「今度の、日曜の話なんやけど」
リツカは原田の前にコーヒーのマグカップを置き、向かいのソファーに座った。
時刻は23時を少し回ったところで、外ではぽつぽつと雨が降っていた。
「一緒にレストランにディナーを食べに行く日ですか?」
「ああ、その日や。あのな」
原田は言いにくそうに言葉を切って、コーヒーをひと口飲んだ。
「急用が入ってしもて、行かれへんようになったわ」
リツカは自分のマグカップを口元まで持ちあげていたが、一口も飲まずにそのままおろした。テーブルにマグカップを置く、とん、という音が静かな部屋に響いた。
「松中会の二代目が病気でぶっ倒れたらしゅうてな、正直あいつに恩なんか何もあらんし別にどうでもええんやけど、まぁ立場上そういう訳にもいかへんし死ぬ前にちょっと会っとかんと後々面倒やから」
原田は早口でそこまで理由をしゃべると、ため息をついてリツカを見た。
リツカは足の上で組んだ自分の手に目を落として、唇を噛んでいた。
「せやから悪いんやけど、飯食いに行くんはまた今度な」
沈黙。
雨が屋根を打つ音だけがかすかに響いている。
原田は手持ち無沙汰に緩めたネクタイなどをいじりながら、目の前に座るリツカが口を開くのを待った。
原田は組長として多忙な日々を送っているし、リツカも社会人としてごく普通に毎日働いているので2人の休みが噛み合うことはごく稀だった。仕事を終えた原田がこうして深夜にリツカの家を訪ねてくることがたまにあるだけで、一緒に食事をしに行くことすらほとんど出来ないのが現状であった。
先ほど原田は「今度」と言ったが、その「今度」がいったいいつ来るのか、原田にもわからなかった。
「楽しみに…してたのに…」
突然、リツカがぽろぽろと涙をこぼして泣き始めたので、原田はぎょっとして目を見開いた。
「な、なにも泣くことあらへんやろ」
うつむいて肩を震わせているリツカは、時折しゃくりあげるだけで何も言わなかった。
原田はどうすればいいのかわからず、マグカップの中のコーヒーを喉に流しこんだ。熱いコーヒーはただ苦いだけで、他の味はまったくわからなかった。
原田は本来、人前で涙を見せるような面倒くさい女は嫌いであった。これが誰かどうでもいい別の女であれば舌打ちでもしてさっさと部屋から出ていくか、めそめそするなと怒鳴りつけるかの二択なのだが、リツカの場合はそれが両方とも出来なかった。
惚れた弱みとでも言えばいいのだろうか、高圧的に接することが出来ないのだ。
「しゃあないねん、仕事や。俺かて死にかけのジジイのとこなんか行きたないわ」
言葉自体はぶっきらぼうであったが自分なりの優しい声色を使って、原田はリツカの顔色をうかがった。
「…どうしようもないこと…くらい…、…わかってますよ…」
また、沈黙。
一応、泣きやんだらしいリツカは涙で濡れた頬をテーブルの上にあったハンドタオルでぬぐい、唇を固く結んだままそっぽを向いた。
原田は部屋の中を漂う重くて気まずい空気に耐えきれず、コーヒーをすすり、咳払いを数度した。
基本的には率直な性格のリツカだったが、少々頑固な一面も持っており、こうして口を結んで黙ってしまうとなかなかいつものように戻ってくれないのだった。
こういう時は素直に謝罪するに限る。
原田は意を決して、ぐいと頭を下げた。
「ほんまにすまんと思っとる、俺が悪かった。……だから、許してぇや」
リツカは苦い顔のまま動こうとしない。
「かわりに欲しいもんならなんでも買うてやるから。服でも時計でも車でも」
ひどく安っぽい口説き文句であることは重々承知していたが、それ以外に何を言えばいいか原田にはわからなかった。
「……いりませんよ、そんなもの」
リツカは原田の顔も見ずに答えた。
「なら 、なにが欲しいんや」
「……欲しいものなんてありません」
原田は完全に弱ってしまい、眉間に皺を寄せた。
金を積み、ものを贈る以外に、原田は愛を語る方法を知らなかった。今までそういう恋愛しかしてこなかったのだ。
無欲さはリツカの美徳の一つであったが、それはいつも原田の頭を悩ませた。
「じゃあ、俺はどうすればええ」
「………」
「出来ることならなんでも、する。なんでもするから、なぁ」
「………」
「リツカ」
リツカはゆっくりと顔をあげて、原田を見た。
「…それなら」
「ああ」
「ハグ、してください」
泣いたばかりの赤い目元をしたリツカの顔は真剣だった。
「…そんなことでええんか」
「優しく、ですよ」
リツカが念を押す。
原田はソファーから腰をあげるとリツカの傍に行き、ほら、と言って腕を広げた。リツカも立ちあがり、腕の中に身を寄せた。原田はその細い体を、言われた通り出来るだけ優しく抱きしめた。リツカも原田の背中に腕を回してぎゅうと抱きしめかえした。
「克美さん」
「なんや」
「…許してあげます」
原田の肩に顔をうずめたまま、リツカは小さな声で言った。思い出したように、最初からべつに怒ってないですし、と言い訳を付け足す。
リツカの髪から漂う、かすかなシャンプーの香りが原田の鼻先をくすぐった。
「…お前は、ほんま安上がりやなぁ」
「克美さんのハグはそんなに安売りしてるんですか?」
「そういう意味やないわ」
リツカは目だけを上げて原田を見上げ、それからすぐにうつむいて目を閉じ、原田の背中に回している腕の力を強くした。
そのいじらしい様子に、原田は少しだけ口角をつりあげて静かに笑った。
リツカの言動ひとつひとつに一喜一憂し慌てたり悩んだりする姿は、自分で考えても滑稽なものに思えた。
どうしてこんな女一人に振り回されるのかと情けなく思うこともままあり、その度にヤクザの組長として外に見せているような態度で振る舞おうとするのだが、実際にリツカの顔を見てしまうとどうにも上手くいかないのだった。
彼女の気まぐれに付き合うのは面倒ではあったが、何故だかそれほど嫌だと感じない自分がいることにも原田は気がついていた。
「もうちょっと、こうしててもいいですか」
そう耳元で囁かれて、原田はとても部下には聞かせられないような甘ったるい声で、
「好きにせぇ」
と答えた。