63
 慌ただしい着替えの後、沈んだ気持ちで食事を終えたセツは何をするでもなく、自室に戻ってベッドの上で死んだように横たわっていた。
 あれから何ともなく食事が終わった訳もなく。ドーヨーは毒が入っていたりして。と、出された料理を茶化していた。それに対し、少年は腹を立てた様子もなかったが、黙って食事を差し替えたあたり、当初出された食事には、あまり良くない物が入っていたのだろう。
 その間、セツは文字通り死んだように過ごしていた。そのかわりと言えば余りに失礼だが、ドーヨーが全てを仕切ってくれたおかげで、彼女はこうして今も呑気に意識を飛ばすことが出来る。
 少年を含めて三人で食事をとり、目の前の大鍋から皿に移し、なおかつその皿を適当に入れ替えて食べる。面倒ではあるが、食事が安全であるということを示すにはこれが一番手っ取り早い方法である。
 朝から修羅場をくぐったセツであるが、彼女は暗殺云々よりも、うっかり肌を晒してしまったことへの動揺が大きく、ドーヨー達が静かな争いを繰り広げる中でも死んだようにぼんやりと過ごしていた。
 そんな折り、入るよの声に続き、ドーヨーが室内に入ってきた。
 布団の中に籠城したい気持ちは山々ではあるが、先輩が来ているのに姿勢を直さないわけにも行かず、セツはほぼ脊髄反射で立ち上がって、彼に向かって一礼する。
 そんな彼女の態度に犬みたいだねと笑いかけ、彼はセツの隣のベッドに腰を下ろし、楽にして。と命じる。
 そのベッドがケミの物であるため、ばれたら不味いなと内心冷や冷やしながらも、彼の命に従い、ゆっくりとそれまで横たわっていたベッドに腰を下ろす。
「朝の一件はごめんねー」
「い、いえ。あれは私が寝ぼけていただけであって……」
「そ? じゃあ、この件はチャラね。俺も気にしないし、新人ちゃんも気にしない。オールオッケーだね」
 軽すぎる解決に意義がない訳もないが、このままずるずる考えてもどうしようもない。分かりました。と、了承すると、彼は良かった。と柔らかな笑みを浮かべる。
 その笑顔は庭師の頃と全く同じで、セツはダイナリとドーヨー。三人で過ごしたあの厳しくも楽しかった日々に戻れたような気がした。
 ダイナリの顔を思い浮かべた途端、セツは「ああ」と何か思い出したように声を上げると、慌ただしく立ち上がって部屋の隅に置いてあった自分の荷物を漁る。
 そしてそこから古びた日記を取り出すと、彼女はそれの表紙を指先でそっとなぞり、ドーヨーへと差し出した。
「これ、親方のものです。ここにドーヨーさんが連行された施設のことが書いてあって、ドーヨーさんを助けることが出来たんです」
「……ああ、確かにダイナリさんの字だね。あの人、強くはねる癖があるからさ。性格と一緒で」
 跳ねっ返り強いもんね。と顔を上げたドーヨーは、目の前で立っている筈のセツを見て目を見開く。
 彼女は、床に額をついて土下座をしていた。
「ちょ、新人ちゃ……」
「親方は私を逃がすために自分自身を囮にされました。謝って済む問題で無いことは重々理解しています。でも、私にはこれしかできません。……本当に、申し訳ありません」
 殴られても、罵倒されても仕方のないことだと思っていた。
 事実、ダイナリは自分のせいで犠牲になったも当然なのだから。
「顔、上げて」
 静かな口調で命じられ、ゆっくりと顔を上げる。
 直後、脳天に拳骨を叩き込まれ、セツはくぐもった悲鳴を上げて床でのたうち回った。
「これ結構痛いなー。新人ちゃん、これでチャラね」
 頭を押さえながら、涙目で見上げるセツに笑いかけ、ドーヨーはダイナリの形見のペンダントを見つめながら、
「ダイナリさんが身を挺して君を助けたのは、君に希望を見いだしたからじゃないかな? 言わば、君はダイナリさんが命を捧げても惜しくない程の人物ってこと。だから、俺は君を責めないし、これからそうするつもりもない」
 そこまで言うと、ドーヨーはベッドから降りてセツと目を合わせる。
 短髪と同じ藤色の目は優しい色で真っ直ぐにセツの視線を捕らえた。
「君は俺たちに罪悪感を感じる必要はないよ。ダイナリさんも、俺も、自分の信念に従って行動しただけだ。それに、終わったことを幾ら悔いても何にもならない」
 一旦言葉を区切り、ドーヨーはそっと目を伏せた。
 その日、五歳になった妹の誕生日ケーキを作るため、ドーヨーは森へ木いちごを摘みに出かけていた。物心付いた頃から遊んでいたその森は、彼の庭と言っても過言では無く、その日も彼はとっておきの穴場で沢山の木いちごを摘んでいた。
 持ってきたカゴがいっぱいになり、ポケットと帽子も木いちごで膨れ上がった頃、ふと顔を上げた彼は町の方から黒い煙が上がっていることに気付いた。
 最初、彼は誰かが町でたき火をしていたのだと思った。けれど、煙は一つではなく、無数に上がっており、不気味にも空を黒く染めていた。
 何かがおかしい。そこで事態の異常性に気付いた彼は、木いちごを摘む手を取め、両手で今日の収穫を抱えながら町へつながる道を歩き始めた。
 その日の収穫は今までで一番であった。きっと、喜ぶ、褒めてもらえる。期待に胸を弾ませる一方で、彼の足は歩きから早足に、そして小走りへと変わっていた。
 町を見下ろせる丘に出たとき、彼の足は完全に動きを止めた。
 そこに、彼の知っている町は無かった。
 瓦礫となった家々。物言わぬ肉袋と化した人々。そしてそれらの命を吸い取っているかのように強く燃えさかる炎。彼が目にした煙は、今まで彼が親しんだものを糧にして立ち上っていたのだ。
 地獄絵図と化した町を歩きながら、彼は自分の家に向かう。見かける人、家は全て破壊されており、以前の面影を留めていなかった。
 そんな地獄絵図のような町を歩き、彼はようやく自分の家にたどり着いた。
 家族は、きっと無事だ。そう思っていた。否、思わずにはいられなかった。だが、町が壊滅しているのに、彼の家族だけが生き残っているわけもなく、彼の家族は燃えさかる家の中で壁の下敷きになっていた。
 そして家族は彼が呆然と見守る中、ゆっくりと焼け死んでいった。
 もしあの時、自分が木いちごを摘みに行かなかったら。家族皆を誘って木いちごを摘みに行っていたら。終わってから考えても、無駄だと理解している。けれど、そう思わない日はない。
「だから、気にしなくて良い」
 それはセツに向けたものなのか。それとも自分へ向けたものなのか。
 過去の記憶を追い払うように首を横に振り、顔を上げた彼は困惑した表情のセツを見て苦笑を漏らす。
 恐らく、言葉の意味は理解しているものの、それでは彼女の気持ちが許さないのであろう。やっぱりそうなっちゃうよなー。おかしそうに笑った彼は、変なところで真面目な後輩の頭に手を置き、
「まー、割り切れないよね。だったら、一つお願いしようかな」
「なんなりと!」
「じゃあさ、コルムナ王を殴ってきてよ。どうせ新人ちゃんもあのままマニャーナ国を放っておくつもりないんでしょ? だったら、そのついでにさ」
「……難易度高いついでですね。でも、うん。私もあのあんちきしょうには借りがありますから。もうぼっこぼこにやってきますよ!」
「はは、野蛮ー!」
 そこで二人は顔を見合わせて笑う。
 話題は決して上品でも、愉快なものでもないが、共通の敵の怒り狂うであろう姿を想像すると笑わずにはいられなかった。
「生き神様……! おられますか!?」
 絶対顔真っ赤にするぞ。無礼者と罵るぞ。怒りで震えるだろうな。コルムナの反応を予想して遊んでいると、妙にせっぱ詰まった女の声が扉の奥から聞こえてきた。
 神だって。と小馬鹿にされ、居心地の悪さを感じながら、どうぞ。と返答すると、砂と血に汚れた一人の女が部屋に転がり込んできた。
「怪我!? 手当しないと」
「いいえ、私は大丈夫です……! それよりも生き神様っ!」
「その神って言うの止めてくれないかな? 何かむずむずする」
「確かに神ではないよねー。あ、疫病神?」
「それ地味に当たっているんですけど」
「そんな場合ではないのです!」
 脱線していると、ぴしゃりと言い止められ、二人は顔を見合わせて舌を出す。
「前線に出られたクサカ様の隊が壊滅的な被害に遭っているのです! 戦力の八割は失われ、応援を呼ぼうにも他の隊も苦戦しており、兵力を割けない状態です! どうか、戦地に赴きください」
「クサカが? それはないでしょうよ。あいつは口も悪いし性格も壊滅的だし、暴力的でどうしようもない奴だけど、腕っ節は強い。例え魔物化した兵が相手でも遅れは取らないよ」
 冷静に返すと、女は呆気にとられたようにセツを眺める。が、直ぐに表情を引き締め、そんなことを言っている場合ではないのです! と強く床を叩いた。
「失礼ですが、貴女様はクサカ様と犬猿の仲とお聞きいたしました。なのに何故そう言い切れるのですか!? 私には、仲の悪いクサカ様など死んでしまっても良いという風に……」
「犬猿の仲だから、だよ」
 冷たい物言いが、喉まで出た女の言葉を凍り付かせる。
「何度も殺されかけた。だから、私はあいつの実力を嫌と言うほど知っている。あいつは強い。あいつが死んでも良いだって? 冗談じゃない。あいつには……」
 そこまで言ってセツは何かに気付いたように不意に口を閉ざす。
「まあ、手伝いには行くけどさ。あいつに借りが作れるし」
 どこか不満げではあるものの、女の頼みを了承したセツは、欠伸をかみ殺しながら頭を掻き、ベッドの脇に置いていた短刀と刀を持つ。
 ここ数日ですっかり馴染んだ得物に僅かに微笑みかけ、出発しよう。と声を掛ける。すると、女は安堵と気まずさが混じった表情でほほえみ返す。しかし、立ち上がった直後、彼女は肩を押さえて再び床へと膝を付く。
 どうやら、女が負った傷は思っているより深いらしい。
「そんな状態じゃあ、案内なんて出来ないんじゃないのー?」
「……そう、みたいですね。ですが、私の他にも案内が出来る者はいます。生き神様、ヒージョを案内につけます。まだ幼いですが、ササの土地勘は持っていますので。……お願いです。ササの民を救ってください」
 女の後ろには、いつからいたのか、ナイフと弓で武装した少年がいた。それは朝からセツ達の身の回りの世話をしてくれた少年で、ドーヨーは顔をしかめ、セツは驚いたような表情を見せる。
 早速案内を始めるヒージョに、のこのことついて行くセツの腕を掴み、ドーヨーは危険かもよ。と囁く。が、当の本人は「何がです?」と緊張感の無い笑みで返すだけであった。
 心配するドーヨーを余所に、セツは刀を肩に担ぐと、大丈夫ですって。と妙に自身に満ちあふれた表情で笑いかけ、これをどうぞ。と紐が通った半透明の石を手渡した。
 ドーヨーの手の中で転がるそれは、輝石の光を受けて七色の光を放っていた。
「お守りです。私だと思って大事に……」
「……捨てよっかなー」
「ちょっと! 作るの苦労したんですから、大事にしてやってくださいよ!」
 投げるまねをすると、粟を食ったように驚くセツに嘘だよと笑いかけ、もらった石を首からかける。ダイナリの形見のペンダントと並ぶ石は、より輝きを増したように見え、セツはそれを見てうれしそうに微笑み、待ちくたびれたヒージョの元へ駆け寄る。
「ドーヨーさん、行ってきます」
 それは自然な、ごく自然な挨拶。
 けれど、ドーヨーはもう二度とセツに会えないような悪い予感を感じた。

 ・

 砂漠の地下都市、ササには蜘蛛の巣状に広がった地下道がある。
 砂漠を歩くよりも安全で、なおかつ気候や砂嵐の影響を受けない地下道は、ササの民に重宝されており、年月がたつにつれて新しい道が作られ、すべての地下道を覚えているものは誰もいない程になっていた。
 その莫大な地下道の一本をセツは物言わぬヒージョと共に歩いていた。
 ササを出てから既に半時間は経っているが、ヒージョは一向に喋らない。また、セツも何か悪いことしたか? と考えるも、特に思い当たる節もないため、ただ単にそういう性格なのだな。と納得して、こちらから話しかけることもなかった。
 何度目かの分岐路で、ヒージョはランタンを掲げて立ち止まる。どうやら地下道の天井に備え付けられた案内板を見ているようだ。
 しばらく案内板を見た後、ヒージョはランタンを下げて再び暗い道を歩き始める。その際に、セツは薄暗い通路の壁に見覚えのある印を見かけた。が、それが何なのか認識する間も無く明かりが移動を始めたので、慌ててヒージョの後に続く。
 比較的近くで聞こえる雑音を聞きながらヒージョの後に続いていると、それまで頑なに口を閉ざしていたヒージョがようやく言葉を発した。
「生き神様は、人を殺したことがあるの?」
「その呼び名止めてくんないかなー……。居心地悪いんだよ。セツでいいよ」
「セツ……さん」
「……まだむず痒いけど、まあ良いか。うん。あるよ」
「後悔した?」
「そりゃあね。好き好んでやっている訳じゃないから」
「今でも思う?」
「その時はそうしなきゃいけなかったし、それをしないって選択肢が、その時頭に無かったからなぁ。でも、今思えば、それが正しかったんだと思う」
 無数の足音が聞こえてきた。それと同時に、風の吹き抜ける音と、水音も。
「……兄弟は?」
「両親と、弟がいる。血は繋がってないけど」
 それどころか種族も違うけどな。心中でそう追加すると、ヒージョはこちらを振り向いて意外そうに薄紫の目を見開く。
「血が繋がっていない? 他人?」
「まあ、ばっさり言うとそうだね。でも、気にするものでもないでしょ。血が繋がっていようとなかろうと、家族は家族だし。大事って気持ちに変わりはない。何を犠牲にしても守ってみせる。そう思うよ」
 かさかさと、無数の足音が聞こえ、ランタンの光を一つの人影が横切った。
 やがて二人は薄暗い通路を抜け、縦穴のカレーズへと出た。遙か頭上から射し込む陽に照らされ、きらきらと光を受けて輝く水を見て、セツはほっと息を吐き、
「だから、君たちの気持ちも分かっているつもりだよ」
 気配を殺し、背後から腰に切りかかってきた刺客を紙一重でかわして、まだ細い腕をねじり上げる。
 まだ年若い刺客は、任務を失敗したこと。そしてぎりぎりと締め上げられる腕の痛みにかみ殺した悲鳴を上げ、忌々しげにセツを見上げる。
 そうする内に次々にカレーズに繋がっている地下道からまだ幼い子ども達が現れ、ヒージョを中心としてセツを取り囲む。
 それらは皆褐色の肌と色素の薄い髪をしていた。それはすなわち、彼らがササの子どもであるという証明である。
「戦争か、私を引き渡すか。どっちの方がリスクが低いかなんて、子どもでも分かるよね。ウリハリも馬鹿だなあ」
「ウリハリ様を悪く言うな!」
「うお、怖いな。でも、君たちの父親、兄を戦場に駆り出したのは紛れもなくウリハリだよ。安全策を放り出して、デメリットしかない選択肢を選んだ。馬鹿以外の何物でもないだろ? 現に君たちはウリハリのその判断が間違っていると思って、私を始末しようとしたんだからさ。年の離れたお姉さんまで利用して、さ」
 ことごとく自分たちの作戦がばれていたことに、彼らは唇を噛むことしかできない。
「どこで気付いた……?」
「あのお姉さんの血、獣の臭いがしたからね。家畜の血でも浴びたんでしょ? それに、彼女は綺麗な手足をしていた。戦に行った者があんな綺麗な体な訳がない。大体、戦場に向かったのは男ばかりじゃないか。女の、それも年若いあの子が戦場に行っていただなんて、どう考えてもおかしい」
 詰めが甘かったね。どんまい。笑って言ってのけ、セツは捕まえていた少年を解放し、ヒージョの方へと引き渡す。
 腕をかばう少年を背にかくまうと、ヒージョは持ってきた短刀を抜いて構える。それが合図であったかのようにそれぞれ武器を構える幼き戦士を見たセツは、頼もしいね、と静かに呟き、腕を組んで彼らを眺める。
「分かっていたのにどうして来た?」
「期待には応えないと駄目でしょ」
「ふざけるな!」
「それはこっちの台詞だ」
 ヒージョが声を荒げた途端、セツを中心として結晶化した結界が地を這い、壁、地面を覆う。
 初めて目の当たりにするセツの能力に、大多数の子ども達は恐怖から腰を抜かし、結晶に覆われた地面に座り込んだ。
「あんた達に私の誘拐を唆した奴は誰か、大体の想定は付いている。奴らがどれだけ危険か、あんた達は理解していない。」
「うるさい、黙れ!」
 ゴポ、と大きな水泡が割れる音がして、カレーズ内の空気が変わる。
 嫌な予感がして、セツは子ども達に今すぐこの場から立ち去るように告げた。が、突然逃げろと言われても、素直に従う者は誰もおらず。また皮肉なことにセツの能力に驚いた子ども達は立ち上がることすらまだ出来ない状態であった。
 忌々しげに舌打ちをし、指を鳴らして結界を消したセツはまだ動けない子ども達の首根っこを掴み、カレーズから離れた地下道へと放り込んでいく。
 謀反を企てたとて、やはり子どもは子ども。放り投げた途端、ぎゃあぎゃあ悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく子ども達を見送りながら、セツはカレーズの側でうずくまっている少女に手を伸ばす。
 直後、どん。と誰かにぶつかられた。それを気にすることなく少女の首根っこを今までと同じように掴み、地下道へと投げる。が、何故か力が上手く入らず、少女はセツの一メートル程前で落下する。
 そこで、ぶつかった背中が妙に痛むことに気付いたセツは、何の気なしに背中に手を伸ばす。そこで背中に妙な凹凸があることに気付いたセツは、やっと自分の身に何が起こったのかを理解し、大きくため息を吐きながら自分の隣にいるヒージョを見た。
 それまで仏頂面だったヒージョは、額に脂汗を一杯浮かべて、震える自分の手を見つめて固まっていた。その手には今まで握っていた短刀はなく、かわりに居場所をセツの背中に変えていた。
「……ヒージョ」
「ひっ!」
 ここで自分のしたことの重大さに気付いたヒージョは、ごめんなさいと何度も謝りながら後ずさる。
 目を泳がせ、その目から大粒の涙を流すただの少年の腕を捕まえ、セツは彼の涙を乱暴に拭う。
「別に謝ることはないよ。仕方のない事。君はいきなり暴れ始めた私を刺した。間違っていない」
 そこでセツは背中に刺さった短刀を無理矢理引き抜く。鉛が身の中で動くのはやはりいつまで経っても慣れず、今にも飛びそうな意識と、反対に飛び出ようとする吐瀉物を賢明に押さえながら、セツはなるべく笑顔を心がけてヒージョに血に塗れた短刀を手渡した。
 セツの血で塗れた短刀は、ぬらぬらと赤黒い不気味な輝きを放っており、ヒージョは思わずそれを放り投げようとする。慌ててその手を押さえながら、セツはヒージョの目を見て話しかける。
「良いか、ササに帰ったら私がさっき言ったことをそのまま報告するんだ。君は暴れ出した私を止めようと、刺しただけだ。そして、哀れな裏切り者のシキはサイへと下った。ああ、あとあいつは頭がいかれている。これを付け足しておいて。これ重要だからな! それじゃ、案内ありがとうね。さようなら」
 水泡が弾ける音が更に大きくなり、それに比例するようにしてセツの焦りも増す。そしてまだ動揺が抜けきらないヒージョと、近くで泣きじゃくり少女を掴み、セツは渾身の力で彼らを地下道へと放り投げた。
 直後、底の見えないカレーズの底から巨大なトカゲに似た生物が現れ、地面で膝を付いていたセツを一口で飲み込んだ。
 声を上げる間もなくセツはその巨大な口に収まり、その生物もまた声を上げずにカレーズに潜り、そしてそのまま戻ってくることはなかった。


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