作品 | ナノ
自習をしていた。
自習をしていたというよりは、向かい合って座って、教材を広げたまま何にも手をつけていなかった、というほうが正しい。
午後五時の教室で、夕日が射し込む中彼の顔は逆光だった。
節くれだった指の上でシャープペンシルがくるくると踊る様子を、どこか遠いもののように眺めていた。
何もかもが遠くに思える場所だった。
何もかもが遠いと思いながら東堂を見つめることは、寒天の中に閉じこめられた果物のように穏やかなことだった。
「そうか」
「そうか、って……それだけなの?」
名前は苦笑した。そうしてから、名前から言い出したのに苦笑いをするのは筋ではないなと思った。
好きな人ができたの、と言った。別れよう、とも言った。
東堂はその言葉を聞いて一瞬、本当に一瞬目を見開いた気がして、それからそうか、と言った。表情はよく見えなかった。
なぜなら私は寒天の中にいたから。
好きな人ができてしまった。東堂尽八が惜しげもなくくれる感情と同じものを返せなくなってしまった。
気持ちのないまま東堂を自分のもとに縛りつけておくことはひどく不誠実で、許し難いことだった。
だから。
「今までありがとう。大好きだったよ」
解放しなければいけなかった。
東堂は視線を逸らさない。逸らさないまま名前をひたと見据えて、吐息をつき、弄んでいたシャープペンシルをことりと机に置いた。机に肘をついて指を組み、そこに顎を置き、名前を見つめた。
「知っていたよ、全部」
見つめたまま、東堂はひどく柔らかい声音でそう言った。
「俺もお前が大好きだ」
そうして東堂は微笑みさえした。
微笑んだのがわかってしまって、それを認識した瞬間、ひどくあっさりと名前の寒天は破壊された。
まず驚きが、そして戸惑いが、罪悪感がきて、──それら全部が過ぎ去って残ったものが、つまりは恋情だった。東堂尽八はなんて馬鹿なのだろう。そう名前は思った。それが名前の、東堂への決定打だった。
好きだからこそ。
逆光でわからないはずの表情がわかってしまうのはきっと「そう」だったからで、その事実が今さら心に刺さった。
東堂に告白されたのも放課後の教室だったなあ、とふと思った。全てが始まった場所で、今総てを終わらせている。それが道理なのか矛盾なのかわからなくて、ただ沈黙を落とす。
午後五時の教室の中、そこだけが真綿にくるまれたように静かで、理路整然と並ぶ机は東堂に似ていた。そう思うことが感傷だと、唐突に知った。
多分昔なら私はこのシーンで泣いていただろうな、と名前は思った。
名前だって理路整然と並ぶ机から、1ミリだってはみ出すつもりはなかったのだ。1ミリもはみ出すことなく彼の隣で笑っていたかったのだ。けれどそれは叶うことはない。だって名前は永遠に東堂尽八にはなれない。
だからせめて最後だけは、誠実な東堂に相応しい女でありたかっただけだった。
もうそうであることさえ許されないから、寒天の中に閉じ込めたまま永遠にしようと思った。
東堂と向かい合っていたこと。東堂に別れようと言ったこと。東堂が頷いたこと。大好きだと言われたこと。逆光のなか確かに東堂が笑ったこと。
東堂を好きだった2年間のこと。
恋を、していたこと。
全てを永遠にしよう。
沈みかけた夕日が空を端から紺青に染めあげていた。そしてその紺青の世界の中心に東堂がいた。泣きたいぐらい綺麗だと思った。
多分、今日のこの空を一生忘れないだろう。
「次の子と幸せになってね」
無感覚の終わりが来たのは、それからずっと後だった。
ノックをしてすぐに、寮の同室が出迎えてくれた。私はそれにただいまと返して、机に座り数学の教科書を開いた。シャープペンシルの冷たい金属の軸を握った。
名前にとって、既に習慣となっていたことだった。
全てが、いつもと変わらないはずの日常だった。
東堂のことと同じくらいに。
そう思い至ったとき。
ぼろり、と崩れて落ちたものを自覚して、遅れて実感が──喪失感が追いついてきた。
自分の中にあった思いの深さに気がついた。
今まで習慣になっていた全てのことが、どっと名前に襲いかかってきた。
同室が隣にいる。同室が出迎えてくれる。同室が出迎えてくれるだろう。これまでもこれからも。音楽を聴くだろう。歌を歌うだろう。コーヒーを買って飲むだろう。幼い頃から好きだったバタークッキーを食べるだろう。
けれど東堂はそこにはいない。
後悔ではなかった。後悔はしていないはずだった。でもそれならどの感情からくるものなのだろう。わからなかった。わかりたくなかった。わかっていいはずがなかった。
横で人が立ち上がった気配がして、そして気配が無言でティッシュの箱を差し出した。何も訊かれることはなかった。
差し出されたものを受け取りはしたが、拭うことができなくて、ただぼたぼたと目から寒天をこぼし続ける。
それは寒天でしかなかった。それは寒天でしかなかった。全ては寒天でしかなかった。
幸せになってね、だなんてよく言ったものだ。
幸せになってほしくなんてない。私以外の人と幸せになってほしくなんてない。自分勝手な感傷が止まらない。
だって、こんなに好きだった。
零れて止まらないものが熱いのは嘘で、これは嘘で、これは嘘で、そうでなければいけなかった。こぼれていくものにひどく現実感がなかった。なぜなら全ては寒天だからだ。現実であっていいはずがないじゃないか。
ぼろぼろと目から寒天を零している名前を見つめる視線がある。誰かが隣の部屋で騒いでいる。
永遠に彼はここには還らない。