作品 | ナノ
甘いモノは苦手だった。可愛いモノも、苦手だった。フツウの女の子が喜んで手に取るモノを、どうしても好きになる事が出来なかった。

仲良しこよしを良しとする学校が、嫌いだった。偏った価値観で塗り固められたその空間に身を置くのが苦痛で、授業をサボってばかりいたのだ。表立って非難されはしないものの、裏で問題児扱いされている事は知っていたから、試験でそこそこの成績を維持するように努めていた。隣のクラスの荒北のように、粗が大きく目立つような不良ではなかったから、教師は余計に私を扱いづらかった事だろう。

しかし、私が勝手に仲間意識を抱いていた当の荒北は、チャリ部に入ってマジメに活動を始めてしまった。それに対して私は、同時期に生まれて初めて彼氏を作り、相変わらずちゃらんぽらんな生活を送っていた。名字さんと付き合ってみたい、そんな奇特な同級生の言葉を、私は信じてしまったのだ。

夏休みが終わり、徐々に秋の空気が滲み出てきた頃。彼氏と交際を始めてから、二か月に差し掛かった時期の事だった。以前に比べて上機嫌でいることが増え、私はその日の教室掃除を率先して行っていた。人と同じ扱いをされる事が嫌いなくせに、単純な女だったのだ。自分でも馬鹿だと思う。

箱根学園の裏庭は、ゴミ捨て場と空き教室の窓に面していた。ゴミ袋を一人で運び終えた私は、窓から僅かに漏れ出ていたその声に反応し、こっそりと近づいてしまったのだ。落ち着いた低音の掠れた声は、間違いなく彼氏のものだったから。

彼は優しかった。気恥かしさから天邪鬼な態度ばかり取ってばかりの彼女にも、ただ困ったように笑うだけで何の文句も言わなかった。その一方で、自分の愚痴もたくさん口にする彼の話を、私はよく聞いていた。クラス委員長として、バスケ部の二年生ルーキーとして、人をまとめ上げたり先輩に嫌々ながらも従ったりと、一匹狼の私とは異なる多様な人間関係を構築する彼のことを、凄いとさえ思っていたのだ。


「お前さ、名字さんとまだ付き合ってんの?」
「おう。意外と色々言うこと聞いてくれる、イイ彼女だよ」
「はあ?前は、不良の彼女作ったら学校側の評価も上がるから告白したーとか言ってただろ」
「あー、ぶっちゃけ今も好きではねえけど」
「うわ、お前ひっでー!」
「だってアイツ、俺の言う事なんか聞きやしねーんだよ。授業サボるなっつーのに止めねえしさあ」

まともな思考で聞いていられたのは、そこまでだった。彼と言葉を交わしている特徴的な甲高い声は、彼が扱いづらいと言っていた部活のチームメイトじゃなかっただろうか。ずるずると校舎裏の壁に座り込みながら、私は強くぎゅっと目を閉じて、心の奥から湧き出る痛みを押さえ込もうとした。どうでもいいと思った。くしゃくしゃの泥まみれになっているであろうスカートも、薄汚れた壁の煤が付いたであろうブレザーも。数秒そうして蹲っていると、目の前に誰かの気配を感じた。私は顔を伏せたまま、その誰かからの嘲笑に耐えようとして、掌に爪が食い込むほどに強く、拳を握る。

「オイ、オメーら!くだらねー事ばっかグダグダ言ってんじゃねーよ。早く終わらせろ!」

それは、凛とした声だった。声音は声変わり前の柔らかさすら滲んでいるのに、口調はどこまでも鋭くて、気怠げで、乱暴だ。彼氏の慌てたような声が、遠くで聞こえる。私は、ゆるゆると顔を上げて、その誰かと静かに目線を合わせた。

荒北は相変わらず、他人に興味が無さそうな顔をしている。誰とも馴れ合わないという雰囲気を醸し出しているくせに、いつの間にか部活に入って、気付いたら私よりもずっと、ずっと先を歩いていた。僅かな羨望が胸に湧き上がってきたのを自覚した途端、私の口は勝手に動き出していく。

「ねえ荒北。デートしない?」
「は?何でだヨ」

バッサリと切り捨てられた。思考も心も凍りついていた筈なのに、不思議と笑いが込み上げてくる。

「こっぴどく振る前に、浮気くらいしときたいなって思って」
「…ンな理由で、」
「それにさ、アイツのことグズグズ恨み続けるのも嫌だし。一方的に、被害者ぶるのが一番ウザイじゃない」

荒北は、ハァ、と大きな溜め息を吐いて、少しだけ表情を緩ませる。それは、彼がまだ不良だった頃、好きなジュースを飲んでいる時の顔に、ちょっと似ていた。

「―――なァ名字、オマエまだ自転車乗れねえの?」

突然何を言い出すのかと思った。思ったけれど、私は素直に答える。

「乗れないけど」
「今から面貸せ」
「え?ちょっと荒北、」

細いくせに力強いその腕に掴まれて、私は無理やり立たされてしまった。行き先も告げずにどんどん進んでいくその背中に遅れないよう、必死に足を動かす。随分昔、父親に手を引かれながら歩いた記憶を、ふと思い出してしまった。

私は幼い頃に親を亡くして、一人娘のいる親戚の家に預けられた。しかし、腫れ物扱いしてくるその空気に耐え切れず、寮のある箱根学園に入学する事を決めたものの、結局は人間関係が上手くいかなくて不良同然の生活を送るばかり。両親を恨みたくはないが、時々思う事はあった。あなた達が生きていれば、私はもう少しマトモに生活出来ていたのにって。


「ヘタクソ」
「うるさい!だいたい私、自転車に乗ること自体、初めてだし」

グランド近くのチャリ部部室に寄った荒北は、普段マネージャーが使っているというママチャリと、荒北自身の予備のジャージを私に無理やり託した。多少不満はあったけれど、汚れたままの制服でいるのも嫌だからとトイレで着替え、人気のない裏庭まで自転車を押していった。そこで言われるがままに補助輪有りの自転車に乗ってみたら、早速の文句である。相変わらず横暴な奴だ。

「補助輪あンのに、そこまでフラッフラ出来るのもある意味才能だな」
「ば、馬鹿にしないでよ!」
「してねーヨ。じゃ、早速ペダル外すか」

サラリと放たれた言葉に、私は瞠目した。さすがに無知な私でも分かる。ペダルが無ければ、自転車が漕げるわけない。

「ちょっと荒北、本当に外すの…?」
「バァカ、チャリ漕ぐのに必要なモン鍛えるだけだろ」
「ひ、必要なもの?」
「バランスだヨ、バランス。まずは身体に自転車の感覚を馴染ませろ。ペダルつけて走んのはそれからだ」
「ペダルって、そんな簡単に取り外し出来るものなんだ…」
「スパナがありゃこんなの簡単だろーが」
「いやいや、十分凄いでしょ。器用なんだね」
「別にィ」

ペダルと補助輪を外しただけでなく、サドルの高さも調整していたようだったが、そこに何の意味があるのか、私にはよく分からなかった。瞬く間に手際よく作業を終えた荒北は、脇でぽかんと間抜けな顔をさらしていた私を呆れたように見遣った後、大きく顎をしゃくる。早く乗れ、という事だろう。

「わっ!こ、これ足が浮くんだけど。もうちょっと低い方が良くない?」
「問題ねえ。宙に足を浮かせて、自分で走る感覚を掴むには調度いいだろ」
「そ、そういうもんか…」
「ただペダル無くても転ぶのは変わんねーからな―――って早速か」

ふわりと一瞬身体が宙に浮くような気がしたかと思えば、ガツっと鈍い音を立てて私は派手に転んでいた。自分の鈍臭さに腹を立てつつ掌を見ると、僅かばかり血が滲んでいる。どうやら、地面のアスファルト部分に接触してしまったようだ。横倒しにしてしまったママチャリを立て直そうと膝立ちをして、どこか壊れていないかざっと確認する。どうやら、借り物を傷つけるような事はしていないようだ。良かった―――と安心したところで、急に視界が歪み始める。気づけば、怪我をしたばかりの手首からはジワジワと痛みが広がり、先程まで押さえ込んでいた負の感情が、徐々にぶり返していた。

「あら、きた…ごめん」
「バァカ、謝んな。明日は放課後に部活あっから朝の七時な」
「……え?」

荒北は、ハンカチと絆創膏を私の手に無理やり押し付けた後、ママチャリを引きながら再び部室に向かって歩いていく。泣き顔がブサイクだの、こんな事で泣くんじゃねえだの、色々言われると思ったのに。鼻の奥から込み上げるツンとした痛みを享受しながら、私は涙が収まるまで、その場で荒北の背中を見つめ続けていた。不思議だ。鈍感な自分への怒りで満ちていた筈の胸に、自転車に乗ってみたいという新鮮な思いが混じり始めている。さっき一瞬だけ感じた、まるで空を飛んでいるような感覚。両親と共に乗ったジェットコースターを想起させるような、あの浮遊感。そして、期待に満ちた胸の高鳴り。それらを、もう一度だけ、感じたくなってしまったのだ。

それから約一週間。私たちは毎朝、時間をかけてゆっくりと自転車に乗るための特訓をした。ペダルを外した状態で地面を蹴りながら、自走するという感覚を覚えた。一年以上本格的に自転車に乗っているという荒北から、全身の筋肉を使って前に進む方法を教えてもらった。そして最後には、ペダルを漕ぐ楽しさを、二人で分かち合う時間になっていたと、私は信じていたかった。

荒北は、優しかった。容赦なく駄目出しはするし何かある度に罵るような文句ばかり口にしていたけれど、練習中は私が無理をしないように丁寧に支え続けてくれていたし、練習後には、余ったんだヨと言いながらお菓子をくれたりもした。
気持ちの変化は、表面上は緩やかに、けれど実際は驚くほど急激に進んでいった。毎日、きちんと授業に出るようになった。制服をきちんと整えて、学校の規則通り過ごすようになった。教室掃除も、日直の仕事も、最後まで丁寧に行うように心がけた。事務連絡ではあったけれど、クラスメイトと笑って話す事が出来た。


「やった!乗れた!初めて一人で乗れたよ。ね、荒北!」
「オウ、見てた。だから、はしゃぎすぎんなヨ、バカ」

その日。嬉しさのあまりハンドルから手を離してバランスを崩しそうになった私を、荒北はその固く大きな掌で支えてくれた。すっかり見慣れてしまった、呆れたような、けれど優しさに満ちたその表情を、私は間近で見てしまう。荒北の温もりを感じる右半身が妙に熱くて、ドキドキした。一年前には全く感じていなかった気恥かしさから逃れるために、そっと目を伏せた私の名前を、荒北は静かに呼んだ。

「名字」
「うん」
「ぜんぶ、俺のせいにしろ」

そして、私たちは初めてキスをする。私にとって、最初で最後の、浮気だった。


その翌日の昼休み。私から呼び出して別れを告げると、彼氏は納得したように頷いて応じた。今までごめんな、と一言残して去っていった彼の胸中は分からなかったけれど、彼を好きだった頃の自分を、少しだけ思い出してしまった。前向きな思いで別れを告げる事が出来て良かっただなんて、自分勝手な思いを抱きながら、私は裏庭へ向かう。一歩踏みしめるごとに、過去の想いが、綺麗に風化されていくのを感じた。

「荒北、お待たせ」
「アァ?別に待ってねーヨ」
「えー。そう言われると寂しいんだけどな」
「……別に、待ってなくも、」
「あ、それよりね。今度、サイクリングデートしようって言ってたじゃない?行きたいお店調べてみたんだけど、」
「…もうオマエ嫌だ」
「えっごめん。そんなに落ち込むとは思ってなくて。お詫びじゃないけど、今度猫カフェ行こうよ」
「ねこカフェ…!」
「そうそう。ただ今週末は、雑誌で話題のクレープとか服とか観に行くから」
「げっ」
「はい、嫌そうな顔しない!私まだそんなに長時間乗れないんだから、近場のデートスポットがいいの」
「アーハイハイ」
「もう。私がワガママな事くらい、一年前から知ってるでしょ?」

ベンチの上で大きく頬杖をついた荒北は、ジロリと左目だけを私に向けた。けれど鋭く見えるその流し目は、怒りを示しているわけではない事を、私はよく知っている。

「クレープと、服と、あと何だヨ?」
「え」
「名字は、あと何がしてえの」
「え、と…。なにがあるかな」
「俺に聞くなヨ、ボケナス」

気付いた時には、私の右手は荒北のそれと柔らかく絡んでいた。そしてそのまま、校舎の影に溶け込むように、私たちはそっと肩を寄せ合う。

今度実家に帰った時は、皆に手土産を持っていこう。そして謝るんだ。今までごめんなさいって。これからも宜しくお願いしますと言って、きちんと頭を下げたい。両親のお墓にもお礼をちゃんと言いに行かなきゃいけないな。それから、自転車のことをもっと好きになって、荒北と一緒に、見た事の無い景色を沢山見てみたい。

自分を変える努力をしてまで、一緒にいたいと思う人を見つけられた。私は、なんて幸せなんだろう。

「ねえ、荒北」
「ン?」
「だーいすき。世界で一番、すきだよ」
「―――アホか」

そして私たちは、二度目のキスを交わす。噛み付くように乱暴なくせして、泣きたくなるくらいに優しい口づけだった。その時に見た荒北の顔を、私はきっと、一生忘れる事はない。


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