ーーやっと、やっと見つけた。
ダイナリの最期の願いであるドーヨーを見つけ、セツの脳内から警戒の意識が消え失せる。
『あいつを、助けてやってくれ』
ダイナリの笑顔が脳裏に浮かび、つい目頭が熱くなる。
低く保っていた姿勢から、膝を伸ばし、セツはドーヨーの元へ駆け寄る。今は一刻も早くドーヨーの無事を確かめたかった。ただ、それだけが頭にあったのだ。
『敵、攻撃、来ます』
しかし、その試みも、ハクマの無慈悲な攻撃で阻まれてしまう。
タシャの警告で咄嗟に横に飛び跳ねたセツは、ハクマの氷柱による攻撃を回避することが出来た。しかし、ここで新たな問題が発生する。ハクマが此処にいては迂闊にドーヨーに近づくことが出来ない。
彼女の攻撃でドーヨーに近づくことは勿論困難だが、運良くドーヨーに近づけたとしても、ドーヨー諸共攻撃されることも、それ以前に、ドーヨーがハクマに攻撃されることも十分に考えられる。
ーーなら、やることは一つだ。
そっと目を伏せ、抜刀する。
ドーヨーも、自分も狙われる。二人が安全にここから抜け出すために、最も簡単な対処法はハクマを倒すことだと判断したからだ。
『無謀です。能力値が完全に戻っていない上、敵の能力値は未知数です。99%の確率で敗北します』
「なら、その1%にかけるまでさ」
タシャの警告もそこそこに、セツはまだ土煙に隠れているハクマに向かって走り出す。
土煙に飛び込んですぐに氷柱がセツの顔めがけて飛来する。それを最小限の動きで避け、下から刀を振り上げる。
僅かだが、刃先に引っかかるような手応えがあった。肉を裂くような感覚ではなかった為、恐らくローブに引っかかったのだろう。
体勢を整え、再度ハクマを追うようにして土煙の中へと飛び込む。そこでようやく、ハクマの姿を捕らえることが出来た。
体を仰け反るようにして、ハクマは後ろへ飛び退くところであった。よくよく見ると、彼女のローブの裾は大きく裂かれ、下の簡易な軽装が覗いている。
攻撃が効いていることを目視したセツは、今が好機とばかりにハクマに密着するようにして前方に飛び出す。そしてハクマが指先から生み出した小さな氷柱を頬に掠らせながらも、横一文字に刀を抜き、ハクマの胴体に切りつけた。
ピピとハクマの血がセツの顔に降りかかる。
冷静沈着のハクマも、腹部を裂かれてはたまらない。負傷箇所に手を当て、ゆっくりと崩れ落ちる。そんなハクマを姿を確認したセツの顔に、僅かに笑みが浮かぶ。
「これで、終わりだ」
セツの体が淡く光り、その光はハクマに向けられた左手に集まる。能力を発動させていることに気付いたハクマは弾かれたように顔を上げるが、時既に遅し。
ハクマが顔を上げた直後、セツの左手から真珠色のまばゆい光が放たれた。真珠色の光はハクマを飲み込むように包み込み、彼女を覆った光はすぐさま強固な結界に姿を変える。完全に、ハクマは結界の中に閉じこめられたのである。
勝利の喜びもそこそこに、奥の部屋に目を向けたセツは、心のままに弾かれたように走り出す。ハクマの攻撃で新たに生まれた頬の切り傷から流れる血を乱暴に拭い、セツはようやく兄弟子と再会する。
目を開けないドーヨーに、死んでいるのではないかといやな想像が脳裏を過ぎるが、彼の胸が一定のリズムで上下していたため、ほっと胸をなで下ろす。
「ドーヨーさん」
震えた声で、兄弟子の名を呼ぶ。
反応は、まだ無い。何度か彼の名を呼ぶも、一向に反応がない為、セツは先にドーヨーの身を拘束している皮のベルトを切り裂く事にした。
「新入りちゃん……?」
両手と左足の皮のベルトを切断した時、ドーヨーが弱々しい声でセツの愛称を口にする。決して長い間離れていた訳ではないのに、その愛称が非常に懐かしく、愛しいものに思えて、セツは心がむずがゆいような、奇妙な感覚に襲われた。
「はい、はい! そうです! 待っていてくださいね。胴体と、右足も、もうすぐ外しますから」
「何をしにきたの?」
すっかり浮かれているセツに対し、ドーヨーは突き放すような、今まで聞いたことの無い冷たい声で尋ねる。
あまりに冷たい物言いに、思考が、動きが止まる。
「今更何をしに来たの? どの面を下げて俺に会ってるの? 新人ちゃん、君が来てからオレとダイナリさんの計画は崩れた。調子よくあの国を崩す裁断が整っていたのにさ。最初はさ、君が王子とつるむようになったから、オレたちは目を掛けられたと思っていたよ。けど、違うんだよね」
いつもゆるんだ笑みを浮かべていたドーヨー。しかし、今、彼の表情には微笑みの片鱗すらない。
髪と同じ薄墨色の目は、深い深い憎しみと絶望、そして嫌悪感がありありと浮かんでいる。その目を、セツは過去に何度となく見たことがあった。
それは、人が自分たちシキに、魔物に向ける……、
「君が化け物だからだ」
裏表のない、シンプルな言葉。単純な否定の言葉。
口にした人が慕っていた者だから故、それは単純ながらも、セツの心を容易に貫いた。
「聞いたよ。君は聖戦時代に生きていたんだってね。しかもかの英雄、インフィニダを手に掛けた張本人だと。フラウデの連中は君を血眼になって探していたらしいよ。そんな折りに自分たちの縄張りに君がやってきたんだ。そりゃあ、オレたち庭師の監視もきつくなるよ。ねえ、オレたちを巻き込んで、楽しかったかい? ねぇ、裏切り者の英雄殺しさん?」
「そんな、私のせいで……」
「そうだよ、君のせいでオレたちはこうなったんだ」
自分の存在は全てサイであるフラウデに筒抜けだった。
そのため、庭師は目を付けられ、結果的にダイナリ達の思惑が怪しまれ、ドーヨーは連行、ダイナリは城の地下にて消息不明という、最悪の事態になった。
ーー全部自分の、せいで。
足に力が入らなくなり、セツは力なく地面へと崩れ落ちる。
「どうせ君はオレを助けに来たとか、正義の真似事をしているんだろうけど、そんなの必要ない。自分たちを貶めた化け物に助けられるなら、死んだ方がましだ」
トドメとばかりに突きつけられた言葉の数々。
もはや、自分の言葉はドーヨーに届かない。自分はマニャーナ国に居た時点で、彼らの人生の大きな障害になっていた。心をへし折られ、事実を目の当たりにしたセツは今や、言葉を失い、ただ頭をたれることしか出来ない。
「もう放っておいてくれ。君の顔を見れば嫌な気持ちになるんだ」
体が、心が冷え切っていく。
急激な室内の冷え込みにタシャが警報を上げたとき、背後で硝子が砕けるような音がした。それは、ハクマが氷結樹の能力でセツの結界を砕いた音であった。
しかし、身の危険が迫っていると分かっていても、セツは動こうとしなかった。否、動けないのだ。
新たな氷柱が生み出され、真っ直ぐにセツめがけて飛来する。しかし、それはセツに当たる前に、タシャがセツの体を操作して生み出した結界に阻まれる。
軽い音を立てて結界により、砕け散った氷柱を眺めるドーヨーの前で、セツは力なく立ち上がり、
「私は、ドーヨーさんの言う通り化け物かもしれない。でも、化け物だからこそ、果たせる約束があるんです」
次いで飛んできた氷柱を、今度はタシャではなく、セツが結界で阻む。
「私の罪は謝る事ぐらいでは済まされない。それは、今も昔も変わらない。ドーヨーさんは私に助けられることを心底嫌がっていても、私はそれを止めない。止められない。これは、親方に託された約束だから!」
ドーヨーに存在を否定された今、彼女を支えるのはダイナリと交わした約束だけであった。
ドーヨーに背を向け、セツは結界を完全に破壊したハクマに向かって抜刀する。今度はハクマも丸腰ではなく、剣を抜いていたため、セツの攻撃は容易く防がれた。
「……調子に乗るな」
低い声と共に、体勢を整えようとしていたセツの腹部に衝撃が走る。メキメキと背骨が軋む音を聞いた直後、彼女の体は壁に叩きつけられていた。
呼吸法方を忘れてしまいそうな激痛の中、セツは真っ白になった頭で、一体何が起こったのか、現状を整理する。
ともかく落ち着こうと深呼吸をするが、息を吸った直後、胸痛に耐えられずせき込んでしまう。衝撃を受けた際に内蔵を傷つけたのか、咄嗟に口を覆った手は吐血で真っ赤に染まっている。
『甚大な被害が出ています。直ちに修復を行います』
一度出た咳は中々止まず、何度も何度も繰り返し咳込むセツを後目に、ハクマは抜刀したままツカツカとドーヨーの元へ近付く。
しかしその歩みはドーヨーに剣の切っ先が当たるか当たらないかの所で止まる。
「その……人に、手を、出す……な」
ハクマの足はセツが床に触れた部分から延びている、結晶化した結界により止められていた。
すぐ様ハクマは自身の足を捕縛している結晶を反対の足で砕き、ついでとばかりに、部屋の奥で転がったままのセツの腹部をもう一度強く蹴る。折れたばかりの肋骨が、蹴られた事により内蔵に刺さり、セツはまたもや吐血する。
しかし、またドーヨーの元に行こうとしたハクマの足は、またしてもセツの結界により止められる。
「いやー、お手本のような茶番劇だね。本当、つまらなさすぎて反吐が出る」
もう一度ハクマがセツを蹴ろうとしたとき、突如わざとらしい拍手と、嫌みったらしい口調で、この施設の主、ヴィヴォが姿を現した。
動いている上に、等身も至って普通。故に、これは本物のヴィヴォで間違いないだろう。
「どうしてこの男を庇うんだい? 君を、君たちの存在を否定しているんだよ、彼は。別にそんな苦しい想いをして助けるような価値は無いと思うのだけど? ああ、もう痛めつけないように。僕はこれと話がしたい。回復する時間をあげようじゃないか」
「価値な……んて、お前が……決めるものじゃないだろ」
「いいや。僕は決められるね。だって僕は選ばれし存在だから」
「はっ、馬鹿馬鹿しい……。何が選ばれし存在だ。私一人手懐けられないような奴が、そんな存在な訳ないだろ」
「ふむ、それもそうか。確かモノを従わせるには躾が必要だったね。恐怖が一番だっけ? お前、死なない程度に痛み付けてやってくれ」
ヴィヴォに命じられ、ハクマは足を捕縛している結晶をもう一度破壊し、ゆっくりとセツの前に来た。そしてセツの髪を掴み、乱暴に持ち上げる。
「チャンスだ。これは君を容赦なく痛めつけるよ? 痛い思いをするのは嫌だろう? さあ、僕に忠誠を……」
「お前に忠誠を誓うなら、肥溜めで一生を過ごす方がマシだね」
「そうか、気が変わることを祈るよ」
祈る気など更々ないだろうヴィヴォを睨みつけていると、ハクマがより強くセツの髪を掴む。
何も言わず、暗い暗いローブの奥から顔を凝視する視線に耐えかね、僅かに視線を逸らすが、ここで延々と逸らしてしまえば、自分は一生この相手に勝てないような気がして、セツは気が遠くなるほどの苦痛を堪えながら、荒い息でハクマを見返す。
先と変わらず、目の前にあるローブの奥は深い闇。かろうじて鼻や口の形は分かるが、人が印象に残しやすいポイントである鼻から上は全く見えない。
「何故、こんな奴が……」
突如、見えないはずのローブの奥の目がギラリと怪しい輝きを放つ。直後、セツは頭を床に強く叩きつけられた。
脳が揺れる。頭蓋骨が軋む。赤い光が目の前に広がる……。
何度も、何度も何度も、ハクマはセツの髪を握りしめたまま、執拗に彼女の頭部を石で出来ている床に叩きつける。
ゴッ、ゴッと固い物同士がぶつかり合う音が暫く続き、やがてそこに滑る音が加わる。十数回それを繰り返した後、ようやくハクマの手が止まった。
まるでゴミを捨てるかのように無造作に離されたセツの頭部は、ズチャという液体を含んだ落下音と共に、何の抵抗もなく床に落ちる。灰色の床は、今や赤黒い色に侵されている。
その汚れた色の中心で、セツは物音一つ立てず、自身の血にまみれたまま転がっていた。
もはや痛みすら感じず、徐々に薄れゆく意識の中、ハクマにヴィヴォが何か喋っている。
しかし、痛覚、視覚、聴覚がほぼ失われつつあるセツに、それを聞き取れる筈もなく。ただぼんやりと死を待つことしか出来ない。
体全体が、心までもが無気力感に包まれ、睡眠前のように頭が重く落ちてゆく。そのような状態でも、このままでは死んでしまうというのは理解できた。しかし、恐怖はなく、別に死んでも良いや。とさえ思いつつあった。
「きさん、また逃げる気か?」
そうだ、別に自分がいても、居なくても何も変わらないじゃないか。どうせ遅かれ早かれ死ぬ命。ならば、無駄に生きながらえるより、私を憎む者の為に死んだ方が良いのではないか? そう思い始めたとき、古くさい言葉遣いの、低い女の声がした。
「情けないのう。毎度毎度、何か面倒なことがあれば「こうすれば問題ないのでしょう?」と抜かしているような顔で、相手の意見に乗りよって。ほんに虫唾が走るわ。相手を尊重しつつ、卑下しよるきさんの腐った性根が嫌いでたまらん。きさんがあれでなければ、遠の昔に燃やし尽くしておるわ」
確かこの声の主は、赤い髪を全て後ろで縛った、軍服姿の気の強そうな女。そうだ、彼女の名ワクラバだ。
人であった頃、軍隊に所属していた彼女は、人一倍規律に煩く、そして何故か自分を目の敵にしていた。彼女の前で何かしよう物ならば、性格と同じくきつい口調で罵られ、行動全てを否定されていた。驚くべきは、罵るときにはこれほど口数の多い彼女が、普段は滅多なことがない限り声を発さない無口だという事だ。
何故彼女がそこまでセツを嫌っていたのか。それは他の仲間も不思議に思っていた。
それはともかく、セツは自分がこの先どうなるのかということよりも、何故この世で一番自分を嫌っていた彼女が、死の間際に現れたのか。それが気になっていた。
「きさん、約束したんじゃろが。兄弟子を守ると。大事な約束では無かったのか? ちっと拒絶されたくらいでうじうじしよってからに。まるで便所に湧く虫のようじゃ」
姿は見えないが、恐らく腕を組み、高圧的な態度で指摘しているであろうワクラバを前に、セツはどこか萎縮していた。彼女は性格もキツいが、目つきも鋭い。加えて軍隊仕込みの威圧感と、長身が重なり、肝っ玉のある男ですら臆するオーラを発するのだ。それを知っているからこそ、姿が見えなくてもこのザマだ。
「約束すら守れず、何が人じゃ。この阿呆が。悔しかったら何とか言え」
「やあ」
「……やはり阿呆じゃの。呆れてものも言えんわ。死ね」
言ってみろと言うから言葉を発しただけなのに、何故こうもバカにされなくてはならないのか。段々と腹が立ってきた。
「うるさいな。言われなくてもその内死ぬさ。頭割れたんだから」
「ふん、きさんが死ぬ? 馬鹿を言うな」
「ヘ?」
「タシャに感謝するんじゃな。今、こうして阿呆な事をのたまっている間に、きさんのぼろ雑巾のような体を修復してくれとるわ。全く、器に頼りっぱなしとは情けないのう。ほれ、もうじき動けるようになるわえ。とっっとといね」
「馬鹿な。そんな都合良いこと起こるわけ無いじゃん」
「きさんの能力は特別なんじゃ。それに加えて……いや、これはまだ言うべきでは無いの。ええから、とっとといね。もう、二度と約束を破らんのでは、守るのではなかったのか?」
途端、ミーシャの姿が脳裏に浮かんだ。可憐な、野に咲く花のように綺麗な娘だった。そんな彼女が血溜まりの中、原型を残さぬほど痛めつけられ、物言わぬ屍と化した時、セツは確かに誓ったのだ。
二度と、約束を破らない。もう、誰も失いたくない。と。
古い誓いを思い出すと同時に、頭が割れるような痛みがセツを襲う。
ーーもしこれで死んだらどうするんだ! これはお前なんかと違って希少価値の高い……!
耐え難い痛みと共に、ヴィヴォがヒステリックに怒鳴っている声が聞こえてきた。鬱陶しいなと愚痴る内に、少しずつではあるが、視覚、触覚、嗅覚が戻ってくる。
「……二度と来るなよ」
『起動出来るまでの修復は未だ達成できていません。このままお待ちください』
ワクラバの声と入れ替わりでタシャの声が聞こえてきた。
動きたくても動けない状況下のため、返事だけを頭で返し、結晶で塞がれたままの視界で瞬きを何度かする。瞬きでさえ行うのが億劫なため、本当に動くのか心配になったが、タシャが大丈夫だと言うのなら間違いないのだろう。
もう一度目を閉じ、体を休めながら、暫くご無沙汰だったタシャとの雑談をすることにした。
ーー状況は?
『最悪、ですね。頭部に裂傷箇所多数。骨にも異常が見られます。あと数回打ち付けられたら脳漿が出ていたでしょう。人間の方はあれから何も変化はありません。ただ、椅子で鎮座しているのみです』
ーー何か、ごめん。
『それと、一時再生速度が停止しました。生に対する執着を忘れたことに心当たりは?』
ーー……はい、すみません。
『以後気を付けてください。幾ら再生能力が優れているとは言え、主がそれを放棄するような事を考えると機能も停止します。今回の件もあの方に感謝してください。傷の大まかな修正は終わりました。くれぐれも無理はしないよう、お願い致します』
一方的にタシャの声が切断される。
傷の修復、体の操作はタシャにとって莫大な負担がかかると言うことを思いだし、少し申し訳ない気持ちになった。
気を取り直し、薄目をあけて周囲の状況を確認する。
ハクマとヴィヴォは五メートル程離れたところにいた。そこでセツはぎょっとしてやや目を開く。
なんと、ハクマがヴィヴォに罵られながら、何度も何度も蹴られていたのだ。どうやらセツを必要以上に痛めつけた事に対して相当お冠のようだ。
少しハクマが気の毒になったが、自分が浸っている血溜まりを再確認し、ざまあみろ。と心の中で少し呟く。
何にせよ、セツが意識を失った事に気付いていないこと、ハクマが自由に動けないことは手負いのセツにとってはこれと無いチャンスである。
二人に気付かれないようにしながら、体の下敷きになっている左手の指を動かす。ややぎこちないが、動いた。
続いて、足の親指を回す。中々、反応しない。しかし、幾度となく挑戦すると、角張った動きだが、確実に弧を描いて動き出す。
ーーよし!
「……ところで、君はいつまで気を失ったフリをしているんだい?」
不意に頭上から冷ややかな声を掛けられ、心臓に冷水を浴びせられた心境になる。ヴィヴォは、セツが意識を取り戻したことを知っていたのだ。
考えるよりも早く、危険を察知した体が此処から離れようと動く。しかし、体を床から離すと同時に、支えにしていた左手の甲に焼けるような痛みが走った。
「ーーっああ!!」
痛みに悶えるセツの左手は、ハクマの剣により、床とつなぎ止められていた。
「ふふ、やはり結界樹の再生能力は素晴らしい物だね。あれだけの重傷を負ったにも関わらず、ものの数分でしっかりと再生している。どれ、顔を見せてごらん」
「っ誰がーー!」
自由な右手で顎を上げようとするヴィヴォの手を払いのけようとすると、間髪入れず、ハクマが転がっていたセツの刀で、左手同様右手も床につなぎ止めた。
両手を塞がれ、痛みに悶絶するセツの顔を楽しそうに眺め、ヴィヴォは頭部を覆っていた結晶の一部を剥がす。
「やはり、結界樹の結晶は樹液の役割を果たすようだね。それも、傷跡を残さないように修復する辺り、従来の物と違い、人の血小板に近いようだ。これが結界樹そのものの生態なのか、この体に組み込まれたからなのか、その辺りを解明しなくてはね。ふふ、興味深い。しかし、今回のように傷口に異物があればどういう風に修復するのかな? 暫く放ってみようか」
ぶつぶつと縁起でもないことを至極楽しそうに語るヴィヴォに良いようもない嫌悪感が走る。ああ確か、アルティフも同じような事を言っていた。
反抗的が故に独房に入れられた者をーーと共に、ひたすらなぶり、観察し、あざけっていた。そんな奴らを見る度、こう思ったものだ。ーーと。
虫食いの記憶がセツの感情のタガを外そうとする。しかし、それを外してしまうと取り返しの付かないことになる。第六感が警告を鳴らし、それを賢明に守ろうとするセツだが、そんな彼女をヴィヴォは翻弄する。
「そういえばさ、あの男を助けるために約束がどーたら言っていたけど、死んだ者の約束なんて守る必要はあるのかい?」
「親方は、死んでなんて……!」
ヴィヴォの言葉にそれまで動かなかったドーヨーが顔を上げる。
有らん限りの声を上げて否定するが、その言葉はハクマが放り投げたものを目にした途端、呆気もなく停止する。
「そんな……うそだ……」
乾いた声が、自分でも驚くほどの弱々しい声が漏れた。
ハクマが放り投げたもの。それは、人間の腕であった。それだけならば別に構わない。けれど、その腕には薔薇の手入れで出来たであろう無数の真新しいひっかき傷。そして、セツとドーヨーの師匠であるダイナリが肌身離さず付けていた銀のロケットが握られていた。
パキ、パキと心のタガが外れてゆく。
「下らない、実につまらない最期だった」
バキッ!
忌々しげに呟いたハクマの一言で、セツのタガが完全に外れた。
同時に、座り込んだままのセツ体が、高濃度の真珠色の光に包まれる。
「はは、見たまえ! どうやらあれは鍵の助けを借りず、強引に鎖を解き放ったらしい!」
楽しげに笑うヴィヴォの隣で、ハクマは生まれて初めて嫌な予感。と言うものを感じていた。その思いは真珠色の光が強くなるほどに強くなり、気が付けば彼女は氷柱を発動させていた。
ーー許さない、お前等二人とも……。
地の底から響くような不気味な声がこだまする。
ヴィヴォの制止を振り切ってハクマが氷柱をセツに向けた途端、ある言葉が轟音を破って室内に響いた。
殺してやる。