不思議というか、当然というべきか。セツの目覚めを喜ぶものは誰一人としていなかった。
しかし、誰一人として祝福されない状態であっても、セツは一切取り乱したり、不安げな表情を見せたりという無様な仕草を示すこと無く、皆が居心地の悪そうな視線を送っても、一切取り付こうとしなかった。
しかし、生き物とは非常にタフなもので、どのような環境下でも必ず適応するものが現れる。シキを神のように崇めていたササの民ですら、宿場を覗くなり回れ右をして帰るような非常に劣悪な環境化でも、飄々と過ごす人物がいた。
「やー、新人ちゃん。元気してるー?」
「はい」
「はは、今日も暗いねぇ。本当見事にイメージチェンジしたね。素直に凄いと思うよ。もう出発しちゃうの?」
「はい」
次の目的地に向かうため、旅支度を終えてセツに話しかけているのは、例外のその人、ドーヨーであった。
彼はセツと会った当初こそ困惑していたが、その後は彼女の豹変を驚くほど素直に受け取り、それをからかうまでになっている。
どうしても昔の一件と、以前のセツの印象が拭いきれず、セツとの会話を避けがちになっている一同にとって、彼らの交流は非常に驚愕的な現象であった。
「出発はいつ?」
「準備が出来次第、ですね。ドーヨーさんこそ、準備は終わったのですか?」
「うん。だって、新人ちゃんがくれたダイナリさんの遺品しか持ち物無いし。ああ、ここの娘さんも連れて行っていいなら……」
「無理ですね」
「だよねぇ。てかさぁ、本当に王子と一緒に行動してもいいの?」
記憶を戻したセツが次の目的地を告げる前に、今後の身の振り方を聞かれた彼は「ササを出て所見を広げたい」と言った。宿場の娘と只ならぬ仲になっていた彼がササを出て行くことを望むのは些か想定外のことであったが、セツはそれを二つ返事で了承した。
が、ササを出て、見知らぬ地でぽいと彼を捨てるのも考え物だ。それに、彼はまだ傷が完全に癒えていない。働き口を探すのも困難だろう。
せめて知人のいる場所に連れて行こう。おずおずと提案されたクロハエの意見を採用しようと考えたが、彼の故郷は既に失われていたし、ダイナリとずっと行動を共にしていたため、知り合いもいなかった。唯一馴染みのある場所と言えばマニャーナ国だが、のこのこと帰れば、兵士に捕まえられるのは目に見えているし、何より彼は敵の拠点に向かうような馬鹿ではない。
さてどうしよう。あまりドーヨーの事に興味のない一同は形だけ悩んだが、その悩みは「レイールを頼ればいい」というセツの意見ですぐさま解決した。
そこからは早かった。レイールと別れたレウニオンの丘にドーヨーの面倒を見て欲しいという旨を記した手紙を配達鳥で送ると、返信はその日の内に来た。慣れない外界の文字をドーヨーに読んでもらい、レイールがその意見を二つ返事で了承したことを確認すると、彼女はまた詳細な日程と、そう至った理由を手短に記し、再度その日の内に送り返した。
結局その日の内に六通と一通(その一通は配達協会からの「鳥を酷使しすぎだ」という忠告であった)をやりとりした彼女は、またしてもその日の内に旅立つ準備を終えるという、電光石火の早業をこなしてみせた。
と言っても、彼女の対応が早すぎるだけで、他の者は全く準備が出来ていないのだが。
「構いませんよ。レイールは喜んでいるようですし。エウロペは知りませんが、まあ気にすることはありません。彼はレイールが白いと言えば、カラスも白いと思いこもうと努力するような真面目馬鹿な気性ですから。もとより彼らもマニャーナ国の犠牲者ですからね。意気投合はしやすいかと。エウロペは知りませんが」
「何か、エウロペ君に対して風当たりがきついような気がするんだけど。あ、でも何か仲良く出来そう。真面目かー、そっかー」
「エウロペはどうでもいいですが、レイールにはあまり悪戯しないようお願いします」
「そんな殺気向けないでよ。大丈夫大丈夫。エウロペ君の方が面白そうだし。それよりさ、新人ちゃんお仲間のところに行かなくても大丈夫なの?」
何やら外が騒がしくなってきた。
神と崇め讃えられているウリハリの影響か、静けさが目立つササが賑やかなど、そうあることではない。何か目出度いことでもあったのかと、彼は頭の隅で考える。
「今後のことを話したりとかさー」
「ドーヨーさんをレウニオンの丘までお送りしたら話します。前もって言う必要性はありませんし、何より彼らは私の存在を疎ましく思っています。私が現れたとて、不快な思いをさせるだけでしょう」
「ふーん。変なの。かなり性格変わったって、新人ちゃんは新人ちゃんのままなのにね。どうしてありのままの君を受け入れてやれないのかな」
初めて言われる言葉に、セツの動きが止まる。しばらく制止した後、セツはああ。と思い出したように呟き、そして返事の言葉を口にする。
「私が仲間を殺したからでしょうね」
淡々と告げられた言葉に、今度は今度はドーヨーが制止する番だった。
「え、それってどうい……」
「セーーツッ!! 準備出来たか!? 俺は出来た! さあ、行こう。早く行こう。一刻も早く風よりも早く!」
何とか思考の硬直を解き、詳細を尋ねようとするも、それは異常なほどに焦った様相のクロハエの乱入によって中断される。
彼は尋ねておいて答えを聞く気もないのか、セツとドーヨーの手をむんずと掴んで廊下へと引きずり出す。さすがにこれは異常だと感じたドーヨーがどうかしたのかと尋ねるも、彼は後で言うから。と突っぱね、取り付く島もない。
正面玄関から出ればいいものを、わざわざ狭い勝手口から出、尚もクロハエは二人の腕を掴んだまま細い路地を歩く。道幅が狭いため、並んで歩かされる形の二人は、壁とお互いの肩に挟まれ、非常に窮屈な思いをした。
やっと広場に到着し、クロハエの手から解放された二人は、さんざんぶつけて鈍い痛みを発する患部をさすって大きく息を吐く。
肩の部分が破けてしまい、じっとそれを見つめるセツを余所に、文句の一つでも言ってやろうとドーヨーは口を開けるが、何故かクロハエが怯えたように、落ち着きなく周囲に目を配らせて居ることに気付く。
「何かあったんですかー?」
「いやっ!? ないない。何もない。オールクリーンのパーフェクトって奴ね!」
「嘘下手だって良く言われませんー?」
「うるさいな! だって俺だって知らなかったんだよ! まさか昔懲らしめた連中の親玉がササ出身で、しかもオカマになっているだなんて! しかも何? 俺のこと好いてるって! 何だって神様は俺に対してこんなに意地悪なの!?」
反べそで意味の分からぬ事をまくし立てる中年を前に、ドーヨーは哀れみを含んだやや軽蔑の眼差しを送る。
直後、宿場の方から獣のようなほうこうがした。慌ててそちらを見ると、通路の真ん中に遠めで見ても分かるような筋骨隆々とした体躯のスキンヘッドの男が立っていた。
瞬間、クロハエが「来たー!」とこの世の終わりのような悲鳴を発し、スキンヘッドの男はまたもや獣じみた声を発する。
クロハエのこの怯えようと、先の話の内容からするに、きっと彼はこれから逃げていたのだろう。しかもだ、この推理が当たっていたとすれば、あの明らかに男臭い男は、オカマという事になる。
勿体ないな。と他人事だからこそ軽く考えている内に、そのオカマらしい男は地獄の底から響くような声でなにやら叫びながら、美しいフォームでこちらへと突進してくる。
いやいや叫ぶクロハエの手を、さっきのお返しだとばかりに掴んでその声に耳を傾ける。非常にゆっくりで低い為聞き取りにくい箇所もあったが、「会いたかったわ」スキンヘッドの男は確かにそう叫んでいた。確かに、外見は男の中の男だが、中身は女性らしい。
「私の王子さ……ってちょっと待てぇえ! 私の麗しい御方その前に居るのは、雨の夜に私と愛しのローラちゃんに刃向かった小憎たらしい小娘じゃねえかぁあ! またもや私の邪魔をするかこのジャリ娘ぇえ!!」
「……新人ちゃん、あの凄い人と知り合いなの?」
「ええ」
色々と予想外のことをしでかしてくれる弟弟子は、さも当然と言った様子で返事を返し、まるで自分たちを守るようにスキンヘッドの男の前に立ち塞がる。
「どうも、お久しぶりです。ムヘールさん」
「なあああにがお久しぶりじゃワレェ!? てめえのおかげでこちとら大半が動けず、暫くおまんま食い上げだったんだぞボケェ!!」
「大変でしたね」
「どの口がそんなこと言い腐るんじゃああ!」
「随分怒っていますね。どうしましょう?」
「いや、こっちに振られても……」
かつてセツと退治したムヘールは、今や鬼の化身と言っても過言でもない程怒り狂っていた。何とか穏便に事を運べないか。そう必死に考えを巡らすドーヨーだが、困ったことに妙案は浮かばない。
そうこうする内に、すっかり激昂しているムヘールは、サバイバルナイフを取り出してセツへと決闘を挑む。事態は最悪の方向へと向かっていた。
慌てて背後のクロハエを見るも、かつての敵に精神的に追い込まれた哀れな中年は、頑張れセツ。と応援するだけで、事態の収拾を図るどころか、炎上させるという最悪の事態を引き起こしていた。
「麗しの御方に声援を受けるなんざ、許せねえええ! 殺してやる! 殺して、剥いで、内蔵引きずり出して犬の餌にしてやる!!」
「その際に餌になるのは肉でしょうか? 内蔵でしょうか? そして剥いだ皮はどうするのですか?」
「うるせえんだよ! てめえは黙って俺に叩き潰されりゃあいいんだよ!」
「そうですか。なら、致し方ありませんね」
直後、セツの体から真珠色の光が放たれる。
嵐の夜にみたものよりもはっきりとした光に、ムヘールの目が僅かに細くなる。あれはまずい。今まで幾千もの戦いを潜ったからこそ分かる、その光の危険性。だからこそ、彼はセツの能力発動を待たずして、棒立ちする彼女の首へとナイフを突き立てた。
しかし、セツも能力発動を優先的にし、攻撃を避けることもなく黙って首を落とすほどの馬鹿者ではない。
ナイフが突き立てられる寸前、振り下ろされたムヘールの腕に沿って滑るように移動した彼女は、瞬時に来たもう一本の腕による横払いを辛うじて避ける。が、避けた直後に大木のような足による蹴りが炸裂した。
岩をも砕くムヘールの蹴り。それをまともに食らえば、強靱な肉体の男でも致命傷は避けられない。ごく一般的な体躯の女であるセツが、それを受けて立っていられる可能性は、限りなくゼロに近かった。
しかし、蹴りを受けたセツは空中で回転し、本来ならば叩きつけられる筈の壁に足を着けて勢いを殺すと、何事もなかったかのように地上に降り立つ。見てみれば、壁の一部と、セツの腹部には、真珠色の結界の一部か付着している。
彼女は攻撃を受ける寸前で能力を発動し、攻撃を防いでいたのだった。
「またそれか! だが、防ぐだけじゃあ、俺には勝てねえぞ!!」
しかし敵もさるもの。セツの反撃を拒むように素早くナイフと拳で連激を行う。素早さが増した分、威力は少々落ちるが、それでもセツに防御に回らせ、攻撃を防ぐには十分であった。
執拗な攻撃に次第に追いつめられていくセツ。やがて彼女は壁まで追いつめられ、逃げ道を完全に塞がれてしまう。行き場を無くした焦りからか、セツの足下から結晶化した結界が伸び、壁を覆い尽くしていく。
「止めてください!」
今まさにセツの首を落さんとナイフを掲げた直後、ウリハリの声が周囲に響いた。
巨漢の鬼に、貧弱なウリハリの声など効く筈もない。しかし、現実とは中々予想しがたいもので、彼女の声が響くとほぼ同時に、常人ならば振るうことすら困難な鉄の塊のナイフはその巨大な手から落ち、鬼と化していた男は、甲高い悲鳴を上げて乙女に戻る。
「ムヘールさん。ササ内での争いは厳禁だと、知っているでしょう」
「それは、勿論。でも、ど、どうしてウリハリ様が!?」
どうしてはこっちの台詞だ。
やっと追いついた華奢な少女を前に狼狽する大男。はもはや収拾のつかない現状に、ドーヨーは思わず心中で突っ込みを入れる。
「彼女は私たちの……仲間です。クロハエさんも」
その言葉に、再び悲鳴が響く。
実はムヘールはササの民であった。
ササの民はウリハリを生き神として奉り、崇めている。幾ら外の世界で暴れ回っていても、ササを愛するというササの民の心を忘れていなければ、ムヘールにも共通して言える。また、彼が外で賊として暴れ回っているのも、今では随分意味が変わっているが、当初はひとえにササを守りたいという一心からであった。
ウリハリに心酔しているムヘールは、自分のはしたない姿を見られ、先ほどとは打って変わって小さくなる。
「すみませんでした。……やだ、ウリハリさんにこんな姿見られて恥ずかしい……」
「んなでけえ図体して恥ずかしいもクソもあるかよ」
「んだこの貧弱な眼鏡はよぉ? 眼鏡叩き割って、ガラス片眼球にびっしり刺して剣山みたいにすんぞてめえ」
「……ムヘールさん」
「やだ! 私ったらもうっ!」
どうやらムヘールの信仰の対象はシキではなく、ウシハリ個人のようだ。
本気のムヘールに凄みを効かされ、さすがのクサカですら黙ってしまう中で、ウリハリはムヘールに変わってクロハエとセツに頭を下げた。
自分の失態で尊敬してならないウリハリが頭を下げたことに、ムヘールはこれ異常ないほど狼狽する。興奮のあまりムヘールが泡を吹きそうになった頃、セツが別に良いと短く言い放ったことによりウリハリはようやく頭を上げた。
そこでセツとウリハリの視線が初めて交差する。
セツの何の感情も無い真っ黒な目を暫く見た後、ウリハリは少々顔を青ざめさせて目を反らした。
少し気分が悪いので水を飲んできますと言い残し、その場から立ち去るウリハリを名残惜しそうに見送り、冷静になったムヘールはクロハエに視線を合わそうとする。が、既にクロハエもその場から逃げ去っていたため、仕方なくセツに目を合わせ、口を開いた。
「あんた、随分雰囲気変わったけど、ウリハリ様の仲間だったの?」
「はい」
「まさか、あんたがあの有名なシキとは思わなかったわ。で、あんたウリハリ様と仲良いの?」
「いいえ。私は彼女から恨まれていますから」
「はあ? 本当あんた役立たずね! ってことはあんた、ウリハリ様の恋人を殺したろくでなし?」
「はい」
「ふーん。そ」
意外にもあっさりとした返しに、側で聞いていたドーヨーは目を丸くする。それはセツが仲間を殺したというのが事実だったからと言うこともあるが、何よりも心酔している相手のパートナーを殺した者に対して、ムヘールがあっさりしすぎているからだ。
それを察したのか、ムヘールはドーヨーを見て少し不快そうな表情を浮かべた後、だってこいつ殺したところでウリハリ様の恋人は帰って来ないじゃない。と頬を膨らませて言った。
確かに、セツを殺したところで失われた人が帰ってくる訳がない。それは、家族を失い、ダイナリを失ったドーヨーも痛感していることだ。
「まあ、精々頑張りなさいな。あんたは正直大っ嫌いだけど、あんたがいなければウリハリ様の望みは叶わないんでしょう? ウリハリ様を悲しませないよう、下僕のように働きなさい」
そう言い残し、ムヘールはその場から去っていった。
まるで台風のように事態をかき回していった彼の背を追っていると、それまで黙っていたココーが大丈夫か? と遅すぎる言葉をかけてくる。
「ええ。皆が揃ったらすぐにでも出発しましょう」
何事もなかったかのように能力を解除して壁に刻んだ結界を消し去ったセツは、頭上で光輝石を見つめながら呟く。
結界は壁全てを多い、行き場を無くした結界は壁を越え、重力に従い反り返るようにしても尚その勢力を伸ばしていた。
それはただ行き場を無くしたというには大きすぎた。そして反り返った結界は波のように緩やかなカーブを描き、鋭く尖った先は真下のムヘールへ向けられていた。恐らく、セツはあのまま結界を伸ばし、ムヘールを飲み込んでしまうつもりだったのだろう。
ーー本当に、良かったのだろうか。
あれほど命を大切にしていた少女が、今や顔色一つ変えずに一つの命を奪おうとした。
記憶が戻ったが故に失ってしまった彼女らしさに、ココーは嫌な予感を抱いた。