作品 | ナノ
 音が聞こえた。それは俺の耳を劈く、嫌な音だ。

「真護くん?」
「ああ。行くぞ。」

 名字名前と出会ったのは随分前になる。告白は俺が酔った勢いでしたらしい。どんな言葉を言ったかさえ覚えていなかったが、後になって友人に聞いた話では名字にべったりとくっついて離れなかったそうだ。次の日、「大丈夫だよ、気にしてないからね。それよりも体調はどうかな?」と笑顔で返されて俺はやられてしまった。

女子に声をかけられることには慣れていた。嫌味などではないが、そうとられても仕方がない。おそらく彼女もそう思ったのだろう。俺の隣にいる自信がないと言い出したのだ。それはなんだ?その自信がなければ駄目なのか?ならば俺がどう説得しても意味はない。何百回と愛の言葉を囁けばその自信がつくというのなら、そうしてやったかもしれない。が、そうではないと彼女は言う。私の問題だから、と悲しい表情をされても俺は納得できなかった。

俺はそれをむしろ"俺を信用していない"と、捉えてしまった。

「彼女いるでしょ。」
「……どうだろうな。」
「見たらわかるよ。浮気されたの?仕返し?やられたらやり返すって感じ?」
「……。」

この女はよく喋る。今日きりだというのに聞いて何かになるか?俺は何をしているんだ。いや、だがもう引けない。名字が俺を信用しなかった罰だ。こんなこと幼稚だったともう少し時間が経てば俺自身思うのだろう。この女と並んで歩いている今、俺は彼女の姿を探しては心臓を高鳴らせていた。

はっきりと別れは告げていない。名字も肝心なところは言わずに、俺の部屋を去った。合鍵をテーブルに置いて、マグカップもそのまま、歯ブラシも、下着も置いたままだ。いずれ取りに来るだろうか。事前に連絡は来るだろうな……もう鍵は俺の手元にあるからな。

俺は何故これを捨てられない?

「気分だ。」
「人って見かけによらないね。私は今日の相手がイケメンでラッキーだけど。」
「俺の顔がこうじゃなければ、こんな事にはなっていない。」
「……今なら帰ってもいいんだよ?」
「そうはいかない。」

「ふぅん。答えは出ないし後悔するだけでも、やるって決意が固いってわけね。」

「金城くん?」

聞こえた声。その声が俺の耳をくすぐる度、色々な音が鳴る。

俺は素早く隣にいる名前も知らない女の手を握ってやった。

帰り道は把握していた。ほぼ毎日寄る本屋も、好きな本の種類も知った。案外俺と合うと笑いながら話したのはここから数メートル先にあるファミレスだ。深夜までやっているその場所は何度か二人で利用した。もうそんなことも出来なくなる。ああ、俺のこの手は何がしたいんだ。

「……。」
「名字。」

手を握られても表情ひとつ変えず、先ほどまでよく動いていた口は閉ざされた。この女も何を考えているかわからんが、どうだっていい。

名字、これが欲しかった答えだろ?俺がこうして遊んでいると思ったことがあるからあんな事を言って、俺を困らせた。だからそのイメージ通り、こうすれば俺を嫌いになることが出来るんだろ?

「金城くん、邪魔しちゃったね……。じゃ、じゃあ……。」

震えた声と同時に俺の耳に入った音は、すべてが崩れる前触れのような音だった。

小さい足音と共に、名字の姿は離れていく。

「……ああ、もう!何これ!とっとと追いかけなよ!」
「俺は、嫌われたんだ。」
「そう仕向けといてよく言う!」
「俺は……。」

どうして名字が鍵を捨てないのか疑問だった。俺が持っていると何か嫌なことを考えるとでも思ったのだろうか。確かに誰かが自分の家の鍵を持っているというのはあまり良い気分ではない。それでも俺は名字ならば、ずっと持っていてくれと思っていたんだ。何もかも捨てられない俺は最低でずる賢く、他人をも使い、こんなことをしてしまった。

俺は真面目でもない。完璧でもない。しっかりなんてしていない。だが女子は口を揃えてこんなことを言う。だから、酔ってどうしようもない俺を見て、周りは嘆き、笑い、からかっていた。それでも彼女だけは黙ってずっと俺の体調を案じていた。そして次の日、あんな風に言った名字がたまらなく愛おしく思えたんだ。らしくないね、でもなく、驚いた、でもなく……俺を気遣い笑った顔に。

「金城くん?顔、あげてよ……。」

その声は、あの時の声だった。俺を心配する、柔らかい音がした。

「あの女の人、結構良い人だね。私もずっと謝りたかったの。ごめんね、って。」

 金城くんは。完璧じゃないって私は知っていたよ。案外ドジだったりするもんね。あの日、私もずるいことをしたの。金城くんの隣は狙って座ったんだよ。

鍵を置いていった日、もしかするとすべてが終わるかもしれないと思った。彼を信用しきれない自分に嫌気がさして、自分を鏡で見ては泣きたくなった。言葉が足りない私は、ただ鍵を置き去りにして、金城くんの目を見ることもしなかった。きっと金城くんは私に呆れるだろう。そして終わってしまうんだ。ぼんやりと思って、きっぱりと何も言えない自分がまた嫌になった。

結局は煮え切らないまま、何も言わないまま、私を追いかけてくれたら、なんてこと考えていたの。試すようなことをしたのは私の方なんだよ。

「俺はこんなことをする男だぞ。嫌いになっただろ?」
「浮気は男の甲斐性!なんてね。」
「まだ何もしていない、と言って信じるか?」
「うん。金城くんを信じる。」

「急に俺を信じる気になったらしいな。」
「金城くんが私を信じてくれていたのに、あんなことを言った私を許してくれる?」

 涙目で言う名字に俺は無言でポケットから鍵を差し出した。これは俺のものじゃないんだ。

「これからお時間大丈夫ですか?」
「……すっかり空いたな。」
「あの人にどこかで会ったらお礼がしたいなぁ。」
「出来れば俺は会いたくないがな。」
「えー?手を繋いだ仲なのに?」
「……家に着いたら覚えておけ、名前。」
「!」

二人とも鍵を持ったまま、どっちが開けようかと目で訴え合う。名前はそっと合鍵を鞄に入れ、俺が鍵を持つ手に左手を添えた。浮気した右手にはお仕置き、と可愛い声で言い、優しく叩かれてしまった。

勘違いでないのなら、俺の耳に入ったその音はおそらく、未来に繋がる前兆のような、そんな音だ。




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