことだ。大人になり歳を重ねていくたびに、外に出せない気持ちが増えていく気がする。

私は彼を起こさないよう気を配りながら、静かにベッドからおりた。スリッパがどこにあるのか暗くてよく見えなかったため、裸足のままベッドから離れる。
洗面台のところへ行こうと思ったが、備え付けの冷蔵庫の中にミネラルウォーターのペットボトルが入っていたことを思い出したので、そちらへ向かった。
壁際に設置されたライトの薄暗いオレンジ色の明かりが、高級そうなスイートルームの調度品をぼんやりと照らし出している。耳鳴りが聞こえてきそうなほど静かな部屋の中、私は出来るだけ音をたてないようにして歩いた。


よく冷えた外国産のミネラルウォーターはすっきりとした味わいで、私の胸の中のどろどろした何かを洗い流してくれるような気がした。相変わらず漠然とした恐怖が脳を支配しているが、脈拍は落ち着いたし、たぶんもう大丈夫だろう。
私はペットボトルのキャップを閉めて冷蔵庫に戻し、また忍び足でそろそろと元来た道を戻った。

ベッドの枕元に立ち、そっと布団に手をかけたところで、眠っていたはずの男がもぞりと寝返りを打ってこちらを向いた。


「どうした」


眠そうな低い声。


「すみません、起こしちゃいましたか」


布団の中にもぐりこみながら謝ると、彼は私の顔をちらりと見て小さく笑った。


「気にしないでくれ、俺は眠りが浅いんだ。…しかし珍しいじゃないか、お前が夜中に起きるなんて」
「ええ、ちょっと…」
「何かあったのか」
「……悪い夢をね、見たんです」


私はなんとなく恥ずかしくて、布団で顔を隠して目を伏せた。ベッドサイドテーブルの上に置かれた彼の腕時計が、時を刻んでいる音がわずかに聞こえる。


「へぇ、どんな」
「…ちょっと言いにくいんですけど」
「ああ」
「ぜんぜん知らない男の人に、レイプされそうになるっていう、夢でした」
「…そりゃあ、悪夢だ」
「あ、安心してくださいね、未遂ですから。というか、押し倒されただけです」
「その強姦魔ってのは、どんなやつだったんだ」
「顔はよく見えなかったからわかんないんですけど、中年男性、だったかな。こう、腕を掴まれたときに左手の薬指に指輪が見えて、奥さんがいるのにあなたどうして、って思ったのは覚えてます」
「妙なとこでリアルだなぁ」


彼は喉を震わせて静かに笑った。


「俺が隣で寝てるのにそんな夢を見るなんてよ」
「すごく、怖かったです」
「そりゃそうだろう」
「私ね、小さい頃から怖い夢をよく見るんです。きっと前世かなにかで悪いことしたんですよ」
「その理論でいくと、俺の来世は悪夢まみれだな」


私が起きたせいで貴重な睡眠時間を邪魔されたというのに、彼の声は優しげだった。
私は少し大胆な気持ちになり、布団の中で腕を伸ばして投げ出されていた彼の手を握った。骨ばっていて皮膚の薄い彼の手は温かく、指を絡ませると彼はまた笑った。


「銀さん」
「なんだ、まだ怖いのか」
「ちょっとだけ」
「いいさ、またそいつが来たら俺が追い払ってやるよ。いや、追い払うだけじゃ駄目だな。しっかり痛めつけて病院送りにしてやる」
「ふふふ、頼もしいですね」
「だから安心して寝な」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ、リツカ」


私は彼の手を握ったまま目を閉じた。
今日はもう嫌な夢は見ないだろうという確信が、不思議と私の中にはあった。


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