「月がーでたでーたー、月がーでたー」

リツカは茶シブで黄ばんだコーヒー用のカップをスポンジで洗いながら、鼻歌を歌っていた。頭上では古い換気扇が低い唸りをあげて回っている。

「うちのお山ぁのー上にーでたー」

流し台の下で新品のまま埃をかぶっていたメラミンスポンジなるものをためしに使ってみたところ、魔法のスポンジとの煽り文句通り面白いほど汚れが落ちるので、リツカはなんだか楽しい気分になっていたのだった。
豆腐のように真っ白いスポンジは汚れをこするたびにすり減って小さくなっていき、初め4センチ四方ほどだったキューブは、もう半分近くしか残っていない。

「あんまーりー煙突ぅーがぁ高いのでー」

着ている黒いエプロンに印刷された『麻雀荘さわだ』の文字の上に、ちょうど飛んで付着した泡を手の甲でぬぐったリツカは、茶シブが落ちて新品のようにキレイになったカップをじゃぶじゃぶと水でゆすいだ。

「さぁぞーやーお月さーんもー煙たぁかろ、さのよいよい」

「炭坑節か?」

「きゃあ!」

背後から聞こえた突然の声に、リツカは思わず甲高い悲鳴をあげた。慌てて振り返ると、そこにはリツカに負けず劣らず驚愕の表情を浮かべた沢田が立っていた。

「さ、沢田さん…?」
「驚いたな…、なにも叫ぶことないだろう」
「す、すみません、びっくりしたもので…。あの、いつ来たんですか?」
「今さっきだよ。ドア開けたときに声かけたの気づかなかったか?」
「まったく聞こえませんでした…。洗い物してたからかな」

リツカは蛇口をひねって水を止め、そばにあったタオルで濡れた手を拭いた。

「開店前にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「ああ、ちょっと手違いがあって今日やる予定だったことが必要なくなってな、こっちに顔出すことにしたんだ」
「じゃあ、今日は一日お暇なんですか?」
「そうなるな」

沢田はソファーに腰をおろすと、ポケットから煙草とライターを取り出した。火をつけているとリツカがやって来て洗ったばかりの灰皿を差し出したので、沢田はそれを、すまん、と言って受け取った。

「今日も暑いですねぇ」
「まったくだ。最近は夜になってもちっとも涼しくなんねぇで暑いままだからな」
「ほんと、寝苦しくてイヤになっちゃいます」
「暑いのはまだいいんだが、湿度が高いのがなぁ」
「なんだかベタベタしますもんね」

リツカは流し台のそばに戻って洗い終わったカップを片づけながら、ソファーに座って煙草をふかす沢田に目をやった。
今日の沢田は、長袖の白いシャツに濃いグレーのスラックスという装いであった。まくりあげたシャツの袖口からのぞいている少々日に焼けた腕には、鈍い銀色の腕時計がつけられている。これ見よがしな高級ブランド品ではなく、機能性重視なセイコーのチタン製200m防水モデルだった。

こうしてると普通のサラリーマンだよなあ、とリツカは思った。沢田が自分の職業について明言したことはなかったが、彼の仕事がヤのつく自由業であることにリツカはずいぶん前から気がついていた。
気がついた当初のリツカは、とんでもないところにバイトを決めてしまったと戦慄したものだが、店自体はごく普通の雀荘であるし、沢田は優しく、何か恐ろしいことが起こったりすることも特にないので、今では何も気にすることなく安心して働いていた。むしろ、たまにやって来る沢田に会えるのが楽しみで、喜んでシフトに入るほどだった。

ちらちらと横目で沢田のことを見つめていたリツカは、ふいに顔をあげた彼と目が合いそうになって、慌てて手元のカップに目を戻した。

「そういや」
「はい?」
「さっきはなんで炭坑節なんか歌ってたんだ」
「あ、ええと、実は昨日、うちの近くの神社でお祭りがあったんです。本当にちっちゃい神社でお店も数えるほどしか出ないんで、私はちょっとのぞいただけなんですけど。そこで盆踊りやってて、流れてたんです」
「祭りか…、もうそんな時期なのか」
「うちの近くは毎年、普通よりちょっと早いんですけどね。コーヒー飲みます?」
「悪いな、頼む」
「ホットでいいですか?」
「ああ」

リツカはヤカンを掴むと、フタをあけて水道水を注いだ。古いせいかやや調子の悪いつまみを思いきりひねってコンロに火をつけ、ヤカンをかける。
粉末のコーヒーを用意しながらも、リツカの脳裏にはさっきまで見つめていた沢田の姿が浮かんでいた。革靴、スラックス、ベルト、シャツ、煙草、黒い髪。それに、開いた襟元からのぞく喉仏と鎖骨を思い返してリツカの胸は小さく跳ねたが、何も知らぬ沢田にそんな視線を向けている自分が急に恥ずかしくなり、必死で頭から邪念を追い払った。

「祭りなんてもう何年も行ってねぇなぁ」
「私、でっかいお祭りに行きたいです。出店が道の両脇にばぁーっと並んでずっと続いてるようなとこ」

リツカはそう言いながら、ドリッパーにペーパーフィルターをセットした。

「ちょっと遠いけど、八王子祭りとか大きいですよね。甲州街道沿いにお店がいっぱい出て。高円寺のとこでやるのは阿波踊りでしたっけ?」
「ああ、そうだ。何回か見たことあるぞ。深川の、富岡八幡宮の祭りもそろそろだったな。御輿が出るんだったか」
「あー、いいなぁ、行きたいなぁ。……ね、沢田さん。一緒に行きませんか?お祭り」

白い蒸気をあげているヤカンの火を止め、リツカは振り返って沢田の顔を見た。沢田は片眉を釣りあげて煙草の灰を灰皿に落とした。

「……なんで俺が行くんだ?」
「だって、ひとりで行くのはやっぱりちょっとあれじゃないですか。一応、浴衣も持ってるんですよ、もう何年も着てないけど。ね、久しぶりに浴衣が着たいんです、行きましょうよ」
「俺みたいなおっさんと行ったって面白くないぞ。他の友だちと行きな」
「他の友だちはみんな彼氏と行くんです」
「ならキミも彼氏と行けばいいだろう」
「いませんよ、彼氏なんて」
「じゃあ誰か気になってる男とかはいないのか」
「えっ?…そんな人、いませんよ…」
「本当か?」
「……いや、その、それは……」
「ははは、なんだ、やっぱりいるんじゃないか。それならそいつを誘えばいい」

リツカはドリッパーに湯を注ぎながら、沢田に隠れて小さくため息をついた。

「もう…、からかわないでください」
「からかってなんかねぇさ。キミが誘えばどんな男だって喜んでオーケーするだろうよ」
「それ本気で言ってます?」
「ああ、もちろん」
「…ふーん、ウソばっかり。わかってますよ、どうせ私はモテませんし」
「そんなことないだろう。キミは美人なんだから、自信持て」
「…………」
「早く行動しないと他の誰かにとられちまうかもしれないぞ」
「……コーヒー、いつもブラックでしたっけ」
「ん?ああ、そのままでいい。ありがとよ」

沢田は手を伸ばしてリツカからコーヒーのカップを受け取り、軽く微笑んだ。その笑顔にリツカの心はきゅっと音をたてて震えたが、リツカはそれに気づかなかったふりをして軋む感情にフタをした。

自分よりひと回りもふた回りも歳上の沢田を意識するようになったのはいつからだろう?目で追うようになったのは、そばにいたいと思うようになったのは…?

たとえ勇気をふりしぼって胸の中を圧迫するやり場のない気持ちを伝えてみたところで、それがこの優しい男を困らせ、悩ませるだけだということがリツカには痛いほどわかっていた。非生産的で不毛な想い。しかし、リツカにはそれを捨て去ることがどうしても出来なかった。

「キミは浴衣が似合いそうだな」
「…そんなこと…ないです」
「うまく誘えたら着てけばいい。きっとどんなヤツでも落ちるよ」

リツカの「気になる人」が自分自身であるなんて発想は、沢田の頭の中には微塵も存在しなかった。ただ、どこかの誰かに向けられている若い娘の淡い恋心を微笑ましく思うばかりで、その好意からくる発言がリツカの心をえぐっていることなどに気がつくはずがなかった。

「ねぇ沢田さん。行きましょうよ、お祭り。浴衣も着ていきますから」

沢田はコーヒーに口をつけて、ふっと笑った。

「だから俺じゃなくてその気になってる男を誘えって」



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