作品 | ナノ
痛々しいと皆が言う。巻島先輩が渡英してからの私は、健気を通り越して見るに堪えないと。休め、落ち着け、思い詰めるな、忘れろ、エトセトラ。優しい人たちから差し出される、そんな無責任な言葉は例外無くすべてシャットダウンした。そんな時、巻島先輩から譲って貰った紫色のヘッドフォンは、とても役に立った。
「遠恋とか無理っショ…別れる?」
普段から困ったような顔をしている巻島先輩が、更に困った顔をしてそう尋ねてきたのは九割九分九厘私への思いやりで、残りの些末な一厘にだけ、彼の感情が乗っていた。巻島先輩はおそらく私と別れたかったのだ。
どうせ春がくれば卒業してしまう相手だったのだから、毎日逢えなくなるのがほんの少し早まっただけなのだ。そんな強がりでさえ涙を誘うほど、私と巻島先輩の物理的な距離は遠かった。主な連絡の手段はパソコンのメールだったが、それさえ万全とは言い難かった。巻島先輩の彼女であるという事実以外に寄る辺のない私と違って巻島先輩は忙しい人だった。私は暇さえあればデスクトップの電源を入れ、新着メールの表示がないのを確認してはぐずぐずと泣いた。その内に泣くことにも飽きて、ため息をつきながら電源を切る。この無意味な行為を繰り返す度に、心のどこかが欠け落ちていくような気がした。けれど、私はこのことを誰にも話せなかった。私は巻島先輩との来る宛のない未来を、疑うことなく信じていなければならなかった。そうでなければ優しい友人を装った残酷な他人をいたずらに喜ばせる結果になるだろう。巻島先輩を信じたい私にとって、それは耐え難い屈辱であった。
期末テストが始まる前に、放課後のバイトを増やした。お金を貯めて彼に逢いに行こうと思ってのことだ。それでも高校生の時給なんてたかが知れている。海外に行くだけの金額なんてそう簡単に貯まりそうに無かった。水商売も考えたが、流石に抵抗がある。就労時間をのばすことも考えたが、部活は続けたかった。自転車競技部のマネージャーを続けることで、少しでも巻島先輩と繋がっていられるような気がした。私は浅ましい。
部室は元々好きな場所だった。巻島先輩に恋をして、もっともっと好きになった。ここが私たちの居場所なのだと、心の底から思い込んでいた。そう遠くない過去にも、私が顔も知らない誰かがこの部屋に対してそう思っていたのだろう。
「先輩、何してるんですか?」
部室の壁に不自然に貼られたポスターを捲って、その裏にある穴を指で辿るのが私の日課だ。巻島先輩が作った穴。それもかなり間の抜けた理由で。それを思い出すだけで、私の口許は勝手に綻ぶ。彼がかつてここにいた証拠。私はこれを確認する為に、もしかしたらこの部に在籍し続けているのかもしれない。
「なんでもない…強いて言うなら巻島先輩不足を解消中」
「それなら電話でもかけた方が早いんじゃ…」
怪訝な顔をしながら入室してきたのは一学年下の今泉だった。噂によれば学園内にファンクラブなるものが存在するという彼は確かに端整な顔立ちをしていて、少女漫画の相手役がそのまま紙面から抜けてきたのだといっても通用しそうな風貌である。私はそんな後輩の正しい意見を無視して、既存の穴の存在確認を続行する。用事を済ませてさっさと退室するかと思いきや、今泉はなかなか出ていかない。動いている気配はない。それどころか、後頭部のあたりに痛いほど視線を感じる。
「いつまでそうしてるつもりですか?」
今泉はいつも不機嫌そうな調子で喋る。相手が私だと特に。
「私、巻島先輩がいなきゃ生きていけない」
だから今日、死ぬかもしれない。不意にそう感じた。巻島先輩がいないからだ。今泉に伝える必要なんて無かった。それでも呟かずに居られなかった私の弱さを、巻島先輩は知っているのだろうか。寂しいとか。辛いとか。逢いたいとか。メールでも、電話でも、一度も巻島先輩には伝えなかった。言ってしまったら、捨てられるような気がしたのだ。私には巻島先輩の存在が必要不可欠だったが、巻島先輩にとっては必ずしもそうではなかったので。腹の底に溜まった弱音は、吐いた瞬間に終止符に変わることを、私は本能的に知っていた。たった今、今泉相手に零してしまったけれど。
「先輩、」
僅かに震える、今泉の声。うなじのあたりに突き刺さる、熱い視線。私に見詰められていた巻島先輩もこんな気分だったのだろうか。そんなことを考えてしまう程に、その呼び掛けはかつての私の巻島先輩への呼び掛けに酷似していた。
「俺じゃ駄目ですか?」
力の抜けた指先からポスターが滑り落ちて、巻島先輩が空けた穴を覆い隠す。私は目を伏せて、こちらに近付いてくる今泉の足音が、実際にはコンクリートの床に吸い込まれてろくに聞こえないはずのその音が、何かのカウントダウンであるかのように耳を済ましている。



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -