作品 | ナノ
愛をひとつ、足蹴にした。これは私と彼のお話。


ひとりずつ一杯無料だというので、私はレモンスカッシュを、青八木さんはポカリスエットを注文した。青八木さんがシャワーを浴びている間ずっと、私はしゅわしゅわ弾けるパステルイエローを眺めていた。生まれては消える泡は、その一瞬になにを思うのだろう。汗をかいたグラスを指でなぞってみても、泡たちは答えてはくれないけれど。私も泡のように消えてなくなってしまいたいと言えば、無口な彼はなんと答えるだろう。聞けば、答えてくれるだろうか。

広くて豪華なこの部屋の値段を、私はまだ知らない。私たちの逢瀬の場所は決まってラブホテルだけど、特定のホテルではないのだ。私の行きたいホテルに連れて行くと言ってくれたので、部屋とベッドとお風呂が綺麗で、ルームサービスが充実しているところであればどこでもいいと冗談半分で言った。そうしたら本当に、今回はここ、次はここ、と毎回とても素敵なホテルに連れて行ってくれる。青八木さんと会えるのならどこだってよかったから、ちょっとした我侭を言って反応を見たかったんだけれど、彼はいつもと変わらない無表情でコクリと頷いただけだった。

青八木さんのセレクトはいつだって私の好みにあっていた。ベッドには必ず天蓋が付いているし、お風呂は露天風呂だったりテレビがついていたりするし、ルームサービスのメニューはファミレスなんかよりずっと豪勢だ。多分、ルームサービスだけは彼の嗜好が入っているんだろうけど。(あの細い体に大量の食べ物がどんどん吸い込まれていくのを、初めて見たときは本当に驚いたものだ)

「こんなお部屋、高いでしょ?」そう訊ねると、彼は決まって首を横に振る。私はそんなこと、気にしなくってもいいんだって。私がお部屋代を知るのはいつも精算の時なのだ。その額は必ず諭吉氏二人分をこえていて、私と一夜を過ごすために、複数の諭吉氏とのサヨナラをいとわない青八木さんの金銭感覚にどことなく気が遠くなった。「名前との時間はこんなに安くない」なんてキザな台詞を真顔で言うものだから私もついつい甘えてしまうけど、やはり、少しは遠慮するべきなのだろうな。せめてお風呂くらいは先に入ってもらっているのだけれど、この官能的で解放された空間は、私には不相応で落ち着かない。僅かにだが確かに居心地の悪さを感じていることに、彼はきっと、気付いてはいない。





「名前」
「もう、出たの。相変わらず早いね」
「男はそんなにかからない」



濡れた髪にタオルをかぶせた青八木さんは、私の隣に腰をおろした。うなじを隠してしまう長さの金髪にラブホテルのバスローブ姿は、夜の街で女の人に愛を囁くホストのようだ。もう何度も見ているはずなのに いつまでもその姿に慣れないのは、自転車に乗っているところを見せてもらったことが少なからず関係しているのだろう。私に覆いかぶさってキスをする時とはまた、違った熱を帯びた瞳でひたむきにペダルを回す青八木さんを、心の底からかっこいいと思ったけれど、もう一度見たいとは思えなかった。私の前を疾風より早く、マグマよりも熱い空気を纏って通り過ぎた彼の横顔はとても真摯で、無表情なはずなのに楽しそうに笑っているように見えた。私の頭を優しく撫でる青八木さんと、自転車に乗っている青八木さんは間違いなく同じ人だというのに、まったくの別人みたいなのだ。



「風呂、いいのか」
「もう少ししたら、入るね」
「わかった」



ひとりで部屋に残されるのも、ひとりでお風呂に入るのも好きではない。一瞬でも青八木さんから目を離したら、すいっと自転車でどこかに行ってしまいそうな気がするの。元々私のものではないくせに図々しく不安になって、本当に馬鹿みたいだと思う。



「青八木さん、」



寄り添って、子猫のように甘えてみる。なんて、自分で言ってて、虚しくなってきた。私は子猫なんて無邪気なものじゃない。計算高い巧妙な女豹だ。



「……私、とってもひどいことをしてる」
「そんなことない」
「……こんなことしちゃ駄目なんだって、わかってるのに」



青八木さんと逢う時、頭の隅でじっと私を凝視する“彼”は、私の気持ちが他に向いていることを知らないのだ。高校の時の友達の家に泊まってくる、なんて拙劣な理由が何度もすんなり通ってしまうくらい、彼は私のことを信用してくれている。キスをしなくなっても、裸を見せなくなっても、適当な言い訳を述べれば笑顔で許してくれる。「君を大切にするよ」彼は結婚式で私に誓った言葉を十分すぎるほどに守ってくれている。記念日はもちろんのこと、そうじゃない日にも花束を抱えて帰ってきた。雑誌に取り上げられていたシュークリームを仕事帰りに並んで買ってきてくれた。流行りのワンピースをプレゼントしてくれた。「君に似合うと思って」“彼”が買ってくれたワンピースを着て、私は青八木さんの胸に飛び込んだ。「君が美味しそうって言ったから」“彼”が買ってくれたシュークリームがとても美味しかったから、青八木さんと一緒に買いに行った。「君にピッタリだと思ったんだ」それは、かすみ草の花束。聡明かつロマンチストな“彼”のことだから、きっと花言葉まで心得てあの花を選んだのだろう。私も知ってるんだよ。かすみ草の花言葉はね、“清らかな恋”。あなたは知らないでしょう。私、あなたにそんな素敵な花を贈ってもらえる価値なんて、これっぽっちもないんだよ。





「たとえば」



青八木さんは飲みかけていたポカリを置いて、独り言のように言葉を紡ぎ出した。




「たとえば俺が、俺の妻と名前の夫に悪いから今すぐこの関係を終わらせようと言ったら。名前は納得して、俺の隣からいなくなるのか」



捲し立てるようなその問いかけは、私の薄っぺらい偽の罪悪感を取りはがすようなものだった。彼に浅ましい内心を見透かされたみたいで、私は途端に恥ずかしくなる。彼はちっとも怒っていないのに、何故か責められている気分になった自分に心底呆れた。
誰になにを言われても、たとえ夫が私の首に包丁を当てがって「彼と別れなければ君を殺すよ」と脅したって、私は絶対に青八木さんへの想いを消さないのに。彼の奥さんにどれだけ罵られ蔑まれて「どうか別れて」と泣きつかれても、きっと私は平然とした顔で青八木さんにキスをねだるんだ。




「俺は、名前といたいがために、嘘ばかりついている」

それは私のほう。

「今日だって友人の家に泊まると言ってここに来た。その友人にも口裏を合わせてくれとだけ言って、名前のことは一切隠している」

私も同じだよ。

「それなのに俺は顔色ひとつ変えない」

そうだね。

「こんな俺を、名前は軽蔑するのか」





「ううん、だって、私もそうだもの」



彼の目を見て、きっぱりと言った。それと、「ごめんね」も。そんなことを言わせて、私はなんて情けない女なのだろうか。軽蔑するはずがない、できるわけがない。私だって平然とした顔でみんなに嘘をついて、青八木さんだけを手に入れている。夫も友達もいらない。青八木さんさえいてくれたらそれでいい。そこに、罪悪感なんて、あるはずがないんだから。




「多分ね、私のほうが嘘つきなの。ひどいことをしてるだなんて酷い嘘を、青八木さんについちゃったもの」
「いい。名前が不安になってることに気付かなかった俺が悪い」
「そんなこと、」



続きの言葉は、彼の唇によって塞がれ、絡められた舌に奪われてしまった。私を抱き締める青八木さんの腕の中は温かくて、彼の背中に手を回すと、より強く抱き締められた。ああ、これだけは嘘じゃない。あなただけは失いたくはない。他になにを失ったとしても、




「ねえ、今まで嘘をついた分だけキスしてって言ったら、どうなっちゃう?」
「そしたら俺は、名前を窒死させてしまう」
「それ、すごく素敵。じゃあ私も、青八木さんにキスさせてくれる? きっと私もあなたを窒死させてしまうけれど」
「なら、俺と一緒に死んでほしい」
「……それ、プロポーズみたい」
「そのつもりだ」



私自身を失ったとしても、あなたと一緒なら構わない。噛み付くようなキスを何度も繰り返して、このまま永遠に朝がこなければいいと思った。



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