作品 | ナノ
ああ、またこの匂い。鼻腔をくすぐる微かな香りが私の神経をこれでもかというくらい刺激して、同時にそれは無遠慮に心を抉った。
「何ショ、そんな怖い顔して」
ニヤついたその顔はもう見飽きた。勘の鋭い彼が自分に纏わり付いたその匂いに気づいていないわけがない。わざとあの女と会った後になんの工作もしないで私と会うのは毎度のことだし、恐らく、女も自分と会った後に私に会いに行っていることも知っているのだろう。毎度彼に大袈裟に身を摺り寄せ、わざとらしく自分の残り香をつける。そうして私を苦しめて楽しんでいるのだ。
けれど、1番楽しんでいるのはこの男だ。巻島裕介。こいつはきっと、自分の香りを擦りつけてくる女を見て笑い、その香りに不機嫌そうに眉間にシワを寄せる私を見て笑っている。
「…別に、アンタの婚約者様は随分激しいマーキングをするのね、と思っただけ」
「クハ、まぁな。独占欲が強いんだろうよ」
「独占欲が強くて高飛車なお嬢様が浮気をされて、よくもまだアンタの言い成りでいられるものね」
「飼いならしてるからなァ」
そこは愛されてるから、とか、そういう言い方をするべきだろう。いかに文字通り飼いならしていたとしても、婚約者にその言い方はどうなんだ。
大袈裟に溜息をついた私がそんなに面白いのか、彼は口角をさらに持ち上げた。
「それを言うならお前の方こそ、プライドとかねぇの?」
「アンタと付き合ってたらそんなの邪魔なだけ。流石に学習したわ」
「賢い女は好きっショ」
ワガママな箱入り娘である婚約者様はどうにも彼のタイプではないらしい。
婚約が決まった2年前、それを告げた裕介に「じゃあ私とは別れるんだ」と言ってみると、彼は冗談じゃないと笑っていた。高校時代からお付き合いをしていた私はその日から恋人から浮気相手になったのだが、どうにも、彼の中の優先順位ではまだ私が上にあるらしかった。婚約者よりも浮気相手が上だなんて、変な不等式だ。
「でもさぁ、こんなのいつまでも続けられないわよ」
「そんときゃ、駆け落ちでもするっショ」
「嫌よ、私、アンタに鞄一つで着いてこいって言われても行かない」
「ツれねぇ女だなァ」
「お兄さんの会社にコネ入社が決まってるボンボンには言われたかないわよ。もっと経済力を身につけて出直しなさい」
唇を湿らす為にコーヒーを啜る。ブラックの飲めない私を巻島は子供だとか何とかいうけれど、味覚においての好みまでアンタに合わせてやるつもりは更々ない。
駆け落ちなんて現実味のないことを現実主義の巻島がやるとは思えないし、私もさせるつもりはない。かと言って、このままはいそうですかと引き下がるワケにもいかないのだ。頭の悪い婚約者様はもちろん、誰にだって、この男は譲らない。そう、決めていたのに。
「今日、行かないでって泣かれちまったよ」
ついに、泣いたのか。むしろ今まで全て自分の思い通りだった箱入りの彼女がぞんざいに扱われ続け、よくこれまで泣かなかったものだと思う。飼いならす、という彼のやり方が優しいものなのか、はたまた冷たいものなのかは聞いたことがないけど。自分の、たとえ利益を求めての婚約だったとしても、巻島が思ってくれているのは私だったとしても、流石に見知った女に泣かれるのは少し思うところがあるのか、彼は参ったといいたげな顔をしていた。
私達を手の平で弄び笑っているのは巻島だが、それによって一番傷つき、疲れているのもまた彼だった。彼は何も、やりたくてこんなことをしているわけではない。利口であるが故に、婚約者を見放すことが自分や家族、会社にどのような損害があるかも知っているし、けれど、私がいるから。彼は私を愛しているから私を捨てられない。
「ああ、なんだ…」
邪魔者は私だけじゃないか。私がいなくなれば全てうまく行く。コーヒーカップに落ちた水は勿論甘いものなどではなかった。「お前まで泣くなっショ…」泣きたいのはこっちだっての、巻島はそう言って私の頭を撫でた。
止まることのない涙が迷う私を、言いたくない離れたくないと駄々を捏ねる自分を押さえつける。私は一番言いたくなくて、けれど言わなければならない言葉を口にした。