電車を降りて駅の階段をのぼっているところで、牛乳を切らしていたことを思い出した。
私は毎朝、朝食にシリアルを食べるので牛乳がないのは非常に困る。食べられないことはないが、寝起きの乾いた口には少々…いや、かなり水分が足りない。やっぱり、牛乳がないと。

だが、もう近所のスーパーは閉まっている時間だ。割高になってしまうがしかたない、帰り道にあるコンビニで買おう。こういうとき、24時間営業のコンビニは便利だとしみじみ思う。近くにコンビニがあるアパートを借りて良かった。


「リツカ」

ふいに名前を呼ばれて振り返ると、見知った男が半分ほどになったタバコをくわえて立っていた。白い髪が外灯に照らされて光っている。

「あれ、赤木さん」
「よかった、ちょうどお前んとこに行こうと思ってたんだ」

赤木さんはそう言って私の隣まで歩いてくると、タバコの煙を吐き出した。半月以上なんの連絡もなかったのに、まるで昨日会ったばかりであるかのような口ぶりだった。

「今帰りか?」
「はい」
「ふーん、ずいぶん遅いな。残業か」
「そんなとこです、最近ちょっと忙しくて。赤木さんはお仕事どうですか」
「特に変わらずって感じだな」
「あんまり無茶しないでくださいよ。…あ、そこのコンビニに寄ってもいいですか?牛乳、切らしちゃってて」
「おお、いいぜ」

女の私よりも歩幅の広い赤木さんは、私の半歩先をまっすぐ歩いていく。

もう夕飯は食べたのだろうか、と考えて、この人に会うといつも食事の心配をしている自分に気がついた。私などよりずっと歳上だしお金も持っているはずなのだけれど、気をつけていないと栄養失調か何かで死んでしまいそうな気がするのはなぜだろう。
赤木さんは、色んな意味でとても危なっかしい人だ。


「いらっしゃいませぇ」

コンビニにはいると、アルバイトの女の子がパンの棚を整理しながらほとんど機械的に挨拶をする声が聞こえた。ぱっと見たところ、お客は私たちしかいないようだった。

私は入口付近に積まれていたカゴをひとつ手に取って、パック飲料のコーナーに向かった。1リットルタイプの牛乳は数種類そろえてあったが、特にこだわりがあるわけでもないので、ちょっと考えてから一番安いものを掴んでカゴにいれた。
赤木さんは牛乳に興味がないらしくフラフラと店内を見ていたが、お酒の並べてあるコーナーで立ち止まって「リツカ」と私を呼んだ。

「ビール、一緒に買ってもらっていいか?今、金持ってなくてな」
「いいですけど、お酒ならうちにもありますよ」
「サワーと梅酒だろ。甘いのは好きじゃねぇんだ」
「そうですか…、ならどうぞ」

私は牛乳パックのはいったカゴを赤木さんのほうに差し出した。赤木さんはカゴを受け取ると、戸惑うことなく一番値段の高い銘柄のビールのロング缶をドカドカと4本もカゴに突っこんだので、私はぎょっとした。

「ちょ、ちょっと赤木さん?」
「ん?どうした?」
「あの、そのプレミアムなやつじゃなくて、こっちの普通のじゃダメなんですか」
「こいつが一番うまいんだ」
「いや、そりゃそうでしょうけど…」

赤木さんは私が何を言いたいのかがわからなかったようで、ちょっと首をかしげてから、つまみも買っていいか?と言ってお菓子などが売っているコーナーに移動していった。

実は今は給料日前でお財布の中身が寂しい状態であり、あまりお金を使いたくなかった。だが、そういうことを赤木さんに言うのはなんとなく嫌だった。しがない薄給OLのなけなしの見栄である。
それに赤木さんが喜んでくれるなら、まあちょっとぐらい我慢してもいいかなと思った。

「リツカ、お前どれがいい?」
「赤木さんが好きなのでいいですよ」
「じゃあこの貝ヒモとサキイカだな」
「うわ、おっさん趣味ですねぇ」
「おっさんなんだからしょうがねぇだろ」

カゴの中にバサバサとおつまみのパックが追加されていく。


「合計で2132円です」

バイトの女の子が差し出したレジ袋を受け取り、私はお金をカウンターに置いた。
ありがとうございましたー、という声を背中に聞きながら、私と赤木さんはコンビニを出た。赤木さんは歩きながら、私にぐいと手を差し出した。

「それ持つぜ、重いだろ」
「え、ホントですか」
「ああ、それぐらいするよ」
「やった、ありがとうございます」

赤木さんは右手に下げたレジ袋をブラブラさせながら夜道を歩いていき、私はそのほんの少し後ろをヒールの音を響かせながらついていく。
夜の住宅街はとても静かで、この町で起きているのは私と赤木さんの二人きりしかいないような透明な気分。何も考えなくても歩けるほど通り慣れたこの道も、赤木さんが隣にいると少しだけ違うもののように思えた。


「そういや、あの、コンビニの店員の子」

思い出したように、赤木さんはつぶやいた。


「かわいかったな」


私は自分の耳が信じられず、愕然として赤木さんの横顔を見上げた。
赤木さんが『かわいい』だなんて言葉を。しかもほとんどすれ違っただけの女の子に。私だって、私だって数えるほどしか言われたことないのに。

赤木さんは別に同意を求めたわけではなかったようで私が黙ったままでも特に変化はなく、そのままの足取りで歩いていく。

たしかに、あの子はかわいかった。目はぱっちりした二重で肌はキレイだったし、ゆるめのポニーテールもよく似合っていた。大学生くらいだろうか、小動物系の愛嬌がある感じで、ミス○○大学とまではいかなくてもクラスで1番くらいのかわいらしさだったと思う。
でも、そのレジ袋の中身を買ったのは私だし、これから行くのだって私の家だし、お風呂だとか寝る場所だとかを提供するのだって私なのに。そりゃ、私はかわいいってタイプじゃない。かと言って美人ってわけでもない。あの店員さんのほうが私よりずっと整った顔立ちをしていた。そんなことはわかっている。

でも、だって、そんなのって。


「リツカ?」

赤木さんは振り返って、私の名前を呼んだ。気がつけば私と赤木さんの間は数歩分離れてしまっていた。
赤木さんが立ち止まったので、私も止まる。

「どうかしたのか?」
「…べつに、なんでもないです」
「なんでもあるだろ」
「………」
「なあ、なに怒ってんだよ。俺、なんかしたか?」
「怒ってません」
「じゃあなんでそんな不機嫌そうな顔してんだ」
「もとからこういう顔です」
「教えてくれよ、俺の何がいけなかったんだ」

赤木さんは困ったように眉をしかめた。
私はきゅっと唇を噛んで、舗装されたアスファルトの道路に目を落とした。おそらく、今の私はいつも以上に不細工な顔をしているだろう。

「……かわいい、って」
「?」
「さっきの店員さんのこと、かわいいって、言ったでしょう。私のことは、そんな風に言ったりしないのに」

自分でそう言って、私は情けなくなった。いい歳した大人がこんなどうでもいい小さなことに文句を言ってヘソを曲げるなんて、恥ずかしいにもほどがある。
顔をあげて赤木さんを見ると、彼としては珍しく、驚きの表情を顔に貼りつけていた。

「お前、もしかして妬いたのか」
「…そうですよ、悪いですか。私だって女です。他の女の子のこと褒められたらムッとします」
「そういうもんなのか?」
「そうです」
「さっきのはそんな大層な意味で言ったわけじゃねぇぞ」
「…そんなこと、わかってますよ」
「お前にもそういうとこあるんだなぁ。知らなかったよ」
「………」
「リツカだってかわいいぜ。かわいい、かわいい」
「…ふ、ふん、バカにしないでください。やっぱり赤木さんにそのビールは飲ませません。全部私が飲みます。というか今日は赤木さんのこと、うちにいれてあげませんからね。そのへんの公園ででも寝てればいいんですよ」
「くくく、おいおい」

赤木さんは笑いながら私のところまで戻ってくると、あいている左手で私の右手を掴んだ。

「ほら、行くぞ」
「あ、赤木さん…?」

しっかりと私の手を握って、赤木さんは私の家のほうに向かって歩き始めた。赤木さんの歩幅は相変わらず私より少し広くて、連れられている私の歩く速度も自然と速くなる。
赤木さんと手をつないで歩くなんて初めてのことだった。まるで高校生のカップルみたいで恥ずかしい。でも、その手を振りほどくことなんて私にはできなかった。

「お前はな、特別なんだ」

赤木さんはゆっくりとそう言った。赤木さんの手は私の手より少し大きくて、骨ばっていた。

「忘れっぽいこの俺が、お前のことは忘れないでこうやってちゃんと会いに来るだろ。だから特別なんだよ。うまく言えねぇけど、美人だとか顔がかわいいとかいうことよりも、そっちのほうが俺にとっては大事なことなんだ」

赤木さんは隣を歩く私に目をやって、楽しそうに笑った。つないでいる手は体温を分かちあっているせいか妙に熱くて、ついでに心臓の音はうるさくて、私は何を言えばいいのかわからなかった。

「な、だから締め出すのは勘弁してくれ。俺は早くシャワー浴びてビールが飲みてぇんだ」
「…せっかく今いいこと言ったのに、それじゃあ全部台無しですよ」
「そうか?」
「……ワガママ言ってごめんなさい」
「バカ。いいんだよ、いくらでも言えば」

赤木さんは目を細めてまた笑い、私の手をぎゅっと強く握った。
私もおずおずと、そのあたたかい手を握り返した。



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