55
「……不味いな」
 研究施設の頂上。
 ミズシの腐食性の毒で至るところが爛れた室内で、ココーは大して焦る様子もなく呟いた。
 彼にしては十分焦っているのだが、いかんせん表情に乏しいため、端から見ていては本当に不味い状態なのかと疑わしく思うほどである。暫く考えるような素振りを見せた後、彼は室内中央の、セツが落とされた場所に近付く。
「あんたさー、普通放っていく? 大丈夫なの?」
「急用が出来た」
「へえ、俺を殺すよりも大事なの?」
 仕掛け扉があった床を靴底で叩くココーを見ながら、壁にめり込むようにして崩れ落ちているミズシは、いつもの調子で軽く尋ねる。
 口調こそ軽いものの、今の彼は全身傷だらけで、立つことすらままならない。けれど軽口を叩くのは、彼の自尊心がまだ残っているからであろう。
 確かに空洞があることを確認したココーは静かに床に膝を付けると、手をそっと床に這わす。
 直後、彼の目が赤く光り、同時にココーの体を赤黒い光が纏う。
 ーーさすがに三宝随一の力を持つ鍵だな。勝てねえや。
 動く気力もないまま、ただココーを眺めるミズシに、ココーは彼の方を一切見ずにこう告げた。
「殺すことは別に大事ではない。少なくとも、俺には」
「っは、強者の余裕だねー」
「……開け」
 自嘲気味に呟くミズシの前で、ココーの足下の床がゆっくりと開いていく。振り向きも、勝ち誇った台詞も無く、ただ目的のみを追って去っていく彼の後ろ姿を見ながら、ミズシは疲れたように、格好いいね。と呟いた。

 ・

 黴臭く、薄暗い部屋。どこかで水漏れがあるのだろう。一定のリズムで水滴が石畳を叩く軽い音が響く。
 此処に入れられて、何日が経過したのだろう。弱りきった頭では答えを出すのにしばらくの時間を要した。ああ、そうだ一ヶ月だ。足下の板に刻まれた線の数を数えて納得する。
 当初奴らは独房にぶちこむだけで満足していたようだが、此方の態度が一向に変わらぬと分かると、度々拷問にかけたり、拘束してみたりとあの手この手で攻め立ててきた。
 同じく反抗的な態度を取っていた同士も居たが、どうしているだろうか? 上手く免れたとは聞いたが、心配だ。
 その先に行き着いたのが今の格好。天井から首輪と手枷で吊されている形だ。
 手枷と首輪の鎖は繋がっているようで、膝を付けようとすると首が引っ張られるという、何とも嫌な長さで調節されている。おかげで満足に眠ることすら出来ない。
 長らくの間この形でいるため、体はすっかり疲弊している。今解放されたところで走ることすらままならないのは自分でも分かっている。それどころか命が尽きるのも時間の問題だろう。
 だが、ここで屈するわけにはいかない。我が種族にかけても、屈するわけにはいかないのだ。
 ーーコツコツ
 うとうとと眠っていると石畳を叩く音がしてきた。
 途端、全身の毛が逆立ち、背筋に冷たいものが走る。急激にクリアになった意識の中、足音の数を確認する。……どうやら今回は一つのようだ。
 恐らく、この足音は常にアルティフと行動を共にする忠臣、いけ好かないココーだろう。暴力的でコミュニケーションの一つも持ち合わせていないあの男の顔を想像するだけで虫唾が走る。
 やがて、鉄製の戸が重苦しい音を立てて内側に開けられる。
 やはり、開いた戸の向こうに立っていたのは、赤い目をした男、ココーであった。
 ココーは何も言わずに室内に入ると、遠く離れたテーブルに持ってきたトレイを置く。トレイにはスープとパンが乗っている。
「食え」
 明らかに届かない場所に置いておいて、この男は馬鹿な事をのたまう。だが、この男はわざとしている訳ではない。此方の返答を知っているからこんな馬鹿げたことを言うのだ。
「そんな毒が入っているかもしれない代物、誰が食うかよ」
 嘲りながら当たり前の事を告げると、なんとココーは此方を睨みつけてからスープとパンを自分の口に運んだ。この行為には驚いたが、どうやら、毒は入っていないというアピールらしい。
「遅効性かもしれないだろ。あんたが後で吐くって言う可能性だってあるんだ。いい加減学習しろよ。何をしたってあんた達からの物なんて受け入れない」
 何時だったか、余りに食物を口にしないことに腹を立てたアルティフが、液体と混ぜ、細かく砕いた食物ーー流動食を漏斗で無理矢理流し込んできたことがあった。
 長らく食べ物を口にしていなかったため、消化吸収の面を考えれば良い手だと考えられるだろう。しかし、此方は食べ物の摂取を拒否している上、勢いよく流し込まれればある現象が発生する。そう、嘔吐だ。
 しかも並の嘔吐ではない。流し込まれる量が多いことに加え、速度もある。結果、噴水のごとく口から噴出された吐瀉物は、流し込んだ本人のココーでは飽きたらず、側で見ていたアルティフにも雨のごとく降り注いだ。
 その時の二人の表情と言ったら傑作なものだった。今思い出しても愉快な気持ちになる。もっとも、その後、それまでとは比べものにならないほどの折檻を食らったわけだが。
 とにかく、それから後、学習したであろう二人は流動食を運んでくることはなくなった。恐らく二人とも参ったのだろう。
「している」
「……何がだよ」
 何故か運んできた食事を黙々と食べ始めたココーは主語が欠けた、全く持って分からない発言をする。ココーは大抵黙って暴力を振るうのだが、ここ最近アルティフの居ないときには喋るようになってきた。しかし、どうも主語が欠けているため、意味が分かり辛い。
 此方としてはとっとと出て行って、願わくば二度と顔を見たくないのだが、ココーは尚も椅子にどっかりと腰を下ろして、最早誰の物か定かではない食事を食べ続ける。
 本当に、早く出て行けよ。
「別に目の前で食べられたからって欲しいとは思わないからな。こっちはあんたの顔も見たくないんだ。とっとと出てけ」
 ジロリと感情のない赤い目が睨みつける。臙脂色の鋭い目。いつも此方を見下しながら、アルティフの傀儡となり、罪もない人々を痛みつける、嫌な目だ。
 視線を逸らさぬまま、無言でココーが立ち上がり、近付く。
 不覚にも体に染み着いた奴への恐怖が、身を強ばらせる。情けない。こんな奴に、こんな奴にっ!
「今日、死んでもらう」
 長身のココーは近くに来られると、見上げなければ目を合わすことが出来ない。
 見上げながら、思ってもない宣言に、思わず笑みが浮かぶ。
「へぇ、そりゃあ願ってもない事だ。こんな体にされてほとほと嫌気が差していたんだ。あんたとも、あの爺さんとも今日限りでお別れとは、うれしい限りだね」
 やっと巡ってきた自由。同士の彼女には悪いが、このまま地獄のような生活を送るならば、死んだ方がマシだ。
 言い方が爵に障ったのか、ココーは乱暴に首輪に繋がれた鎖を掴み上げる。威圧的な目で睨まれるが、自由を目の前にした今、恐れる物など何もない。イタチっ屁だと唾を吐きかけると、ココーは開いた手で平手打ちをしてきた。
「っこの……!」
 罵倒しようと口を開いた直後、開けたばかりの口に、噛みつかれた。
 突拍子もない行動に、頭の中が真っ白になる。
 どろりと生暖かいものが喉をすり抜けた頃、ようやく起動し始めた頭は、ココーがまるで母親が子どもに口移しで食事を与えるように、此方に強制的に食物を摂取させたのだと理解した。
 その舌を噛み千切ってやろうと思い切り歯を閉じるも、間一髪の所で逃げられてしまう。くそったれ。
「ってめぇ! 何すんだ!!」
「食わせただけだ」
「ふざけんな! 口の中生臭ぇんだよ! くそ、汚ぇ!!」
「水分量が少ないから、吐きたくても吐けないだろ?」
「だあってろ!!」
 悔しいことにココーの言う通り胃の中に入ったものは出て来てくれない。最後の最期にこんな屈辱を味わわされる等、思ってもみなかった。
「ほほほ、随分楽しそうだねぇ」
「ふざけんな、じじい!!」
 咳込んでいると何とも最低のタイミングでやってきたアルティフが至極楽しそうに笑っていた。
 最悪だ。本当に最悪だ。
「ココーに聞いたと思うが、君は今日、死んでもらう」
「知っているよ。ならとっとと殺せ。ほら、早くサクッと殺れよ」
「いや、これほどまで私達の手を煩わせてくれた君をそんな簡単に殺しはしないさ。君には時間を掛け、ゆっくり、着実に死んでもらわねばならない。それに、君が継いだ遺伝子は貴重だからね」
 眼鏡の奥の栗色の目を細め、アルティフは、否、人の姿をした悪魔は嘲う。
 嫌な予感がした。ここでこのままこいつを逃すわけにはいかない。散漫になりつつある集中力を極限まで高め、狙いをアルティフに向ける。
 悔しいが、人ならざる体になったおかげで、この状態でもアルティフの息の根を止めることは出来る。
「お前……何をした……!?」
 しかし、四肢が、頭が痺れるような不快な感覚が全身を襲う。呂律すら怪しくなってきた時に、気付いた。ココーに含まされた物の中に、体の自由を奪うような毒物が入っていたのだと。
「ココーの運んだ料理には毒は入っていない。現に彼は何ともなっていないだろう? 原因は君だよ、料理の中には飢餓状態に摂取すると、体の機能を少し害するスパイスが入っていただけだ。恨むのなら、日頃の行いを恨むのだね」
 くそったれ。
 もはや悪態を吐くことすらかなわぬこの体。思考すら危うくなる中、ぼんやりと故郷、家族、そして同士の彼女の姿が浮かぶ。ああ、このまま死んでしまうなら、せめて最後に彼女に会いたかった……。
 かすみ始めた意識の中、アルティフは死に等しい宣告をする。
「まずは、手始めに君の目の前で君の村を焼こうか」
 途端、意識が、体が、覚醒する。
 厳格な父、そんな父を陰ながら支え、太陽のように家族を照らす母、喧嘩が多いが、仲のよい兄弟、いつも行動を共にした犬、お裾分けをくれた近所の人、馬鹿騒ぎをする友人……。
 彼らが、もはや自分とは遠い存在になってしまったとはいえ、かけがえのない時を過ごした仲間達が、村が、今までの歴史が、消えてしまう。許されるものか。そのような所行、許してなるものか!!
「やれよ。出来るもんならな。ただし、そんな真似をしてみろ。例えこの身が朽ちていようと、動かなくとも、必ず止めてみせる」
「やるさ。いくら吠えようとも、死んだら何もできないけれどね」
「出来るさ。やってやる。冥府に落ちようとも、必ず舞い戻って村人に手を出したもの、一人残らず追いつめて、喉笛を切り裂いてやる。ははは、科学者よぉ、あんたが思っているより、人の思いっていうのは強いんだよ」
 ハハハ! と狂ったように笑う。狂ったように、ではない。実際に狂っているのだ。
 軽蔑したように見下ろすアルティフを嘲り、最後に言葉を口にする。恐らく、これで喋ることはおろか、動くことすら出来なくなるだろう。
 しかし、言わねばならない。例え口にすれば後戻りが出来なくなる禁忌の言葉でも。でなければ、この約束は成り立たない。
「死ね」
 そしてその日、燃えさかる故郷の村を前にして、私は、死んだーー。

 ・

「何か、変な音しない?」
「何か、じゃなくてしてんだよ、タコスケ」
「うっわ、クサカ何その口の悪さ。聞いただけなのに、何でそんなに罵倒されなきゃならないのー」
「うっせー、ハゲ」
「ハ!? クサカもう一度チャンスやる。なんて言った?」
「ハ、ゲ」
「禿げてなんかいないやい! 好きで禿げたわけじゃないやい!!」
「どっちだよ」
「黙れ阿呆二人」
 階段が誘う最深部で、地下を目指した三人は巨大な鋼鉄の扉の前で、やいのやいのと言い争っていた。
 開けようとケミが力任せに殴ったものの、十メートル近くある鋼鉄の扉を開けることは叶わなかった。こういった扉開けはケミが担当であった為、ケミの牙城が崩された今、早くも為す術の無くなった三人は、魔物の死骸が山と重なる地下で、時間を弄ぶことしか出来ないでいた。
「奥に……四人、いや、五人? 駄目、この扉が邪魔で感知出来ない。ただ、その中の一人が凄い勢いで能力を作動させている。てか、作動と言うより暴走に近い形ね」
「それに似た現象って経験したことは?」
「……リグ村の悪夢」
「うわぁ、不味いってレベルの話じゃないなー」
 忘れもしない。あれはまだ皆がアルティフに従い、研究施設で生きていたときの事。小さな村を襲撃した際に、当時調整中であったシキの一体が暴走した。
 只でさえ厄介な能力に加え、その厄介な能力が制御されない状態で猛威を振るう。結果、その日行軍したシキの軍勢はほぼ壊滅。残された生存者は口を揃えて言ったという。「あれは、醒めても続く悪夢だ」と。
「リグ級の暴走ってなると、中にいる奴只じゃ澄まないだろー。なあ、暴走しているのってやっぱり……」
「お察しの通り、セツ、ね」
「やっぱりかよ。クソ、次から次へと厄介事作りやがって。なあ、ケミ」
「分かってる。上から、恐らくあの人も降りてきている。今ならまだ暴走は止められる。二人とも、下がってて」
 言うや否やケミの体が紅色の光に包まれる。しかし、その光は今までのものと比べものにならないほど濃く、中心にいるケミが見えなくなるほどのものであった。
 光はうねうねと生き物のように広がって行き、地下通路を不気味に照らす。波打つ光の中、下がったクサカとクロハエは何も言わずにケミ、を見つめる。
「やっぱり、古代種はスケールが違うね、圧巻だなー」
 光が収まると同時に、ほれぼれと呟いたクロハエの前方で、ケミは静かな雄叫びを上げ、古代の遺伝子が組み込まれたその巨体を扉にぶつけた。

 ・

 ハクマは精鋭揃いのフラウデの中でも、最も優秀なサイであった。
 能力、戦闘力で彼女の前に出る者はおらず、加えて極めて忠信が厚いため、ボルヴィン、ヴィヴォ共に幹部の信頼を得ていた。
 今までの任務でも一切失敗したことはなく、彼女の人生は彼女の出生以外では何も問題のないものであった。……つい、先ほどまでは。
「ハ、ハクマ!?」
 しかし今、彼女は初めて敗北を味わっていた。
 氷柱を弾き返され、氷柱に隠れるようにして迫った一撃をまともに受けた彼女は、壁に強く叩きつけられ、そのまま床に落ちる。
 ヴィヴォの情けない悲鳴に顔を上げるも、すぐそこに敵ーーセツは迫っており、反撃する機会も無いまま、ただ繰り返される猛攻を防ぐのみ。
 氷結樹の能力で氷の盾を作り、それで猛攻を防ぐハクマだが、完全に暴走してしまっているセツの猛攻を防ぎきることは出来なかった。キインと儚い音を立て、氷の盾は脆く崩れ去る。
「……おの、れ」
 彼女なりの精一杯の悔しさの言葉の直後、振り上げられた右手がハクマの体を捻りつぶした。
 ーーォオオオオオ!!
 動かなくなったハクマを前に、セツは、否、セツだったものは獣じみた咆哮を上げる。
 爛々と輝く目は真珠色の光を放ち、四肢は肥大化し、指とおぼしき場所には指と一体化した鋭い爪がある。そして口は耳まで裂け、暗い口腔内には鋭い牙が覗いている。尾を垂らしながら咆哮を上げ続ける、結晶を含んだ蔓に覆われたその姿に、セツの面影はもはや、ない。
「そんな、まさか箱の暴走がこれほどまでに危険だなんて! くそ、ハクマめ、足止めすら出来ないなんて、あの役立たず! ……そうだ、あいつを利用すれば」
 倒れたハクマに追撃をするセツを警戒しながら、取り残されたヴィヴォはじりじりと奥に座ったままのドーヨーに近付こうとする。
 慎重に、慎重に悟られぬよう、気付かれぬよう歩を進める。よし、もうたどり着く。そう息を吐いたときであった。獣と化したセツが勢いよく彼に振り返ったのは。
 うなり声を上げ、セツは四つん這いでヴィヴォとの距離を詰める。
 その一歩は速くなく、むしろゆっくりである。しかし、まるでヴィヴォが怯える姿を楽しんでいるかのように緩慢であり、それが故に彼の恐怖をますます掻き立てる。
「ななな、何だ。おい君、仮に君がそのような醜い姿になったとして……」
 恐怖の中に残った僅かな自尊心を駆り立て、何とか対等に事を運ぼうとするが、それはセツの一度の咆哮で空しく消え去ってしまう。さらにその咆哮と同時に、一瞬にして室内に結界が至る所に結晶化して現れる。
「ひいっ!! おっおい、ハクマ!! 何を寝ているんだ、この役立たず!」
 持っていた書類に顔を隠しながら、無様に怒鳴るヴィヴォだが、横たわったままのハクマからの返事はない。
 真珠色の結晶に支配された室内で、賢明に状況を打破出来る策を練る。
 箱は暴走すると通常以上の能力を発揮する。それは残された文献を読んで理解していた。理解しているからこそ、その暴走とやらがどれほどのものか見てみたく思い、わざわざハクマに死体の一部を回収させたのだ。
 結果、師の体の一部を見、かつそれを侮辱された箱は怒り狂い、能力の過剰作動ーー暴走を引き起こした。ここまではヴィヴォの計算通りであった。しかし、彼は箱を、セツを、聖戦に終止符を打ったサイの実力を侮っていた。
 結果、頼みの綱であったハクマは容易く打ちのめされ、自分は生を求めて逃げまどうという、最低最悪の結果になってしまった。
「おい、それ以上近付くな、この化け物! そ、それ以上近付くと、この男をお前と同じ化け物に変えるぞ!」
 屈辱に怒りで顔を染めながら、ヴィヴォは液体の入った注射器をドーヨーの首元に押し当てた。ツウと、虚ろな目のドーヨーの首筋から、血が流れた。
 荒い息のまま、セツを睨みつける。
 驚いたことに、セツはヴィヴォの言葉を聞き分けたのか、ゆっくりと勧めていた歩を止め、真珠色の目でただ彼を見据える。
「は、はは、言葉は分かるんだな。よし、いい子だ。お前さえ利口にしていれば……」
「……アッケイノオ」
 成功だと高笑いをする最中、それまで咆哮を上げるしか機能していなかった口から、言葉らしきものが発されたのは。
 高揚感が、一転して絶望に変わる。
 言葉の意味は理解できなかったが、その雰囲気から友好的なものでないと言うことだけは理解できた。
 賢明に翻訳しようとするヴィヴォだが、悲しいかな彼の天才的な頭脳でさえ、この世に存在しないとされる地ーーノシドの言葉は理解できなかった。
「アネザホクバリトノフ」
 ジャリ
 瓦礫を踏みつけ、セツが一歩前に出る。
「や、止めろ、来るな! この注射器が目に入らないのか!? これには濃縮された魔物の遺伝子が入っているんだ! 打たれれば、間違いなくサイのようにはなれない! 理性も、思考もない、ただの下級の魔物になるんだぞ!」
 うわずった声で脅しをかけるが、セツの歩は止まらない。
「分かっているのか!!」
 怒鳴ると同時に、セツが短く吠えた。
 直後、セツの手からヴィヴォの手まで、一直線に結界が霜柱のように走る。それに対し、ヴィヴォは声にならない叫びを上げながら、身を縮こませ、ダンゴムシのように無様に床に転がることしかできなかった。
 ドーヨーと距離を開けさせるかのように、地面から生えた結晶化した結界を見ながら、ヴィヴォは自分の下半身がじっとりと、なま暖かく濡れていくのを感じた。
 最早打つ手なし。
 死に怯えるのみのヴィヴォの前に、化け物と化したセツが憮然として立つ。
 そして、床に付けられていた手がゆっくりと離され、拳を握る。
「顔は、顔は止めてくれ……顔だけは……」
 放心したように何度も何度も乞うヴィヴォを見下ろし、握られた拳がゆっくりと引かれ、振り下ろされる……!
「止めておけ」
 しかし、その手は不意に訪れた者の声によって止められた。


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