08 姉と妹
 羅刹の鎧の下にあったバオの腐った顔を見てから、セツの意識は多量の記憶情報の波に流され、気が付けば彼女の意識は真っ白な空間に投げ出されていた。
 ここはどこなのか。記憶が混濁し、直前に何が起こったのかも思い出せない状態で、セツは周囲を見渡した。見えるのは真っ白な空間に所々モニュメントのように存在するひし形状の物体。
 よく見るとそれにはセツが今まで経験した事柄が、くるくると目まぐるしく映し出されていた。
 丁度ノシドの崖をココーと二人で降りた映像が流れているのを見、懐かしいなと思ったところで、急に映像に砂嵐が混じる。それは一つだけではなく、次々に他のモニュメントにも移って行き、やがて全ての映像が砂嵐と化してしまう。
 不気味な現象にただ身を縮めて警戒していると、それまで白かった空間が徐々に黒ずんでゆく。何だこれはと後ずさると、背中に何かが当たった。
 咄嗟に振り返った先に見えたのは、すっかり黒に浸食された空間でぽかりと浮かんでいる砂嵐にまみれた一つのモニュメントであった。
 他に見えるものは何もなく、セツは消去法でその砂嵐を見つめる。
 眼前に広がるは白と黒の目まぐるしい点滅。だが、その砂嵐の中に、徐々にではあるがある映像が浮かび始める。
 やがてその映像がはっきりとし始めた時、セツは声にならぬ悲鳴を上げ、その場に立ち尽くす。そこには、血塗れで倒れるツミナ。最早肉塊と化してしまった金色の髪の少女ーーミーシャ。ダイナリの切断された腕。理性を失った哀れな存在となったヒワ。そして、自我を壊され、ただ殺戮を繰り返すのみの存在となってしまったバオの姿が映っていたからだ。
 それらは皆、ある共通点があった。それは、セツが関わったせいでそのような姿になってしまったということだ。
「永かった。とても、永かった」
 不意に聞こえてきた声に、呆然としていたセツは我に返る。
 嫌な予感がした。セツはこの声を聞いたことがある。
 まだ彼女がユキとして生活していた頃、彼女はこの声が自分に語りかけてきた夢を見た。それは儀式の夜が近づくに連れ頻繁に夢に出るようになり、最終的に彼女は毎晩その声を聞くことになった。
 そして儀式の夜、彼女はユキという仮の体から、セツという本来の体に戻り、それまでの暮らしを全て捨て、仲間の悲願を果たすための旅に出た。あの声を聞いてから、セツの人生は一変したのだ。
「やっと、この時がきた」
 感情の籠もらぬ、冷たい声。
 自分の身の回りにこのような声を発する者はいない。が、セツはそれが誰のものなのか、容易に理解していた。
 ぼんやりと、暗闇の向こうに一つの影が見えた。それはモニュメントの光を頼りに、否、セツの存在を頼りに、確実にこちらへと近づいてくる。
「まだ、完全ではない。けれど、急がなければ」
 その人物像が明らかになった時、セツはそれまで張っていた警戒を解き、半ば諦めたような表情で、やっぱりか。と呟いた。
 今までセツは自分のことが一番分からなかった。だが、一方でやはり、自分のことは自分が一番理解していた。だからこそ、ノシドで聞こえてきた声が誰のものなのか、この人物が誰なのか、理解することが出来た。あの声も。この人物も、全て自分なのだから。
 目の前に立つ、もう一人の自分を見ながら、セツは再度やっぱりか。と呟いた。
 目の前のセツは、感情の全く感じられない表情で、今自分が身にまとっている浴衣を崩すことなく着ていた。ただ、その襟だけは死に装束となっていたのだが。
「いよいよ、目覚めの時がきた。私から外れていた私は、ようやく記憶を取り戻し、私は私に戻れる」
「……そうだね。待たせたね、私」
 二人のセツの視線が交差する。
 しばらく目を合わせた後、セツーー本来のセツはゆっくりともう一人のセツへと手を伸ばす。
 この手に触れられると、きっと自分は消えてしまうだろう。それが言われずとも理解している為、セツは無意識に後退する。
「どうして逃げるの?」
「どうしてって、分かるだろ? その手を取れば、私は消えてしまう」
「消えはしない。私とあなたは元々一つ。元に戻るだけ。ただ、私と同化することによって、あなたの意志は弱くなってしまうだろうけど」
 だからそれが怖いんだよ。ぽつりと呟くも、目の前の自分は理解できないと、その意見を一刀両断し、再度手をセツへと伸ばす。
 まだ消えることに未練があるセツはその手から逃れようと、再度後退する。が、そんなセツを逃がさまいとするように、セツの体は暗闇から突如延びてきた蔓のようなものにより拘束される。
 身動きすら取れず、自分自身の手による自身の消滅を待つばかりのセツに、目の前の自分は顔色一つ変えずにゆっくりと近づいてくる。
「大丈夫。あなたは消えない」
 そして、目の前にやってきたもう一人の自分は小さくそう呟くと、何か言おうとしたセツの言葉を待たずして、その手をセツの胸元に当てた。
 直後、二人の肌が触れた場所を中心として、目映い真珠色の光が出現し、煌々と周囲を照らし始めた。それまで暗闇しかなかった空間が、見る見るうちに真珠色の光により淡く、そし明るく照らされていく。
 同時に、光の中心にいるセツの体は五感を徐々に失い、ゆっくりとその形を崩し始める。足、指、手、腕。徐々にそれまで自分を形取っていた体が失われる感覚に襲われるセツの脳裏に、ある懐かしい光景が浮かび上がる。
 それは真っ青な青空の下で、空に負けぬほど青々と茂っている草原だった。そこには穏やかな風が吹き、柔らかな日差しが射し込んでいる。
 その中で、二人の人物がいることに気付いたセツは、飛びそうな意識の中、顔の半分が消えた状態で、その人物の顔を見ようと懸命に意識を奮い立たせる。
 そこには白髪の青年、ヒワと真っ赤な髪をした女性、ワクラバが立っていた。心配そうな表情のヒワ、明らかに怒っているワクラバの姿を捕らえたセツは、困ったように笑い、そして小さく呟いた。
「ごめん、また来ちゃったよ」
 その声を最後に、ユキとして生きていたセツの意識はこの世界から消え去った。

 ・

 望んでいたセツの記憶の復活。
 それが本当に正しかったのか。今になって一同は疑問を抱きだしていた。
 目の前にはベッドで眠るセツの姿。彼女は光が収まった直後にウリハリの能力によって眠らされ、ササへと運ばれてから今まで、以前と何ら変わらぬ寝顔で静かに寝息を立てている。
 その姿は以前と一部も変わらない。が、彼女の中身は激変してしまった。否、元に戻ったと言った方が正しいのだろう。記憶を無くしていた今までのセツは偽りで、記憶を戻した今の彼女が本来の姿なのだから。
 しかし、彼らは素直に喜べずにいた。
 何故か。彼らは今までの清々しいまでに前向きで、感情豊かなセツに慣れてしまっていた。それに、セツが眠らせる直前に見せた、何の感情も感じられぬ顔。それが否が応にでも彼らの脳裏に、自分たちを裏切って逃走したかつてのセツの姿が蘇ったからである。
 また、自分たちは裏切られるのではないか?
 自然に浮かぶ不吉な予感を口にすることなく、一同はただ黙って彼女の寝顔を見る。
 口に出してしまえば、それが現実になってしまいそうで、重苦しい雰囲気の中誰もが口を閉ざしている中、渦中の人物であるセツが小さな声を漏らす。
 その声に、瞬時にして室内に緊張感が走る。
 そうこうする内に、彼女の瞼がぴくぴくと動き、体を捩らせる。それがセツの目覚めを示していることは明らかであり、益々緊張感が走る。
「……ん」
 そしてセツの瞼がゆっくりと開き、その下にある漆黒の目が……。
「……っ!」
 が、その目は開眼と同時にウリハリの能力を掛けられ、また眠りの淵へと叩き落とされる。
「お、おい!」
「……すみません。少し、風に当たってきます」
 驚いたクロハエが声を上げるも、彼女は最後まで聞かずに部屋を飛び出してしまう。
 間髪置かずに続いて部屋を飛び出したクサカを見送りながら、ケミは呆れたようにため息を吐き、そしてぽつりと呟く。
「ここに来て怖じ気付いたわね」
 その言葉にクロハエは眉尻を下げながら「仕方ないよ」と、小さく頷いた。
 彼女はかつて最愛の人であるツミナをセツに殺されている。その張本人が目の前で目覚めようとしているのだ。恐ろしくない訳がない。
 ともあれ、ウリハリの行為で少し緊張の糸が和らいだのも事実。少し体制を崩した彼らは、再び眠りに落ちたセツの顔を見て、今後を語る。
「セツが目覚めたらどうするんだ?」
「目覚めたとて、未だ記憶は完全ではない。セツとヒワが施した封印を一つずつ解いていく」
「ああ、今のセツなら以前みたいに、どこに封印があるか分からないってことはありませんもんね」
「問題は、素直に手を貸すかという点だがな」
 そこで一同は黙る。
 また、裏切られるのではないかという考えが頭をよぎる。が、それを口に出すものはいない。無意識の内に、口に出してしまえば、それが現実になってしまうのではと恐れたからだ。
「うーん、もう目覚めたセツがどうなっているとか、考えるのは止めよう。考えたところで結果が変わる訳でもないからね。セツはセツ。それでいいじゃないか」
 腹のさぐり合いのように黙るこの雰囲気に耐えかねたクロハエが正論を口にすると、それを聞いたケミは少し渋るように眉を潜めた。しかし、脳内で言葉を反復し、彼の言ったことに間違いがないことを確認した彼女は、尚も眉間に皺を寄せたまま縦に首を振る。
 大きくため息を吐き、不意にケミは立ち上がった。
 何の気なしにその姿を眺めていると、彼女は両手を頭上で組むと、そのまま伸びをした。そして首を左右に捻って間接を鳴らすと、
「今日はもう起きないんじゃない? 三日も寝ていて、また寝かされたらしばらく起きないでしょ。ね、少し生き抜きしない? こっちも監視ばかりで疲れたし。クロハエ、ちょっと付き合ってよ」
「まあ、そう言えばそうか。何、酒でも飲むの?」
「ううん。組み手」
 嫌だど叫びながら引きずられていくクロハエを見送り、ココーは再びセツへと視線を戻す。
 枕元に近い椅子に座り直し、ココーは少し考えた後にセツの頬にそっと手の甲を当てる。
 実は以前もこうしたことがあるのだが、その時、彼女はぎゃあと声を上げて飛び起きた。熟睡しているように見えたが、どうやら狩猟民族としてしばらく生きていた彼女は、例え眠っていても気配や触覚で瞬時に目を覚ますことが出来るらしい。
 ほんの数ヶ月前のことがいやに懐かしく思え、柄にもなく口角が僅かに上がる。しかし、目の前のセツは以前同様に頬にさわられても身じろぎ一つしない。それが今までの彼女はもういないのだと物語っているような気がして、ココーはどこか落ち着かなかった。
 頬がめり込むほどに甲を押し当てても反応が無いことを悟ると、彼はゆっくりと手を離す。そして尚もこんこんと眠り続けるセツをじっと見つめ、何かを小さく呟いて部屋から出ていく。
 室内に残されたのは、ベッドの上に横たわるセツただ一人。
 その後、彼女は何時間も眠り続けた。
 そして地上で何度目かの太陽が沈んだ頃、誰もいなくなった部屋でセツは何も言わず、静かに目を開けた。
 静かな、そして孤独な目覚めだった。

 ・

 セツがいない。
 その事に初めに気付いたのは、食事を部屋に運んだクロハエだった。
 そこから仲間たちにセツの失踪が知れ渡るのは早かった。食器を持ったまま階段から転げ落ちた大男が、人目もはばからずセツがいないと取り乱して叫んでいたのだから。
 ともかく、その知らせを受けた一同は、こぼしたスープで汚れてしまった清掃を半ば居候に近いドーヨーとウリハリに任せて捜索に乗り出した。
 その際、ウリハリは自分が探索に出ないことに対して不満を一切口に出さなかった。皆がセツへの恐怖心を考慮してくれていると把握していたからだ。
 まさかもう敵の元へ向かっているのでは? 拭い切れぬセツへの不信感を胸に、彼らは文字通り血眼でササの町中をかけずり回った。そして苦労の末、彼らはとうとうセツを見つけた。
 初めに彼女を見つけたのは、やはりと言うべきかココーであった。彼はケミ、クサカ、クロハエが虱潰しに走り回る中、何となく町外れの泉の側へと徒歩で向かった。
 セツは自然を好んでいたため、町よりは自然豊かな場所にいるだろうと考えたからだ。そしてその考えは当たっていた。
 セツは泉の畔に生えている木に手を添えて、こちらに背を向けて立っていた。声をかけようとすると、音になるより早く彼女が先に口を挟む。
「どうも、お手数をお掛けしました」
 それは、今までの彼女とは全く違う、冷たく感情のこもっていない声であった。言葉よりも早くこちらに向きを変えていた彼女は、最早感情が消えてしまった漆黒の目でココーを真っ直ぐに捕らえ、深々と頭を垂れた。
「お陰様で記憶の殆どと、能力の大多数を取り戻しました」
 そう言うとセツは即座に能力を発動し、指先から結界を糸状に生み出し、それで犬の像を作って見せた。
「完全とは言えませんが、任務遂行に問題は無いと思われます。どうぞ、次の命を」
「休め。まだ戦争直後でササは慌ただしい。落ち着いてから次に移る」
「はい」
 意見を挟むこと無く、セツは静かに了承の意を示すと、宿に戻ります。と告げてその場を去る。
 与えられた命を黙ってこなす。それはセツの特徴であり、当たり前の彼女の姿である。だが、以前の明るいセツを知っているココーはこの当たり前のセツに違和感を覚えてしまう。
「……もう、笑わないのか?」
「はい。必要性が感じられませんので」
 ここで追いついてきたケミが短くセツの名を呼ぶ。が、顔を向けたセツの顔を見た途端、ケミは一瞬何か衝撃的なものを見たかのように目を見開き、それっきり口を閉ざしてしまう。
 セツは戻った。元に戻ったのだ。それは喜ぶべきことであるが、彼女は素直に喜べなかった。それは過去のセツと因縁があると言うこともある。しかし、一番の原因はやはり、以前のセツの存在が彼女の中で大きかったからだろう。
「念のため言っておきますが、これが本来の私です。今までのは記憶を戻すまでの間借りに過ぎません。なので、そのような恨みがましい目で見られても対処の方法がありません」
 そこでセツは忌々しげに見つめてくるケミと目を合わす。直後、ケミは何か言おうと口を開けたが、ふと思いとどまったのか何も言わぬまま口を閉ざす。
 ではこれで。改めてそう言うと、セツはさっさとその場を後にしようとする。が、その足はそう進まない内に止まる。
「……お前、セツか?」
「はい」
 そこには眉間に深く皺を刻み、彼女を睨むクサカの姿があった。
 ただでさえ二人は不仲であった。そのような状態なのに、今クサカの目の前には親友であるツミナを殺めた時と何ら変わらぬ、冷たい目のセツがいる。
 その姿を見たクサカが、過去の忌まわしい記憶を思い出し、暴れてしまうのは想定の範囲内であった。
「クサカ……ッ!」
 事態を重く見たケミが制止の声を掛けるも、彼はそれより早く足のホルダーから針を取り出し、セツへと放った。
 クサカの能力である風により、爆発的な勢いを持った針はまるでネジのように回転しながら真っ直ぐにセツへと飛んでいく。針の表面には予め風の影響を受けやすいように浅い溝が螺旋状に掘られている。それにより、針は風によってくるくると回転し、標的の体を貫くだけではなく、抉るように作用するのだ。
 そして今、岩をも砕く針はセツの眼前にまで迫っていた。が、セツは全く動じる様子もなく、黙って片手を上げる。直後、彼女の体から真珠色の光が放たれ、手を中心に結界が現れる。
 結果から言うと、クサカの攻撃がセツに届くことはなかった。
 岩をも砕く針は、結界に深々と刺さるに留まったからだ。
「挨拶にしては過激ですね」
「黙れよ」
「いい加減にしておけ」
 能力を解除し、結界を砕いたセツは結界が消えるとともに落ちてきた針を手に取り、クサカに投げ渡す。
 それを忌々しげに受け取ったクサカは、今にもセツに掴み掛かろうとする勢いだが、それはココーに肩を掴まれることによって防がれる。珍しくココーに諫められてもまだ熱が冷めない様子のクサカは、尚もセツを睨みつけるが、セツはそれに対して非常に冷ややかであった。
「私が記憶を取り戻せばこうなることは想定していたのでは? 先ほどのケミにしても、今になって因縁を付けられても困ります。あなた方はこうなることを望んでいたのでしょう?」
 失礼します。今度こそセツは宿場へと帰っていく。
 残された一同は、やりきれない思いを胸に、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
「ああ、いたいた。セツは見つかった?」
「もう、居ない」
「へ? 何、先に帰しちゃったの?」
 少し遅れてやってきたクロハエは、状況が掴めぬまま疑問を口に出す。
 直後、ケミはいつの間にか握っていた拳を、すぐ隣の木へと叩きつける。
 幹が激しく陥没し、繊維が重なり合い、くぐもった悲鳴にも似た音を出す。やがて自立を保つことが出来ず、木がゆっくりと倒れた頃、ケミはただならぬ雰囲気に固唾をのんで固まるクロハエへと、押し殺したような声でぽつりと呟いた。
「あの子は、今までのセツはもういない。私たちが、殺したんだ……!」


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