作品 | ナノ
いつからかなんて、もう忘れたけれど。
気がついたら、あなたに恋をしていた。
蛍光イエローの球を追っていたはずの視線が、いつの間にか、隣のコートに立つすらりとしたジャージの後ろ姿を捉えていたことに、気づいた。
彼が目立つのは色の薄い髪のせいだけではなく、初心者の中でも群を抜いて巧かったせいもあるのだろう。
それこそ、ゲームでテニス部と対戦して勝てるぐらいには。
「黒田くん、テニスもできるんだねー!」
「うん、何でもできてほんとかっこいいよね」
同じテニス選択の女の子たちが彼を見て色めき立つのを横目に、きゅ、とラケットを握る手に力を入れる。
何年も使ってすっかり手に馴染んだそれがてのひらに冷たい感触を返した。それにやっとのことで平静を取り戻し、また追い慣れた小さな球をネットの向こうに打ち返す。
の、に。
……ああ、だめだ。また目で追っている。
「すごいね、黒田くん」
箒を持つ手は休みなく動かしながら、視線だけを向けて話しかけると、彼は何のことだと問うように首を少し傾げて私を見上げた。
「テニス。選択授業で一緒でしょ」
「ああ、あれ。俺なんかより、何年も続けてる名字のほうがすげーだろ」
「そんなことない。正直黒田くんのフォームの綺麗さ、経験者でも憧れる」
私が階段を、黒田くんが踊り場を掃除しているから、いつもと逆の位置で交差する視線。彼が上目遣いに私を見上げて話しかけてくる掃除時間。
男友達とふざけ合っているときの快活な横顔は鳴りを潜め、穏やかな声音で話す黒田くんはまるで別人だった。
「それに、自転車一筋って大分前に決めたからな」
そんでいつか、あの気に食わねえ先輩越えてやる。
そう小声で続け、照れたように視線をすっと斜め下に逸らしてはにかんだように笑う、黒田くんに、その表情に。
思わず箒を止めてしまった。
見惚れたなんて死んでも言えない。
『名前』
私の名前を呼んで笑う恋人の、穏やかなテノールが、今このタイミングで耳の奥によみがえる。
世界史の授業中。真剣な目で話を聞いている。
化学の授業中。唇にシャーペンの頭を当てて解法を考えている。
英語の授業中。眠たそうに長い瞬きをして、かくり、と首が折れた。
それらにどきどきしたり、はたまたくすり、と笑ってしまったり、そんな自分に気づくたびに慌てて顔をきりっと引き締め先生の話に集中する。
中央の列の一番後ろの席という特権を駆使して授業中に黒田くんを盗み見る回数が増えるたび、遣り場のない思いは募る。振り払えるものならそうしたい。
………それでもまた、気がつけば彼を横目で盗み見ている。
視線が熱を帯びるのを、止められない。
──ああ、病的だ。
そして数学、こちらを向かないと高を括っていた後頭部、が。
数学の授業では、板書が前黒板だけでは足りずに大体毎日後ろ黒板も使って解説をする。
この日はたまたま、前の日に部活を頑張りすぎて、寝るとまではいかないものの少々先生の話を聞いていなかったから。
先生が後ろ黒板まで歩いてきたことに気がつかなくて、
──それはつまり、後ろ黒板を振り返った黒田くんと目が合ってしまうということで。
ぱちり、吊り目が驚いたようにひとつ、瞬いた。
視線を逸らすタイミングを逃した。
見つめ合ったままじわり、と頬が上気するのを、胸がきゅうと甘く締めつけられるのを、鼓動が焦ったように早くなるのを自覚する。
この感情を恋と言わずに何と呼べばいいのか、私は知らない。
もうやだ助けて、助けてお願い。
『今日、部屋まで会いに来て』
お願いだから、忘れさせてよ全部全部何もかも。
泣きそうになりながら、机の下で、そう思いを込めて、恋人に宛ててメールを送る。
彼が帰った寮の自室。汗でべたついた身体をそのままにシーツにくるまったまま、ふ、と熱い息をついて虚ろに天井を見上げた。
彼は私が望んだとおりに自室に来てくれて、私がねだったとおりに全部どうでもよくなってしまうぐらいにとろとろに溶かしてくれた、
──はずだった。
甘い熱の余韻にあてられて微睡みながら、夢に見たのはそれでもつい先刻まで何度も私の名前を呼んだひとではなかった。
どうして忘れさせてくれないの、どうして忘れられないの、と絶望した。
色が薄いさらさらの髪は指どおりがよさそう。
考え事をするときに鼻の下をこする癖がかわいい。
立ち姿がすらりとしていて綺麗。
細かいところに気がつく一面が素敵。
二重瞼の鋭い目が、くしゃりと笑う幼い笑顔が、小生意気な照れ隠しが。
好き。
これは、浮気になるのだろうか。
キスをしてもセックスをしても何をしても、あのひとにいとも簡単に軒並み気持ちを攫われる。
関係性は何一つ変わらないままに、私の心だけが変わってゆく。
そのことに気づいて、どうしようもなく泣きたくなった。
彼が私に不誠実であったなら私はこんなに苦しんでなどいないし、悩む悩まない以前にとっくに別れている。
けれど私の恋人は、私だけにこの上なく優しくて甘くて、私だけを愛してくれているから。
胸の上を強く圧迫されているみたいに、痛くて苦しい。
好きになるだけ苦しくなる。
好きが積もるたび息ができない。
いっそ嫌いになれればいいのに、それができない私は馬鹿な女だと、我ながら思う。
──もう嫌だ。やめたい。終わらせたい。
終わりは唐突だった。
「名字、」
いきなり名前を呼ばれて腕をとられて、誰かと思って振り向けばそこには、耳まで真っ赤な黒田くんが、いて、
「……アンタが、好きだ」
え、今、なんていったの?
「──え、」
詰まった喉から絞り出された声は言葉にならずに、掠れて消えた。
言葉を、失った。
どうして。そんなことを言うの。
好きだよ。好きだよ黒田くん。でもだめ。私には付き合っている人がいて、黒田くんはそれを知っていて、なのに。
なぜ、今なのだろう。ねえどうして。
目を見開いて固まる私に、このひとはどこまでも容赦がない。
「付き合って、くれないか」
声のほんの少しの震えさえ愛しい。
「浮気でいい。二番目でいい」
それじゃ嫌だ、隣が、欲しい。
そう思ったら、もうだめだった。
覚悟を決めて、震える手を伸ばす。さあ。
返事をしよう、戦慄く唇を開いて。さあ。
私は今、何をしようとしているのだろう。
これは、あのひとに対しても、黒田くんに対しても最低で最悪の裏切りであるというのに。
黒田くんは私の大事なひとだから、浮気相手だなんてそんな軽い扱いをしたくないのに。
──それでもいい、と言う目の前の男の真剣な目が、私の心を捉えて離さない。
頬を伝うものは、誰のためのそれだったか。
「───はい」
誰に間違っていると言われても、もう私は戻れない。
だから、どうか。私に罰を。
ゆるしてくれなくていいから。
償いなら、いくらでもするから。