09 セツというもの
 次の目的地はメギド。
 その報告はケミ、ウリハリ、クサカの三者にも大きな動揺を与えた。彼らもまた、メギドはこの世界のどこかを漂っていると思いこんでいたからだ。
 セツとヒワの封印により姿が隠れているだけだと聞き、その思いこみはあっさりと解消されたが、それでも動揺が完全に消え去ることはなかった。始まりと終わりの地、メギド。そこで何も起こらないとは考えられなかったからだ。
 行きたくない。それが素直な気持ちであった。
「思ったのですが、ノシドは隔離された地ですよね? 見知らぬ外部の人間がぞろぞろと行っては怪しまれるのではないでしょうか?」
 ウリハリの素朴な疑問にクサカとケミは内心親指を立てた。
「いえ。確かに外部の人間が来ることは珍しいですが、無いことはありません。ノシドは年に数回外からやってくる人がいます。現に私の友人の父親が外からやってきた人でしたから。行きたくないのなら来なくても結構ですが」
 歯に物被せぬ言い方に、喉まで罵倒の言葉が出る。が、言い方がストレートなだけで別段おかしいことは言っていないので、反論しようにも出来ない。
 セツの言う通り、ノシドには来訪者が来ないことはない。勿論、地理的に行くことは困難だが、地道にロッククライミングを行ったり、渡り鳥の背に乗ったりすることで通うことは可能だ。
 ただ、どれも難易度が高いため、行こうとする者が少なく、情報も出回っていないのだが。
「別にぞろぞろ行く必要はないので、全員が来なくても構いません。ただ、ウリハリとクサカ、どちらかは付き合っていただかなければなりません。無駄な時間を食うのは勿体ないですから」
「誰も行きたくねえなんて言ってねえだろ。行きたくないけどよ。これ以上グダグダ言うんならてめえだけ荒縄で縛って吊していくぞ!」
「なら、よろしくお願いします」
 クサカがクダを巻くなり、セツは一礼してそそくさと皆の元から去っていく。
 もっと罵倒しようと思っていたクサカは感情の行き場を無くし、手近な場所にいたクロハエの首を絞める。重々しくため息を吐くウリハリを横目で見ながら、ケミはそっとセツの後を追った。

 野営地から数分歩き、たき火の明かりも、煙の臭いも届かなくなった頃、セツはそれまで一定の速度で進めていた足を止める。
 月しか明かりのなく、その月明かりさえも周囲の木々で阻まれるジャングルは目が痛くなるほどの暗さで、闇夜でも見える魔物の目を持っていなければセツとて歩くことは出来ない。しばらく足を止めていたセツだったが、奥の方で青鈍色の淡い光が舞っていることに気付き、再び足を進める。
 まるで光に誘われるようにして向かったその先には、小さな清流とその付近で舞う無数の光があった。
 蛍に似ている。そう思いながら光に手を伸ばすと、その光はセツの手から逃れるようにふいと進行方向を反らす。近くで見たそれは、体から光を放つ虫のようで、セツは蛍に似ている。と、再び同じことを考えた。
 しばらく光の群を眺めたセツは手のひらを上に向けて意識を集中させる。同時にセツの手からは霧状の結界が現れ、不規則に動きながら大きさを増す。能力の発動は完璧だった。が、セツは何故か小さくため息を吐いて能力を消す。
「……タシャ」
「誰それ?」
 誰もいないだろうと安易に吐いた独り言を拾われ、セツは即座に背後を向く。
 そこには深い藍色のバンダナをしたケミが、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っていた。
「誰よ、タシャって」
「ココーさんを凄まじく嫌っている存在です。どうして此処へ?」
「全然分からんわ。ミズチと別れてから、セツと話す機会無かったから。この虫、綺麗でしょ? 名前覚えていないけど」
 ケミらしいずぼらさを突っ込まずにいると、しばらくの沈黙が訪れる。
 それでもまだ黙っていると、何か言えよ! と隣に座ったケミから痛烈な肘鉄を食らう。これを横暴以外の何と言い表せばいいのか分からない。
「何を話すんですか?」
「まあ、沢山あるけど。例えばあんたの昔の話でしょ、あと、昔の話でしょ……あれ?」
 要するに、昔の話しかないんだな。そう思っていると、まあ、気にすんな! と背中を強く叩かれる。横暴だ、と思った。
「まあ、とにかく。ミズチの結界を解いてから、私の頭の中に私の知らない記憶が出てきたの。例えば、あんたとワクラバが仲良かった。とか」
 ワクラバ。その名を聞いた途端、セツの瞬きが止まった。
 が、次の瞬間にはいつものようにゆっくりと瞬きをするセツの姿があった。
「あんた、私の。私達の記憶に何か細工したんでしょう? ミズチから聞いたわ。あんたは嘘を吐くことが出来ないって。さあ、答えな」
 ケミの赤褐色の目が真っ直ぐにセツの目を捉える。
 それは蛇が獲物を睨む姿に酷似しており、捉えられた獲物は、セツは抗うこと等出来なかった。
「私はしていません」
「あんたこの期に及んで……!」
「さっき言いましたよね、嘘がつけないと」
 その言葉に肩まで上がった手が止まる。
 セツは「私はしていない」と言った。そこに記憶を操作したことの否定は含まれていない。そして、「私は」と言ったことから、他に協力者がいるようにも考えられる。
 セツは嘘が吐けない。それが真実だとすると、セツが口にした言葉の裏には……、
「あんた以外にこんなこと……!」
 そこまで言って脳裏に灰色がかった白髪の青年の姿が浮かび上がる。
 途端、ケミの頭は真っ白になった。そうだ、セツではないとしたら、このような芸当が出来るのは一人しかいない。封印はセツとその人物の能力がなければ出来ないのだから。
 しかし、それを認めてしまえば今まで信じてきたものが崩壊してしまう。ケミはずっとその人物を信じ、そして微かな思いを寄せていた。ケミが今まで自暴自棄にならずに生きてこれたのは、彼の存在があったからだ。
「そんな……どうしてヒ……」
 だが、その言葉は最後まで口に出すことなく、セツの手によって塞がれる。
 ケミの口を覆ったセツはそれ以上言わなくていい。と口にし、そっと手を離す。
「だから言ったんです。本当に真実を覚悟はあるのか、と。シキの秘密にはあなた達が想像する以上に残酷であるけれど、それと同じくらい軽い。あなた達は目に映るものだけを信じていればいい」
「馬鹿にしないでよ! そんな、あんただけに全て押しつけて、私達が知らずに生きるだなんて出来るわけ無いでしょ!?」
「出来ますよ。今までそうだったんですから」
 きっとセツに悪気はない。分かってはいるが、彼女の言葉は分かり合えるかもしれないと微かな期待を抱きつつあったケミの心を抉った。
「知らぬが仏、という言葉がありますよね。知らない方が幸せなことはこの世に多い。それに、私達としてもあなた達は無知である方が動きやすい。知らないことは双方にとって利があるのです」
 セツの言葉はケミの耳に届かなかった。
 彼女は、セツの目に釘付けだったのだ。否、セツの目ではなく、漆黒から良く知る新緑色の目に変化するその目に。
「ごめんね、ケミ」
 新緑色の目と視線が重なった瞬間、セツの体から新緑色の光が放たれ、ケミの意識は遠ざかる。
 薄れ行く意識の中で、ケミは遙か昔、同じ言葉を口にしながら自分の記憶を奪った青年の姿を思い出した。あの時も青年は泣きそうな笑顔でケミの額を指で小突き、それっきりケミはそれまでの記憶の一部を失った。
 ーーやっぱりヒワ、あんただったんだね。
 微かに感じる額の温もりを感じながら、ケミの意識は完全に途切れた。一部の記憶と仄かな想いを置き去りにしたままに。

 ・

 鳥へ変態した仲間の力を持ってすれば、メギドへの進入は拍子抜けするほど簡単であった。
 ノシドの後方で、セツが何もない空間に手をかざすと同時に周囲は目映い真珠色の光に包まれ、そして中からは木々が所狭しと立ち並ぶ、緑豊かな大地が顔を覗かせた。
 数千年ぶりに人の目に触れたメギド上空を三度旋回し、鷲と化したクサカは広い草原に降り立つ。その場所こそ、アルティフ率いるサイと、ココー率いるシキが最終決戦を行ったメギドの丘であった。が、凄惨たる戦が繰り広げられたその地は、今や鳥達がさえずるのどかな丘と化していた。
「あの丘が、こんな風になっているとはなあ……」
 地を這うようにして咲き乱れる花に触れながら、クロハエは過去の記憶思い出してぽつりと呟く。
 彼の記憶の中のメギドの丘は大地は抉れ、裂け、不気味な赤い月が爛々と光る下で無数の屍が転がっているものであった。が、今やそのような参上は跡形無く消え去り、絵に描いた平和が広がっているのみで、拍子抜けせざるを得ない。
 それは他の仲間も同じなようで、彼らもどこか落ち着かない表情で周囲を見渡している。
「ケミさん、どうかされましたか?」
 その中でも一際落ち着かない様子のケミに気付き、ウリハリは小声でそっと声をかける。そう言えば、ケミは今朝からどうも上の空で、そうかと思えばいきなり顔をしかめたりと、いつもより落ち着きがなかった。
 いや、べつに。言葉を濁すケミであったが、眉間に深々と二本の線を刻んでいるのを見れば、その言葉がごまかしであるということはすぐに分かった。
 こういう手合いは食い下がるより、黙って待った方がいい。恋人の親友であるクサカでこういった性格の扱いに慣れているウリハリは、黙ってケミを見つめる。するとものの数秒で、彼女は問いつめてもいないのに話し始める。
「昨日、セツと何を話したのか思い出せないのよ。何か大事なこと話した筈なんだけど、頭が霧がかったようで、全く見えない。かといってセツに聞くのは癪だし。なんだっけなぁ……」
「では、みなさん又後ほど」
「そりゃお前あれだろ。アルコール中毒で頭やられてんだよ」
「思い出した。クサカが最近調子乗っているからシメようと話していたんだ」
「ああもう! ここを戦場に戻すなよー!」
 取っ組み合いを始める二人をクロハエが宥める横で、ウリハリはセツが一人で遙か向こうの森のへ向かっているのに気付いた。それも、まれにみない速度で走っているのを。
 ケミ達とセツ、どちらを優先しようか。そもそも今からセツを追いかけて間に合うのだろうか。迷う内にもセツは凄まじい早さで森へと消えていく。
 と、不意に黒い影が前を突っ切っていく。
 しばし呆気に取られてその影を眺めていたが、それがココーだと気付き、視線を、意識を殴り合っている二人に戻す。
 追いかけたところで、今のウリハリはセツに何と声をかければいいのか分からない。ならば、セツの扱いに慣れたココーに任せた方が良い。昔から、ココーはあの人の担当だったから。
 ーーあの人って、誰でしたっけ?
 納得したところで疑問が湧く。
 あの人……。どれだけ痛めつけようと刃向かい、あのアルティフが手を焼き、ココーに押しつけたのは……。黒い髪と黒い目、そしてケタケタとどんな時でも笑っていたあの人は……。
「馬鹿! 能力は使うなよ! 素手のみ!! でなきゃ俺も怒るよ!!」
 後少しで思い出せそうになるも、クロハエの怒声で意識が引き戻される。同時に、ウリハリは自分が今、何を思い出そうとしていたのかを忘れた。

 ・

 ーー、ーー。おかえり! 今日はあの花畑に行こうよ! 今満開で凄く綺麗なんだ。良い匂いがするんだよ?
 お母さんもお父さんも誘ってさ! ねえ、良いでしょう? ーーはいつも難しい顔をしているから。花畑に行ったら、きっと前みたいに笑えるようになるよ! 僕はーーの笑顔を見たことがないから、見てみたいんだ。

 頭に、幼い狼の声が聞こえたような気がした。
 そんな筈はない。それは分かっていた。何故ならば、その狼はもう大人になっているのだから。あんな舌っ足らずで甲高い声を口にしない。それに、もう彼はあの名で自分を呼ばない。否、もうあの名で自分を呼ぶもの等、この世に存在しないのだから。
 森を抜け、緑の草が生い茂る丘にやってきたセツは額から滴る汗を指で払い、走ることを止めて歩き始める。
 季節が初夏になると、この辺りは真っ白な花で覆われる。が、今は生憎季節が違うため、花は緑の葉に姿を変え、周囲を緑で覆っていた。
 しばらく歩くと、丘の端、森との境界線に巨大な結界樹が現れた。それを確認したセツは暫し足を止め、じっと食い入るように木を見つめる。が、それもほんの一瞬のことで、瞬きを二度した後にはセツの足は再び動き出していた。それも、先程よりも早く。
 やがて木の下までやってきたセツは、大樹の根本に深緑色の何かがいることに気が付いた。途端、彼女の脳裏に、鉄の仮面の下で腐敗していた父の顔が浮かび上がる。が、違う。と心中で呟いて再び足を進める。
「ナツメ、ただいま」
「おかえり、……セツ」
 父そっくりに育った、義理の弟であるナツメはセツの姿を見てどこかためらいがちに名を呼び、巨体を屈めてセツの額に自分の額を付けた。
 チクチクと、狼特有の堅い毛が自分の髪と絡み合う。しかし、不快ではなく、セツはそのまま腕を回し、ナツメの太ましい首を抱きしめる。
「ナツメ、ごめん。父さんはもう……」
「いいよ、そんな気はしていたから。謝らなくて良い。セツのせいじゃ無いんだから。それより、セツが変わってしまっていることの方が……!」
「私は戻っただけだから、心配しなくて良い」
 その言葉に、ナツメは体を起こしてセツを見る。
 数ヶ月前、この森を旅立っていったセツは満面の笑みを浮かべて手を振っていた。そして、それから数ヶ月経ち、戻ってきたセツは鉄面皮のような表情のない顔になっていた。
 それはナツメの見慣れた彼女の顔なのだが、彼女の笑顔を、心を知っているナツメにとっては苦痛に感じられる。
 一切表情を崩さず、ただ真っ直ぐに自分を見つめるセツに負けたのか。はたまた、何を言っても彼女の意志は変わらないと察したのか、ナツメは少し悲しそうに眉を潜め、
「そうか、そっか……。……ここに戻ってきたっていうことは、封印を解くんだね。本当に、良いの?」
「構わない」
 揺るがない意志を、声を前に、ナツメは再度そっかと呟き、立ち上がって歩き始めた。背を追う形となるセツはナツメの顔を伺うことは出来ない。けれど、何故か図体ばかり大きくなった弟が今、顔をくしゃくしゃにして泣いているのが簡単に想像できた。
 こういうときは謝るべきなのだろうか? 微かな疑問が浮かぶが、自分は間違ったことをしているわけではないと思い出し、下げかけた頭を上げる。
 間違ったことをしていないと思っているのに謝れば、自分の気持ちに嘘を吐くことになるし、相手にもきっと失礼なのだろう。昔、謝る度にワクラバに「心が籠もっとらん謝罪なんぞ要るかボケ!」と突っかかられていたことをふと思い出す。
 懐かしい赤毛の仲間の顔を思い浮かべている内に、先を歩くナツメの歩みが止まる。視線を上げると、そこには泉の畔に立つ、木の股の空洞が目立つ巨大な結界樹があった。
「ただいま」
 その言葉に呼応するように、空洞だった結界樹の木の股が光り出す。そしてセツが幹に手を触れると木は眩い真珠色の光を放ち、空を白く染める。
 光が消えた後、姿を現したのは木の股に抱かれるようにして鎮座する巨大な真珠色の結晶であった。
 新たに出現した結界樹に歩み寄り、セツはそっと目を閉じる。
 脳裏に浮かぶのは、数ヶ月前、ノシドに住む少女、ユキとして生きていた自分が、ここでセツという体に戻った夜のことであった。
 戸惑いながらもノシドを離れ、クサカに騙され、夜の森でムヘールに追いかけられ、ダイナリ、ドーヨー、レイールといった掛け替えのない仲間に出会い、自分の記憶と向き合いながらウリハリと再会し、そしてユキが色濃く残る自分と決別した。今となっては、川のように流れ去っていった過去の記憶が、どこか懐かしく思えるような気がした。
「ねえ、セツ。本当に良いの?」
 鼻声に振り返ると、そこには巨体を縮こませ、上目遣いでこちらをのぞき込む哀れな義弟の姿があった。あまりに不格好なその姿に、小さく息を一つ吐き、セツは深緑色の堅い毛をガシガシと乱暴に撫でる。
「良いんだよ。泣き虫ナツメ」
 小さく義弟の額を指で弾き、セツは真珠色の結晶に手を伸ばす。
 途端、彼女の体は飲み込まれるようにして結晶の中に吸い込まれ、セツを飲み込んだ結晶はまるで鼓動を刻むように、定期的に真珠色の光を点滅させる。
 その日、不気味に光る結界樹の側で、一匹の狼によるもの悲しい遠吠えが、数時間にも渡って続いた。


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