作品 | ナノ
好きな人が出来た。恋に落ちた。その瞬間はバラ色であった。世界は死ぬほど輝いて見えたし、生きる活力が漲ったと思った。人生捨てたものじゃないとすら思った。そもそもわたしは人生を捨てていないというのに。
「荒北?ああ、彼女いるよね」
だけどそれは一瞬であった。恋に落ちた瞬間にわたしはその事実を知り、世界の終りを感じた。もう生きている意味がないとすら思った。人生捨てたいと思った。
「あ、荒北彼女いるの、」
「いるらしいよー。あの隣の学部の子」
「ど、どんな子」
「えーわたしもちらっとしか見た事ないけど、綺麗な子だったよー。色っぽい感じ」
「…そ、そっか」
「なに、もしかして荒北狙ってたの?」
「そんな事ない!」
「え、じゃあ何でキョドってんの」
語尾に顔文字でもつきそうな気軽さで話す友人が信じられないと思った。動揺を悟られないように密かに戦慄いていると、友人は笑った。
「まあけどさっきのはかっこよかったよね」
「…」
荒北靖友に恋に落ちたのは些細な事がきっかけであった。偶々実験のペアが彼であった。それまで話した事もない、ただ同じ学部の気性が激しい男がペアで怯えきっていたわたしは案の定実験の手順を間違えた。それはもう盛大にやらかした。実験器具を幾つか壊した。結果は出ず考察もできず、その授業を持っている教授も助手も引くレベルで失敗したのである。
終ったと思った。これは殺される。ペアの男に殺される。目つきも悪いし言葉も態度も悪い。殴られるかもしれない。そう思った瞬間であった。
「…怪我とかはねえのか」
「う、うん」
「あっそ」
「ご、ごめんね」
「あ?」
「わたしのせいで、結果出なくて」
「別に気にしてねーよ」
その瞬間に、世界がバラ色に変わったのだ。怖いと思っていた人が案外優しかった。気遣ってくれた。失敗したのに許してくれた。輝いて見えた。もうすでに輝きは失われ、わたしの世界はドブ色だけれど。
「彼女がいるからって諦めなくてもよくない?」
「は?」
「別に結婚してるわけじゃないし。奪っちゃえばいいじゃん」
友人の言葉にわたしは耳を疑った。この女は何を言っているのかと。
「いやそんなビッチみたいな事は、」
「そういえば今度、学科の飲み会あるよね。それに荒北も来るでしょ?酔った勢いでさー迫っちゃいなよ」
「は、」
「学科の飲み会だから、彼女は来ないだろうし」
語尾にハートマークでもつきそうな気軽さで話す友人が信じられないと思った。動揺を悟られないように密かに戦慄いていると、友人は笑った。
「良い子ちゃんなだけじゃ、幸せは手に入らないよ」
この女は悪魔だと思った。
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「荒北、部屋どこ?」
「…角」
「もう少しだから、」
それがどうしてこうなった。友人を悪魔だと比喩した自分を殴りたい。悪魔はわたしの中にも確かに存在したのだ。
今日は学科の飲み会だった。友人の計らいで、わたしは荒北の隣をキープする事が出来た。うちの学科は殆ど男ばかりである。文系ほどではないと思うが、それなりにコールなどもあった。荒北はやたら飲まされていた。
「荒北はお酒強いの?」
「強くねーよ」
「そうなんだ」
「お前は」
「わたしは、全然飲めない」
「飲めなさそうだな」
「え!?」
そんな会話をした後、コールはわたしにも回ってきたが、荒北が代わりに飲んでくれた。好きだと思った。同時にどうして彼女がいるのに、こんなにも優しくしてくれるのだろうと思った。わたしは少しだけ自惚れた。図に乗ったわたしは彼に沢山お酒を勧めた。それはもうしつこいほどに。
―それがいけなかったのだ。散々飲まされて一人では帰れなくなった彼を、自宅まで送り届けると口を滑らせてしまった。もっと一緒にいたいと思ってしまった。彼の部屋に入れば、何か変わるかもしれないと思ってしまったのだ。あの時のわたしと荒北を送りだした友人のしたり顔は暫く忘れられそうもない。
「ここ?」
「…悪い」
「いいよ、部屋まで肩貸すね」
とんだ口実だ。ただ部屋にあがりたいだけの癖に、親切ぶって偽善を押しつける。わたしは嫌な女だと思った。
彼の手から鍵を取り、ドアを開ける。靴を脱いで、わたしはそのまま荒北に抱きついた。
「………オイ」
「…」
「酔ってんのか」
「酔ってないよ」
「……」
「今日、泊まっていっても、いい?」
声が震えた。当り前だ、わたしは彼氏がいた事はあっても、人の物に手を出した事はなかったのだ。顔も知らない、綺麗だという荒北の彼女に罪悪感は不思議と沸かなかった。それよりも心臓が痛かった。目がちかちかする。わたしはいま、世界で一番好きな人に、抱きついている。
「…いいわけねえだろ、」
「え、」
「ここまで送ってくれた事は悪いと思うし、感謝してる」
「!」
「…だから、頼むから帰ってくれ」
“頼むから”そう呟いた彼の声色は、酔っぱらっていた時の声とは違っていた。酔いがさめたのだろうか。そんなはずはない、だってまだ大した時間も経っていないのだ。
「…何で」
「オレ彼女いるから」
「……彼女いてもいいじゃん、」
「よくねーよ」
「………好きなの」
「…ごめん」
わたしは酔っているのかもしれない。頭の中の冷静な部分にいる自分がそう囁いた気がした。乾杯の時に口をつけたビールで、きっと酔っているのだ。そうじゃなければこんな事がいえるはずもない。
「浮気でいいよ、今晩だけでもいいよ。だから、わたしと」
「…よくねーよ」
「……じゃあなんで優しくするの」
「……は、」
「実験失敗しても怒らないし、今日だって話してくれたし」
「……」
「代わりにお酒飲んでくれたし、なんで―、」
「別に、」
「…」
「別に、優しくしたつもりはねえよ」
「え、」
「だから帰ってくれ」
彼はそう呟き、わたしの手を解いた。少しだけ乱雑だったけれど、痛みは感じなかった。そのまま彼はドアを押し、わたしを外に出す。
「…今から金城呼ぶわ」
「…は?」
「ここの近くに住んでるやつ。お前一人で帰せねーだろ」
「……いい、一人で帰れる」
「はあ?今何時だと思って、」
「帰れるから、いい」
危ないと言うなら泊めてくれればいいのに。断るなら優しくしなければいいのに。どうしてこの男は、こんなにもひたむきにわたしに向き合おうとするのか。勝手に上がり込んで抱きついただけの、ただの学部が同じなだけなわたしに。
わたしは耳元のピアスを外した。そしてそれを彼の部屋に投げ入れる。未だに酔いが残っている荒北は、どうやら気づいていないようであった。そのまま彼の声を無視してわたしは走る。
「死にたい」
呟いた声は、きっと誰にも拾ってもらえない。死にたい。本当に死にたい。好きな人を酔わせて部屋にまで入ったのに、浮気相手にもなれなかった。セフレにすらしてもらえなかった。酔った勢いでどうにかなると思った。どうにもならなかった。死にたくて堪らない。
どうして荒北は死にたくなるほど醜いわたしに、誠実に向き合おうとするのだろう。興味のない女に飲まされて部屋までついて来られて抱きつかれて泊まらせてくれと言われ、更にはしつこく食い下がられたのだからもっと無碍に扱えばいい。それなのに最後まで優しくする。殺したいくらいに誠実で憎いと思った。
「死にたい」
最後に投げ入れたピアスは効果を発揮するのだろうか。彼女に見つかって別れれば良い。こんなことならば無理やりキスマークでもつけてやればよかった。もっと飲ませて泥酔状態にして、既成事実でも作ればよかった。
死にたいくらい醜い考えを吟味して笑う。荒北ごめんね。わたしは死にたいくらいに貴方が好きだし、殺したいくらいに貴方が憎い。
(140827bitch/7)