作品 | ナノ
 東堂尽八が乗る自転車からは、無駄な音が一切しない。使い古されてキィキィ鳴るようなママチャリだって、彼の足にかかればたちまち黙ってしまう。その無駄のないペダリングが、のちに彼の武器になるだなんて、あのときの私は考えてもいなかったのだ。それと同時に、彼が私とは違う道を歩んでいくということも。

 「付き合ってほしい」と、そう言われたのは中学の卒業式だった。定番というかなんというか、制服の第二ボタンを汗ばんだ手で握りしめながら、彼―――東堂尽八は私にそう告白した。
 素直に言わせてもらうと、それはとても嬉しい誤算だった。初恋は実らないなんてよく聞く話だし、私は尽八にただの幼馴染み程度にしか思われていないと思っていた。だから、余計に嬉しかった。

 けれど、私は素直じゃなかった。とことん意地を張って、強がった。
 二人で同じ箱根学園という学校に通い始めたまではよかったものの、学内では極力尽八には近づかないようにし、頻繁にかかってくる電話だって出ないことは何度もあった。私は彼の彼女という立ち位置を手にしておきながら、彼に気のないフリをした。
 私だけが尽八にベタ惚れで、恋心を拗らせて彼の神聖なロードを邪魔するなんて、耐えられなかったから。

 尽八は私の態度について、何も言及してこなかった。彼が所属する自転車競技部の活動で忙しいということもあるだろうが、彼は私の心中をもお見通しと言わんばかりに、私を問い詰めたりなんてことはしなかったのである。いつだったか、「名前は恥ずかしがりやだな!だがそんなところも可愛らしいと思うぞ!」なんて甘い言葉を送ってくれさえもした。
 そんな寛大な心をもつ彼でも、いただけないことがあった。それは、恋人がやっている競技であるにも関わらず、どうしても私がロードに関心を寄せないということであった。
 尽八は、私がロードをどう思っているかなんて、これっぽっちもわかっていなかったのである。



「名前!今週末にヒルクライム大会があってな!」
「だからなに?」
「み、見に来てくれないか?」
「ごめんね、興味ない」
「興味がないのはわかっているぞ!だが、その……ロードレースというものを、少しでもいいから知ってほしいのだよ」
「それは、尽八の恋人としての、義務なの?」
「そんなことはないが……いや、すまない。オレの走る姿をと思ったのだが、これはエゴだったな」
「……別に。何やるのか知らないけど、がんばってね」
「……あ、ああ!モチロンだとも!!」



 そんなある日、"それ"はおとずれた。私達が付き合いはじめて、三度目の夏が終わろうとするときであった。
 人気のない部室に呼ばれたとき、私は心のどこかで既に覚悟して、そして諦めていたのかもしれない。尽八はそんな私の表情になにを感じ取ったのか、一瞬目を大きく見開いて、次いで苦しそうに笑った。



「……突然、すまないな」
「いや…別にいいけど。なに?」
「む……あの、だな…」
「……なに?」
「……別れよう、名前」



 頭を鈍器で殴られたような衝撃、なんてものはこなかった。代わりにきたのは鋭い槍がスパンと心臓を貫き、そのあとにとろとろと何かが浸食してくるような、そう、そんなかんじ。

 それから東堂尽八に新しい彼女ができたのは、私達が別れてから三日後だった。「早すぎるんじゃない」と、私の友人は憤慨してくれていたが、私はそうは思わなかった。だって、たしかに尽八に"新しい彼女"ができたのは三日後だったけれど、彼とその彼女さんが付き合っていたのは、半年ぐらい前からだもの。浮気、っていうんだろうね。

 尽八は自信家で、自分が大好きで、そしてとても寂しがりやさん。私がどんな努力を陰でしていたって、それを彼に知ってもらえなければ、意味がないのと同じ。そんなこと、わかっていたはずだったのに。



「『ロードレースというものを、少しでもいいから知ってほしいのだよ』……か」



 帰り道、彼らが手を繋ぐ姿をぼんやりと見つめながら、いつか尽八に言われた言葉を反芻した。
 そこでふと気づくのだ。おかしいな。雨なんて降ってないし、汗だってかいてない。それなのに、二人の後ろ姿がにじんでぼやけてしまう。おかしいなあ、ホントに。
 歪む視界では、彼の表情なんて判別できるわけがない―――はずなのに、私にはどうもこう見えてしかたがない。尽八は、私達が別れたあの日のように、苦しそうに笑っていた。
 ねえ、尽八?あなたの浮気相手が早く私と別れろと迫っていたことも、あなたがまだ私を好きでいてくれていることも、私は知ってるんだよ。

 ごめんなさい、そう唱えながら、私は部屋にたまっていたボロボロの雑誌を丸めてゴミ箱につっこんだ。何度も何度も読み直して、シワだらけになった雑誌。
 細かい文字の羅列が躍るメモ用紙も、束にして捨てる。インクが切れたボールペンも、まとめて捨てる。戸棚に並べてあった本や雑誌もすべてゴミ箱に放りこむ。

 『カンタン!誰にでもわかる入門書』だって。これ何回読み返したっけなあ。一度や二度じゃこんなの理解できるはずがないよ。これのせいで一週間は睡眠不足だった。
 あっ、この雑誌のインタビューコーナーでは、選手たちの勢いを文字で表現しようとしたのか、エクスクラメーションがこれでもかというほど散りばめられている。やっぱりアイツのところだけ、全部ついてるよ。流石だねえ。
 あはは、ここではアイツのトレードマークである白いカチューシャのせいで、一人だけ光が反射してて写真うつりが最悪だ。それでもお得意の指さしポーズを堂々と決めているのだから、笑ってしまう。

 ―――私がしてきた努力の証を、ひとつひとつ捨てていく。ひとしれず自嘲気味に笑う私のこんな惨めな姿は、尽八にはやっぱり見せられない。こんなことになってもまだ、彼の前では強がりたいと願う馬鹿で愚かな自分がいることに、呆れしまった。



「……これでラスト、かな」



 そうして最後の一冊である『激闘!夏のインターハイ特集』を静かにゴミ箱に押しこんで、私は泣いた。ロードに乗って山を駆け登る尽八は、いつだって、とても輝いていたから。



「興味ないわけ、ないじゃない」



 そんな本音も、今までの嘘も、ぜんぶぜんぶ、ゴミ箱に棄ててしまおうか。


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