9-83
 この場でヴィヴィオを筆頭としたフラウデを葬っておかないと、世界は再び混乱に陥り、第二、第三のハクマが生まれる。今はその現況を一網打尽に出来る絶好の機会であった。
 しかし、この場で全てを終わらせれば、必然的にここにいるレイールも命を落とす。彼は遙か昔にセツが守れなかったミーシャの子孫であり、今のセツが幸せにしてみせると誓った相手。世界を守ろうとすれば、彼と、彼と交わした約束は破られることとなる。
「さあ、早く結界を……!」
 レイールとヴィヴォのほんの僅かな隙間を縫って生えた結晶が、いとも簡単にヴィヴォの短剣を奪う。情けない声を上げてダンゴ虫のようにうずくまる主を見、そりゃあ早さじゃ叶わないよねえ。とミズシが漏らす。
 ともあれ、このままレイールを逃がすことも出来ないため、毒で彼を覆って手込めにしようとする。が、それより僅かに早く、セツの結晶によって手の拘束を解かれたウエロペがレイールを抱えてミズシから距離を取った。
 しかし、少しぐらい距離を取ったところで、毒を操るミズシから逃れることは出来ない。甘いなあと毒を纏いながら彼等を再度捕まえようとするが、後僅かと言うところでセツの結界が壁となって現れる。ちいと舌打ちをすると、それを咎めるように鋭利な結界が生えてくる。
 威嚇を続けながらも、セツはどうするべきか迷っていた。どうする。どうするべきなのか。問いかけても問いかけても答えは返ってこない。それは答えが選べないからではない。すでに決まっているからこそ、迷っているのだ。
「悔しいが、お前しかレイール様を救えない。頼む、レイール様を救ってくれ!」
 徐々に浸食してくるミズシの毒から主君を守るエウロペが決死の願いを口にする。セツを毛嫌いしている彼が頭は下げずとも、懇願するなど断腸の思いに等しいだろう。
 ぐらぐらと、頭が揺れ、激しい動悸がする。封じていた筈のものが溢れ出しそうになり、セツは無意識に自身の胸元を掴む。
 ーー此処に来て出てしまうのか。後少し、ほんの少しというのに。
 ふと、レイールと目が合った。
 彼は少し戸惑うような目をしたものの、少し微笑んでセツを見つめ返し、そして、
「セツさん、信じています」
 口にするはただ一言。しかし、曇り無き目と短い言葉には彼の圧倒的なセツへの信頼感が溢れていた。
 ほんの少し目を瞑り、ゆっくりと開く。心の中の迷いは嘘のように晴れ、動機も治まっている。ありがとう。小さく口の中で呟き、もう一度レイールを見る。途端、レイールの顔は幼子が泣くときのようにくしゃくしゃになっていた。泣くことは無いじゃないか。再度小さく口にすると、彼は何度も何度も首を横に振る。
「さ、さあ、失敗作よ! 早く解け!」
 部屋中の結界が眩く輝く。強く、強く、最後の瞬間ならば輝いてやろうと言っているかのように。
 が、いつまで経っても光は消えることなく、むしろ結晶化した結界は部屋を更に覆い尽くす。
「ど、どうした! 何をしている!? お前、そんな事をすれば王子がどうなるか分かっているのか!?」
「分かっていないのは、貴方ですよ」
 静かに、けれど力強いレイールの言葉と同時に、室内が一層眩しく輝く。断末魔の如く甲高い声で叫ぶヴィヴォを傍目に、レイールはもう一度セツを見る。
 仮面に覆われている為、彼女の表情を見ることは叶わない。けれど、不思議とレイールにはセツの表情が分かる気がした。計らずとも、自分の夢が叶ったことに少々の寂しさを覚えながら、レイールはゆっくりと目を閉じ、そして、
 ありがとう、ございました。
 その声は砕け散る結界の音に紛れ、かき消されてしまった。

 少々状況把握に時間を要した。
 同時に、人とは想定外の事が起きるといとも簡単に思考回路を止めてしまうのだなと納得する。そして納得した頃には、室内にどやどやと人が入ってきた。
「全員動くな」
 輝きを失った結界の間に入ってきた黒い髪の男は酷く不機嫌そうな顔で吐き捨てるようにして命令する。が、動こうにも室内にいるほぼ全員が結界に囚われているため、命令の意味はほぼ無いに等しい。
 どうして入ってきたのだと少々怒気を含んだ質問をセツが投げかける中、レイールは黒髪の男と目が合った。そこで彼はあらと首を傾げる。確か、ココーという名のこの男の目は赤褐色であった筈。どうして今は真っ赤になっているのだろう、と。
「あれ、セツ髪白くなったの?」
「馬鹿か、あいつは向こうにいる仮面だろ」
 そうこうする内に開け放たれた扉から続々とセツの仲間たちが入ってくる。それと反比例するように、セツの結界力は見る見る内に弱まっていった。それは即ち、セツの計画の失敗を意味する。が、同時にセツの生存が約束されるため、レイールは喜びを隠しきれずに喚起の涙を流した。
「今すぐにでも出て行ってください」
「断る。納得いかないのなら、俺を倒せ」
 が、その喜びは剣を抜くココーの姿を見た途端かき消された。
 彼等はセツを助けに来たのではないのか。状況が全く把握できずに混乱していると、赤褐色の髪の女性が拳で結界を砕いてレイールとエウロペの拘束を解いた。
「……怪我は?」
「大丈夫です。ええと、ケミさんですね? ありがとうございます」
「別に良いわよ。それより離れてな。セツ、暴れるみたいだから。あんたが怪我すると、セツが悲しむ」
 ケミは終始目を合わせてはくれなかったが、言葉の節々に不器用な気遣いが感じられ、レイールはセツさんと同じですねと頬を緩ませる。が、直後に聞こえてきた金属同士のぶつかる甲高い音に顔を硬直させる。
 慌てて向いた方には、ココーとセツが得物でつばぜり合いをしている姿があった。目にも止まらぬ早さで攻防を繰り返す二人にはふざけたり、手加減をしているようには全く見えない。武芸の経験がほぼ皆無のレイールでも、彼等が本気で死合いをしていることが分かった。
 仲間たちはそれを止めるでもなく、むしろ結界に囚われているフラウデの始末をすべくセツ達から離れる。それがレイールにはにわかに信じられなかった。
 戦況は明らかにセツの劣勢であった。それまでに力を使ったというのもあるのだろう。素早さはココーよりもやや上回っているというものの、力では圧倒的に負けており、剣を重ねれば重ねるだけセツの攻撃は軽くなる。
 そして何度目かの交戦の後、セツの刀は軽い音を立てて宙を舞った。
 金属が床を転げ回る音と同時に、セツの両膝が地に着いた。もはや、立つ力は残っていなかった。
「……殺してください」
「それは出来ないと言っただろう」
「殺せと言っている!!」
 仮面の下でセツは吠えた。
 予期せぬセツの叫びに、その場にいた全員が彼女を見る。
「今ここで私を殺せば全て終わる。なのに、なのに何故みすみすそのチャンスを逃す!? 何度失敗したら気が済む! 事の重大さを理解しているのですか!?」
「チャンスなど作ればいい。だが、お前を失えば二度と戻ってこない。どちらを優先すべきかは分かっているだろう」
「愚問ですね」
「ああ、愚問であることは間違いない」
 突如聞こえたしわがれた声に、セツのみならずその場にいた全員が声がした方を向く。
 いつの間にか、台座の側には一人の老人が立っていた。セツはその人物に心当たりがあった。ボルヴィン。異色なフラウデの中で、不自然なほど特異点が無い、けれどコルムナ王の寵愛を受けている不可解な老人。
「さて、シキの諸君。一つ提案があるのだが」
「聞く必要はありません。早く私を殺してください」
「君は先ほどのココーの話を聞いていなかったのかね? 君の命は何にも変えられないのだよ」
 仮面で見えないが、ボルヴィンは微笑んでいるのだろう。彼の周囲の空気は、驚くほど穏やかであった。彼はぎゃんぎゃんと吠えるヴィヴォに仰々しく一礼し、真っ直ぐにココーを見る。
「なぁに、簡単な交換条件だよ。私が求めるのは、此処にいるフラウデの解放だ。勿論、こちらから手を出さないと言うことは約束しよう」
「手を出さずにどうするんだ!? 此処で潰せばいいじゃないか!」
「ふぅむ。ヴィヴォ殿はご自分の置かれた立場をお分かりか? 我々は彼等の手の上にいるのです。そもそもこの申し出自体彼等にとってはそう有益ではない。なのに立場を危うくしてどうするのです」
「貴殿の言う通りだ。そちらのメリットは多いが、こちらにとっては敵を逃がし、その変わり手負いの者達に攻撃をさせない。では、あまりにデメリットが多すぎる。余程の恩恵が無い限り、その申し出は受けられない」
 ココーが妙に丁寧な物言いをすることに驚きつつ、シキの面々はいつフラウデを討てと命令が下っても良いようにそれぞれ体勢を作る。
「そうでしょう、そうでしょう。ですが、この者を昔の状態に戻す。と言えば?」
 その場の誰もが耳を疑った。
 痩せこけたボルヴィンの指は真っ直ぐにセツを指さしている。
 くくくと、喉の奥で誰かが笑っているような気がした。
「馬鹿馬鹿しい。そんなこと出来るわけがない」
「それが出来るのだよ。もっとも、既に綻びが出ているようだから、少し糸を引いてやるようなものなのだけどね。それは、君が一番分かっているだろう」
 茶化す言葉に反抗するように、ボルヴィンの足下に霜柱のように結界が立った。おお、怖い。まるで他人事のように呟き、ボルヴィンは再度ココーに問いかける。
「さて、早くしないと結界に食われてしまうよ。どうする? 乗るか、降りるか」
「クサカ」
 ボルヴィンの申し出を割くようにして、セツはしかめっ面でハクマを睨んでいるクサカに声を掛ける。 
 出来ればこんな手は使いたくなかった。心中で小さく呟き、
「はやく玉を砕いてください。でなければ、今すぐにでもウリハリを殺します。……ツミナと同じように」
 効果はてきめんだった。
 親友の名を出すと同時に彼は瞬時にセツを睨む。その目には未だ消えぬ憎しみの炎が灯っており、少し煽れば彼がその身を委ねるであろう事は一目瞭然であった。
 口先だけの脅しでないことを証明するように、セツはウリハリを結界で囲む。止めろ。誰とも分からぬ制止の声が飛ぶ。
 結界を目の当たりにしたクサカが、ゆっくりとだがしっかりとした手つきで懐から親指の爪ほどの大きさの玉を出した。その玉からはセツの結界と同じ真珠色の光を放っていた。
「約束しましたよね。もしもまた仲間に仇なすことがあれば、私の生命力を注いだその玉を砕く、と」
 まだ記憶を取り戻す前、徐々に自分の感情が希薄になっていることに気付いたセツは過去と同じ過ちを繰り返さぬよう、自分の命を分けた玉をクサカに託していた。膨大な能力を使った結果、セツの覚醒は速まってしまったのだが、彼女にとってはいずれ迎える覚醒が速まるより、また自分の手で仲間を殺めてしまう事の方を恐れていた。
 今までにクサカは何度となく玉を砕こうと考えたが、頭の隅にある賢明なセツの表情を思い出し、思いとどまっていた。そして今。彼は約束の時を迎えようとしていた。
「……断る」
 だが、彼が口にしたのは肯定ではなく、否定の言葉。
 正気ですかと尋ねるセツへと、クサカは気が違ったかもなと呟く。その金色の目には、どう言うわけか先ほどまでの憎しみの炎が見られなかった。
「ここでウリハリや俺たちがお前に殺されるのは我慢ならねえ。けどな、お前の命じるままに動くのはもっと気に食わん。俺はお前のことがこの世で一番嫌いだ。だから、お前を裏切ってやるよ」
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべ、クサカはセツの命を分けた玉をセツの元に投げる。
 真珠色の玉は周囲の光を反射しながら、ゆっくりと放物線を描いてセツの元へと飛んでいく。やがて放物線の頂点に達した玉は眩い光を放ち、その光を地に伏したままのセツへと降り注ぐ。
 余程力を注いでいたのだろう。玉から放たれた光がセツに触れた途端、彼女の体の修復し切れていなかった傷が見る見る内に癒されていく。見ているだけで身悶えするような強烈な力が注がれる中、セツは頭を両手で抱えてうわごとのように呟く。
「要らない、そんなもの、私には要らない……!」
「さて、彼女があの玉の力を吸いきる前に返答を」
「……その条件、飲もう。約束は守れよ」
「それは勿論。さあ、ミズシ。ハクマを起こしてやってくれ」
 命じられるや否や、ミズシははいはいと気だるげに自身の能力の毒で自分の体を拘束している結界を溶かし、床につなぎ止められているハクマも救い出す。不安も何も感じていないその態度からは、彼がその気になればいつでもセツの防御網から逃れられるという自身が見て取れた。
 助けられたというのにハクマは不快そうに赤い目を細めていたが、ボルヴィンに命じられると、素直にセツを氷で捕縛していく。力を受け入れることで精一杯のセツが無抵抗のまま氷で覆われていく様は少々不安であったが、ボルヴィンは大丈夫だと諭すようにシキの面々に語りかける。
 やがてセツの体が氷で覆い尽くされたとき、ボルヴィンは尚もうわごとを口にするセツへと歩み寄る。
「さて、よくここまで我慢したね」
 聞こえていないのか、セツからの返答はない。
 が、それも想定の範囲内なのか、ボルヴィンは仮面の奥でくすりと笑うと、セツの仮面にそっと手を触れる。が、すぐにまあいいかと手を離し、変わりに耳元に口を近づける。
 そこからの言葉は周囲の者たちには聞こえなかった。
 ただ分かるのはボルヴィンがたった一言、二言何かを囁いたとほぼ同時に、セツがただならぬ動揺を見せたこと。そして顔を覆って絶叫するセツの頭をボルヴィンが愛おしそうに撫で、同時にセツの体からこれまでとは比にならない真珠色の光が放たれたことであった。
 目が潰れそうな程の閃光の中、セツの絶叫が木霊する。それは赤子の産声と同じ、感情も何もない生まれたての叫びであった。そしてその中で誰かがそっと呟く。
 おめでとう。
 だが、その言葉は誰の耳に届くこともなく、セツの産声の中に溶けて消えていった。

 どれほどの時間が流れたであろうか?
 光も、音も静まりかえった空間には、つい先ほどまでその場にいた全ての命を飲み込もうとしていた結界の姿は消えていた。
 嘘のように広々とした空間で、ボルヴィンの前にいたセツの手が、ぱたりと軽い音を立てて落ちる。
「セツさん!」
 音に弾かれるようにしてレイールがセツの元へと駆け寄る。手を皮切りにして、重力に従うままに崩れ落ちるその様は人形さながらであった。
「セツさん、死んでいないですよね……?」
 少し遅れてやってきたエウロペに支えられながらセツの名を連呼するレイールの姿を前にし、ウリハリは震える声で誰に投げかけたかも分からぬ質問を口にする。そんなことはない。そう言えば良いはずなのに、その場にいた全員は答えられずにいた。
 セツを呼ぶレイールの声はやがて詰まり始め、そして次第に嗚咽へと変わっていく。嫌です。絞り出すようにして呟いた時、セツの顔を覆っていた仮面がゆっくりと剥がれ、床へと落ちる。
 陶器製の仮面が床との衝撃に耐えきれずに甲高い音を立てて砕けたとき、誰かが言った。泣いている、と。
「本当、参ったよ。どうしてどいつもこいつも、私の言うことを一つも聞いてくれないんだ」
 耳元で聞こえた掠れた声に、レイールはすすり泣くのを止めてすぐに顔を上げる。
 そこには涙を流しながらどこか照れくさそうに笑うセツがいた。
 ちょっと苦しいから離してくれないかな? 居心地悪そうにそう依頼するセツを見た途端、レイールの胸は言い表せない喜びでいっぱいになり、強く、強く、セツを抱きしめる。
「死んだかと、置いていかれたのかと思いました……! セツさん、戻ってきてくれて本当にありがとうございます。おかえりなさい」
 涙に滲んだ夕陽色の目で見つめられ、少々気恥ずかしくなる。が、そんな余韻に浸っている間もなく、側に控えていたエウロペに人を振り回しすぎだと叱られた。
 言い返してやろうかと思ったが、泣きじゃくるレイールと、蒼白なエウロペの顔を見ると何も言えず、ひとまずごめんなさいと謝罪を口にしてみる。途端、軽く額を小突かれたが、なんだかそのやりとりが愛しく思えた。
「待っていてくれて、ありがとう」
 捨てると誓ったはずなのに、もう戻ってこないと決めた筈なのに、こうなったことを喜んでいる自分が居て、セツは矛盾を感じながらもレイールを強く抱いた。
 ふわりと香るレイールの匂いは草原を照らす太陽のように軽く柔らかで、セツは夢現の狭間で再会した二人の旧友を脳裏に描く。もう会うことはないだろう、炎の友と鎖の友。
 もしも次に会うことが出来たならば、今度は全てを受け入れた自分を見て貰おう。そう誓いを立て、セツはもう一度レイールを強く抱き、呟いた。
「ただいま」


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