70
 どれだけ気分が落ち込もうとも、明けない夜はない。
 当たり前だが、重苦しい気持ちのままの一行の前にも太陽は必ず昇る。
 昨日の一件が尾を引いていたためか、変わり果てたミズチの夢を見、あまり良いとは言えない目覚めをしたケミは、悶々とした頭を冷やそうと早朝に洞窟を出た。
 昨日の雨は嘘のように止んでおり、森林地帯特有の朝霧に覆われた森には、小鳥のさえずりが響いている。
 ーー夢さえなければ、とても爽やかな朝だったのにね。
 頭上の木々を飛び移る色とりどりの鳥を見ながら小さく心中で呟き、遠くで聞こえる水音を辿って川を目指す。昨日の雨の影響で川の水嵩は増しており、洞窟を出てからものの数分でケミは小川にたどり着いた。
 早速川縁に膝を付き、片手で水をすくう。源流から近いであろう川の水はまるで雪解け水のように冷え切っており、指に触れた途端、寝起きのケミの頭を覚醒させる。
 何度か水をすくい、手を慣れさせると今度は両手ですくって顔に浴びせるようにしてかける。頭の芯から電流が流れるような感覚を味わうと共に、今度は冷たい水にさらされ、血流が良くなった顔が熱を帯びてくる。
 たれ目をぱっちりと開いた彼女は、おもむろに手をぽんと打つと、あっという間に服を脱ぎ捨て、早朝で肌も凍るような川の中へと入っていく。
 顔とは比にならぬほど、冷え切った水がびりびりと体中に鞭を打つ。が、彼女はそれを諸ともせず、それどころか大きく息を吸い込むと、勢いよく水の中へと沈んでいった。
 ケミは昔から水辺が好きだった。最初は身体を洗うだけだったのだが、冷たい水は嫌なことを忘れさせてくれた。身体に付いた汚れも流してくれた。いつ頃からか、彼女は身体を洗うだけでなく、何かあると水辺に行くようになった。
「ぶはっ」
 色気もへったくれもない息継ぎと共に水面に浮上する。既に身体は水温に慣れ、ぽかぽかと火照っているような気すらする。
 しばらく思うままに水泳を楽しんで頭の中の鬱憤を晴らすと、すっきりとした顔で陸上へと上がる。が、上がった途端、なんと運が悪いのか、ケミと同じくして顔を洗おうとやってきたセツと鉢合わせになる。
「おはようございます」
「……おはよう」
 いけしゃあしゃあと何事もなかったように挨拶を口にするセツを前に、晴らしたはずの鬱憤が秒単位で加算されていく。この場でこいつを川に沈めたらどれだけ愉快だろうか。そんなことを考えつつも、数少ない理性を全力で活用し、腰まで上がった拳を何とか押さえ込む。
 ぶっ飛ばすか、押さえるか。自分との熾烈な戦いを繰り広げる横で、セツは大ガエルの頬袋の中から昨日の雨に濡れた服を取り出して洗う。ひとしきり洗い終えたセツは、顔に巻いてある包帯を取る。昨日は見るも無惨だった顔が綺麗に戻っているのを見て、ケミは状況を忘れて唖然としてしまう。
「もう治ったの?」
「はい。寝たので」
 寝て治るもんじゃねえだろ。心中でつっこむ横で、顔を洗い袖で顔を拭ったセツは、ふとケミを見上げてぽつりと呟く。
「服、着ないんですか?」
 そこで自分が全裸で仁王立ちをしていたことに気付いたケミは、今着るところ。と、さもわざと全裸であったかのような発言をし、指摘されたことにより更に貯まり始めた鬱憤をどう晴らそうかと考えながら荷物を漁る。
 が、ここで身体を拭う海綿を持ってきていないことに気付く。当初顔を洗うだけのつもりだった為、身体を拭くようなものは持ってきていなかったのだ。
 流石に身体が濡れたまま服を着るのは気が引ける。どうしたものかと、再び仁王立ちで考えていると、今喉から手がでるほど欲しい海綿が横からずいと伸びてきた。
 差し出したのは当然セツ。敵からの施し等受けてたまるかと要らないと返すも、セツは尚も海綿を半ば押しつけるようにして差し出す。
「使った後に捨てても構いません。私は使っていないので」
「いらない」
「忘れてきたのではないですか?」
「うっさい。自然乾燥させるんだよ」
「使ってください。生乾きの臭いは鼻に触るので」
 余計な一言にわなわなと震えていると、セツは海綿を無理矢理ケミの手に握らせ、さっさとその場を離れていく。それも、ケミがすぐに捨ててしまわないよう、ご丁寧に結界で手と海綿を接着して。
 使うかこんなもん。と地面に叩きつけようとするも、結界で強制的に手に着いた海綿は離れない。しばらくぶんぶんと海綿を振り回し、どうにもならないことを悟ったケミは、苦虫を噛み潰したような表情で仕方なしに海綿で身体を拭う。
 非常に不愉快ではあるが、海綿はとても肌触りが良かった。そして誠に遺憾ではあるが、一切の水気を含んでおらず、ケミの肌に付いた水気をあっという間に吸収していった。
 身体の水気を拭いきったところで、忌々しい結界はガラスが割れるような音を立てて空中へと消えていく。半ば脊髄反射で海綿を地面へと叩きつけようとしたケミであったが、ふとセツが海綿を使わず、服の袖で顔を拭っていたことを思い出し、動きを止める。
「……あいつ、もしかして最初から私が持ってきていないと分かっていたのかな。いや、無いな」
 一人で結論づけたケミは、ここぞとばかりに海綿を川へと投げ捨てた。

 ・

 ぎすぎすとした雰囲気の中、一行はひたすら森林地帯を南下していた。
 徐々に出てきた肌にまとわりつくような湿気と、町一番のひょうきん者ですら裸足で逃げ出したくなるような非常に気まずい空気は、次第に一行の精神を蝕んでいく。
 それは再びやってきた嵐により、避難した洞窟内でも同じであった。
 代わり映えしない悪い空気を何とかしたい。唯一そう思っているクロハエは何とか場を和ませようと話を振るのだが、
「ケミ、一緒に飲もうよ」
「もう自分の分しかないから無理」
「そっか。ウリハリ、今日の予定は?」
「行軍が難しいとなった今は、寝るしかありません」
「……ですよねー。クサカ……」
「黙ってろハゲ」
 セツが根暗になった今、この面子で明るい存在はクロハエだけとなっていた。が、一人でこの葬式会場の空気に抗える訳もなく、仲間達に突き放された彼は、一人心に深い傷を負って、勝手に沈んでいった。
 ザザザ……ただただ雨が木々を叩きつける音だけが響く。いい加減気がおかしくなりそうになり、頭を抱えて悶絶し始めた頃、そんなクロハエを見かねたのか、ただの気まぐれなのか、ココーが暇だから誰か話をしろ。と他力本願な要求を出してきた。
「出来れば面白い物がいい」
「……お前さ、まず自分が出来るようになってから言おうよ」
 まるで自分が噺家のように難癖を付けるココーを窘めると、出来ていないのか。と呟くものだから戦慄する。未だかつてココーの話で爆笑はおろか、笑ったことも無い。せいぜい失笑が関の山だ。なのに、彼は面白い話が出来ていたと感じていたようだ。一体何がどうなって彼はあり得ない自身を得たのだろうか。
 いや、もしかするとココーの面白いは世間一般からずれているかもしれない。なにせこいつは変人だ。変人の考えるまともは大抵まともではない。その理屈からすると、彼が言う面白いは、一般的に面白くないことかもしれない。
 ココーが余計なことを言ったがために、更に居心地の悪い雰囲気が漂う。ああもうふて寝しようかな。思わずそんな事を考え始めたとき、今まで存在がほぼ空気と化していたウリハリが、面白いかどうかはさておき、ケミの妹について聞きたいと提案する。
 即座にケミはあからさまに嫌な顔をした。ケミにとって妹の話は禁忌である。その話をわざわざ聞こうとする者は誰もいなかったからだ。
「は、何のために?」
「私は遅くにシキになったので、皆さんの事をほとんど知りません。特に妹さんが既にいらっしゃいませんでしたし。今回、初めてお会いになるのですから、ある程度のことは知っておきたいのです」
「ふーん? 面白くも何ともないよ。まあ、きちんと話しておくのも一種のケジメか」
 ウリハリに限らず、彼女は妹のこと、そして自分の過去を口にしたことがない。過去を話すことに何のメリットも感じていなかった。むしろ自分の情報を知られるということは、戦地で死に繋がるという考えが強かった為、デメリットの方が多いと考えていたからだ。
「妹は、ミズチは私の二つ下。私とは違って、戦いが嫌いで、女っぽくって男にちやほやされてた。雰囲気は聖戦の時のウリハリに似ていたわね。ただ、外面は良いけど、性格は粘着質で陰湿。表で笑顔を振りまいて、裏で私にねちねち嫌味言ってくる、そういう意味でも女の鏡みたいな奴だった」
「あまり仲は宜しくなかったのですか?」
「さあ? あまり意識したこと無い。でも悪かったのかもね。顔会わせる度に文句言って来てたからさ。適合しなかったときも恨みの言葉紡ぎながら襲いかかってきたしね」
 真っ赤に染まった目、頬まで裂けた口。変わり果てた姿で自分の首を絞めてきたミズチの姿を思い出し、ケミは僅かに眉をひそめる。
 思い出せば思い出すほど、罵倒してきたミズチの姿が浮かぶ。そういえば、どうしてああまで嫌われていたのだろうか? 思い返そうとするも、段々怒りが湧いてきて記憶を整理できない。
 怒りの矛先は手で転がしていたクルミへと向けられ、狭い洞窟内にクルミの殻が握りつぶされる音が響く。その怒りがどうかこちらへと向けられませんように。クロハエが縋る思いで祈る横で、ウリハリが何か考えふけっていることに気付いたクサカは、どうしたと声を投げかける。
「……いえ。少し引っかかることがあって。ケミさん、妹さんが魔物にされたのはいつ頃の話ですか?」
「ああっ? ああ、正確には覚えていないわね。かなり昔のことだし」
「大体で構いません。あなたの民族が襲われた時、やってきたシキには誰がいました?」
 魔物が強襲した日。それはミズチの結婚式当日であった。
 前日に激しい喧嘩をしたケミは式には出ず、近くの崖から遠目に妹の晴れ舞台を見ていた。稀にみる器量良しのミズチを好いている男は非常に多く、祝福よりも邪魔してやろうと参列していた輩の方が多かったと記憶している。
 しかし、いざ式が始まり、花嫁衣装に身を包んだミズチが現れると、こっそり忍ばしていた武器をうっかり落とす者が続出した。積もり積もった嫉妬心を忘れ、見惚れてしまうほどにミズチの姿は美しかったのだ。
 男達の、心からの男泣きが森に木霊する中、ケミは遠くで悲鳴がすることに気付いた。騒がしい式から目を離すと、隣の集落周辺から火の手が上がっていることに気付く。そして火の元からケミの集落へ攻める沢山の魔物の姿も。
 即座に荷物をまとめ、臨戦態勢に入ったケミは集落の皆に知らせようと、警報として使用している笛を吹こうとする。が、口にそれを付けた直後、彼女は少し考える素振りを見せて笛を鞄にしまう。
 今日は妹の晴れ舞台。水を差すわけにはいかない。小指の爪ほどの姉心に動かされ、ケミは警報を鳴らさず一人で魔物の群へと向かう。
 ケミは強かった。並の魔物ならば一人で相手に出来る。だが、その自身が彼女の敗北、そして人生の終わりに繋がることを当時の彼女はまだ知らなかった。
 そして魔物の中に立つ四つの人を確認した後、彼女の森で過ごした人生は幕を落としたのであった。
「ココーさんと、ヒワと、ワクラバと……」
 後一人は誰だったか。
 人生初の完全敗北を思い出しながら、指を一つずつ折って当時のシキの名を挙げる。
 組み込まれた遺伝子がそうするのか、はたまた負けず嫌いの性格から、ケミは意外と執念深い。戦闘のことならば殊更。しかし、どうしたことか、敗北という筆舌に尽くし難い思いを味わったと言うのに、その中の一人を思い出すことが出来ない。
「……ココーさん、覚えていますか?」
「考えてみる」
 あまりあてにはならないが、当事者であるココーにも聞いてみる。
 しばらく考えた後、ココーは分からないと首を振った。
 やっぱりかと心の中で呟き、再び古い記憶を思い返す。
 魔物の屍を踏みつけて現れた四人。一人は今より髪が長く黒髪と冷めた目が特徴的なココー。そして彼と対を成すような灰がかった白髪と新緑の目をした青年、ヒワ。そして身体に炎を纏った赤い髪の女、ワクラバ。そして後一人は……。
「駄目、思い出せない」
 何故かどう頑張ってみても、後の一人がまるで磨り硝子越しで見ているようにぼんやりとしか思い出せなかった。
「セツさんではありませんか?」
 ウリハリの声に、はっと顔を上げる。
 しかし、あり得ない。セツがシキとなったのはそれから随分後のことである。研究所とは名ばかりの、不潔な牢獄でアルティフがセツをお披露目していたことははっきりと覚えている。
「それは無いでしょ」
「けれど、セツさんは妹さんを封印として利用しているのでしょう? 例え蛇とは言え、瀕死の状態で何年も生き延びられるとは考えられません。延命治療を受けたと考えれば別ですが、博士の性格的に不適合者を生かしておくことは無いでしょうし」
 確かに、取っ組み合いの末、既に適合していたケミはその怪力でミズチの腹部を吹き飛ばす形で生き延びた。あの状態では、よほど高度な治療を受けなければ延命する事は不可能だ。
 しかし、それでもセツがその時期に存在しているのはおかしい。
「だからって、どうしてセツがその時にいるのよ。セツが作られたのはそれからずっと後のことじゃない」
「セツさんではなく、セツさん以前の人ではないですか?」
 その言葉に、今まで黙々と薬草を分けていたセツの動きが止まる。
「セツさんの元になった方です。あまりに反抗的だからと拷問を受けた後に処分されたと噂の。その人ではないでしょうか?」
「あー、名前何だっけ? そういえば居たねえ。あまり覚えていないけど」
「ワクラバと仲良かったって記憶しかねえ」
 セツの元になった人物。今まで忘れていた存在について皆は知っていることを出し合うが、情報は不自然なほどに少なかった。
 ココー、ヒワ、ワクラバと行動していたのなら、その人物は古参であるはずだ。しかし、始めに生まれたココーですらその人物について覚えていなかった。
 何かがおかしい。疑問を抱いた直後、皆の目から薄い白の光が放たれ、それと対を成すように、セツがこめかみを押さえて顔をしかめる。
「セツ、お前は覚えていないのか?」
「さあ、どうでしょう」  
 セツには隠し事が多い。
 昨日の夜に出た話題を思い出したのだろうか。不意にココーが立ち上がり、乾燥させた薬草をはんでいたセツの前に立ち塞がる。
 次第に赤みを帯びていく彼の双眼を目にした仲間たちは、言葉を交わすこともなく全員が目を背ける。彼の能力により、目を合わした者は言いたくなくとも自分の秘密をさらけ出してしまう。それを知っているからこその対応であった。
「無駄ですよ」
 彼が尋問するより先に、セツが口を開く。
「幾らあなたでも私の考えを覗くことは出来ません。タシャに言われませんでしたか?」
「やってみなければ分からない。それより、どうしてそのことを知っている?」
「私とタシャはもう同化しています。タシャの見たもの、思考も全て私の中に。嘘だと思うのなら、そのまま能力を発動してみてください」
 じっと二人の視線が重なり合う。
 しばらく見つめ合った後、その視線はココーによって反らされる。どうやらセツの言う通り、ココーは彼女の頭の中を見ることが出来なかったようだ。否、読めたことは読めたのだが、彼女の頭には薬草苦いという考えしか無かったため、成果は無いに等しい。
「心配せずとも、あなた達を不利にするような予定はありません」
 なにやら引っかかる言葉を残し、セツは眠るために荷物を持って立ち上がる。しかし、その歩みはクサカによってすぐに止められる。
「お前、本当に何を考えてんだ?」
「私の目的は封印からの解放。あなた達と同じです」
「信じられねえな」
「別に信じて欲しいなんて思っていません。今も昔も私は、私の成すべき事をするだけ。疑うのならどうぞご自由に」
「……気に入らねえなその態度」
 張りつめた空気が食事中の一同を覆う。
 セツを睨み付けたまま、テーブル代わりに使っている岩を叩く。振り下ろされた拳の真下にあったフォークが衝撃で宙を舞うと、彼はそれを手に取り、勢いよくセツへと投げつけようとする。
「止めておけ。こんなところで怪我でもしたら面倒だ」
 しかし、フォークを握ったその手はいつの間に立ち上がったのか、ココーによって押さえられていた。
「お前もな」
 クサカを離した後セツに寄ったココーはセツの腕を掴み、その手から魚を焼くときに使用した串を取り上げる。どうやら、セツも攻撃するつもりでいたようだ。
 こんな物を仕込むなと面倒くさそうに呟くと、不意にセツがココーの手を勢いよくふりほどいた。突然の行動に、ココーのみならず皆が目を丸くする。しかし、今回の驚きはこれだけに留まらなかった。
「アルティフの狗なんぞが私に触れるな!」
 まるで吐き捨てるような拒絶の言葉を口にしたセツの目には、黒々とした憎悪の炎が宿っていた。しかし、その炎が宿っていたのはほんの一瞬で、彼女が次に瞬きをしたときには、いつもの暗い目が並んであるだけであった。
「失礼しました。それではおやすみなさい」
 尚も固まる一同を無視し、セツは何事もなかったかのようにさっさとその場を離れていく。
 今回一番驚いたのは意外にもココーなようで、彼はセツが見えなくなってもしばらくそのままの状態で固まっていた。
「お前、何をしたの?」
「分からん。が、ただ一つ言えることがある」
 振り払われた手を見つめながら、ココーは珍しく仮説を立てる。
「セツは消えていない。確実に、生きている」


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