36
 いつの間にか閉じていた目を開けると、そこには相変わらず眠そうな目をした男がいた。
 目が合うや否や「思い出せたか」と言う男の言葉を遮ってセツは興奮したように目を輝かせながら何度も何度も首を縦に振る。
「思い出せたよ! イスカだよね!」
 余程嬉しかったのか頬を紅潮させながら言うセツに、男は笑うような、ムッとするような、何とも言い難い物へとやや表情を崩した。が、その表情は次のセツの言葉でまたもやいつもの何の面白味もない物へと変貌する。
「あの犬!」
 空気が、止まった。
 しかしそんなことには微塵も気が付かないセツは、尚も目をキラキラト輝かせながら男の返答を待っていた。
「イスカ、犬……」
「そうそう! 腹毛が雪みたいに真っ白で、ウサギみたいな真っ赤な目をした黒い犬」
「……ハァ。あれは犬ではない、狼だ」
 初めて見る男の盛大なため息に、セツは目を丸く見開いた。
 と言うのも、セツの中では男の印象が感情があまり無い無機物のものだったからだ。例え隣で火山が噴火したとしても平常心でいるところが簡単に想像できてしまうような男が、イスカの種族をお間違えただけで感情を震わせた。それがセツにとっては衝撃的だったのだ。
「まあいい。思い出せたのがアレでも、何も無いよりマシだろう」
「アレって何だその言いぐさは。まあいいや。じゃあそろそろ教えてよ」
「何をだ?」
「何をって……。あんたの名前だよ。結局教えてもらってないじゃん」
「ああ、そう言えばそういう話だったな。俺の名前は……」
 と、そこまで言って男は何故だか口を噤んだ。
 明らかに不自然な間にセツはさり気なく男の表情を盗み見するが、目に入る表情は相も変わらぬ何を考えているのかちっとも分からないもの。読心術でも使えたらな。と、セツは心の中で小さくごちた。
「イスカ、本当に思い出せたのか?」
「うん。黒い犬……」
「狼」
「やけにこだわるなぁ。えっと、黒い狼で仲間、だよね? 何かリーダーみたいな位置にいたんじゃないの? うっすらだけど怒られたような気がするようなしないような……」
 黒い狼の前で正座をさせられ、淡々と説教された映像がぼんやりと浮かんできたセツは懐かしさに胸を躍らせながらも、疑問に首を傾げた。
 何故ならばイスカという名の狼は人語でセツに「なるべく傷を負わないように戦え」と説教していたからだ。
 獣が人語を操るなど、摩訶不思議とんでも珍現象だが守徒という森の狼を両親に持つセツとしては大して珍しいものでは無いように思えた。きっとイスカも守徒に似たようなものなのだろうと考え、セツはやけにじらす男の名前を待った。
「……ココー」
「ん、鶏?」
「違う、名前だ。俺はココー……でいい」
 妥協したような物言いに違和感を抱き、即座に問いつめてみるも男ーーココーは曖昧に言葉を濁すだけであった。
 何故名前を隠すのか。それは非常に引っかかる事柄ではあるが、きっと聞き出すことは不可能だろう。この男は一度言わぬと決めたことはどれだけ押そうとも口を割らないからだ。それはこの短い付き合いでも十分すぎるほど分かる事柄。
 気になるとは言え、相手が嫌がることを無理に聞き出す程執着は無いし、何よりしつこいのは気にくわない。
 自分がされて嫌なことはしないがモットーであるセツは「分かった」と、その後男の名について言及しないことを約束した。しかし、
「あのさ、本当にいいの? ココーで」
「何故だ」
「ココーって言ったとき、ほんの少しだけど眉を潜めていたから。だから、その名前嫌なんじゃないのかって思ったんだよ」
 確かに男が名乗った時、ほんの僅かではあるがその表情は曇っていた。
 しかしそれは本当に僅かで、余程注意していないと気付けないような、言わばコンマ一秒の間にニラと水仙を見分けるような、それほど分かりづらいものであった。
 ーーそう言えば……。
 今思えば、セツは時たま異様なほど他者の気持ちに敏感に反応する節があった。これまでは只の偶然だと思っていたが、もしかすると彼女は他者の心境に目ざとく反応する力があるのかも知れない。
「いつも良く見ているな」
 思ったことを素直に口に出すと、セツは当たったかー。といつも通りのふやけた顔になる。
 そこに僅かな違和感を感じつつも、男は中断された話の続きを再開する

「確かに嫌だが、それも過去の話だ。別に気にしなくても良い。ただ、気にかけてくれるのならば……」
 そこまで言って、男はセツをじっと見つめる。
 焚き火に照らされた男の赤褐色の目は、さながら怪しく光るガーネットのようで、セツは思わず見入ってしまう。が、男と顔の距離が随分近付いてしまっていることに気付き、すぐさま体を起こして距離を取る。しかしその後すぐにじっと顔をのぞき込んでしまう。
 きりっと引き締めれば男前の部類に入るだろうが、いかんせん良い意味でポーカーフェイス。普通に言えば感情に欠けた眠そうな表情。顔面偏差値に関しては今のところ頂点に君臨するクサカに対抗できるようなものではない。
 けれど、何故だかセツは無意識の内に男の顔を見てしまうのだ。
「気に掛けてくれるのならば、早く自分で俺の名を思い出してくれ。それまで俺はココーだ。あいつが、アルティフ・シアルが名付けた、ココーだ」
「アルティフ……!?」
 アルティフ・シアル
 その名を聞いた途端、セツの鼓動が一際大きく打った。
 セツの記憶の中に度々現れる、白髪の老人。常に白衣を身に纏い、天然パーマなのかわざとなのか良く分からない爆発したような髪型。永く日に当たっていないであろう不健康そうな青白く、不摂生が祟っているのであろうやせ細った体。そして眼鏡の奥から覗く、穏和そうだが狂気を含んだ琥珀色の目。
 一見すれば只の不健康そうな老人である。だがしかし、記憶がまだ十分に戻っていない時点にも関わらず、彼は大きな存在であるとセツに自覚させるような存在感を放っていた。
「その、アルティフって人。何者なの?」
「ああ、そう言えばあいつの名前を出してクサカの怒りを買ったんだったな。だが、答えは間違っていないと思うぞ。事実、あいつは俺達の上に立っていた。生み出したのだから当然だろうがな」
「どういうこと、まっさかアルティフが私達を産んだってこと?」
「性別から言うと、そこは種付けだろ」
「ボケだよそこは……。ともかく、アルティフが私達のお父さんってこと? ってことは私達兄弟なんだよね。あまり似ていないな……」
「血の繋がりは無い」
「へ、じゃあ生み出すって?」
「……それはまた他の仲間と合流したときに話す。ともかくアルティフは元々俺達の指導者のような存在で、俺達にそれぞれ名前、コードネームのような名を付けていた。俺の場合はそれが「ココー」だ」
 アルティフの大まかな立ち位置とココーの由来を聞くことが出来たセツは、明らかになった事実になるほどな、と首を縦に振る。
 しかし、やんわりと拒否を示された箇所を除いて、何故男がその名を嫌がるのか。クサカがアルティフを毛嫌いするのか。かつて主従関係にあったアルティフと自分達の間に何があったのか。
 それが、分からない。
「皆の前であまりアルティフの名を口にするなよ。あいつは、俺達の敵だ」
 予期せぬココーの言葉に顔を上げると、相変わらず眠そうな赤褐色の目と視線が交わる。
「あいつは今も、昔も、これからも、俺達の障害だ。太古に結ばれた糸はどれだけ年月が経とうとこの身に絡みつく。俺はその糸を早く切ってしまいたい。セツ、お前が目覚めたのはそれを断ち切る為だ」
 淡々と語る男の表情は安定のポーカーフェイス。
 けれどセツは確かに感じた。その言葉に、目に浮かぶ、怒りとも憎悪とも形容し難い感情を。
 それを聞いたセツはそれ以上アルティフのことを言及しなかった。それはクサカ達とアルティフの関係が良くないと分かったからということは勿論。何より単純に男の怒りに恐れを為したからだ。
「おーけー。じゃあ今から思い出せるまであんたはココーだね。なるべく早く思い出せるように頑張るから。待っててね」
 恐れを払拭するようにわざとらしく元気に言うと、男ーーココーは「頼む」と短く言い、セツへと右手を伸ばす。
 握手を求められているのだと理解したセツは「あまり似合わないな」と、小さく噴き出しながらココーの手を握る。初めて握ったココーの手は思っていたより大きく、皮の手袋越しに分かるほど逞しかった。
 ーー握手、何だか懐かしいな。この人が、私達の頂点に立つ人か。
 自分では何も言っていなかったが、クサカの反応を見ている限りココーがセツの仲間をまとめているのだろう。こんな舌っ足らずがトップに立っているのだと考えると些か心配にはなるが、何となくココーなら大丈夫だろう。という意味の分からない確信があった。

 ・

「陸だ!」
 数日後、船から降り立ったセツは両腕を天に突き上げながら心底嬉しそうに雄叫びを上げる。
 アルティフの説明とココーの名を教えてもらってから、セツはひたすら道無き道を歩き続け、そして巨大な河を渡るために人生初の船に乗った。
 船に乗る際、ココーは人混みは好かん。とセツ一人を船に乗せて姿をくらませた。一人で乗ること自体は下船する港が次だった為に問題は無かった。無かったのだが、その後船が港に着くまでの丸二日。セツは船酔いに苦しみ続ける羽目になった。
 否、正式に言うと半魚人のような魔物が船を襲った時は頭の中の妙ちきりんな声の力を借りて復活していた。しかし、その後のリバウンドさながらの激しい船酔い振りを見れば、トータル的に船酔いに苦しんでいたということに間違いはない。

 痩けてしまった頬に笑みを浮かべ、セツは駆け足でステップを駆け下りる。どうやら一刻も早く忌まわしい経験を与えた船から離れたいようだ。
 陸に降り立ったセツはまた改めて天に両手を突き上げると、これでもかと言うほど伸びをして懐から折り畳まれた紙を取り出す。
 それは乗船する前にココーに渡されたメモ紙であった。ココー曰く、仲間と合流するまで宿泊する宿の情報が書いているらしい。しかし、
「あっはっは、読めないな!」
 セツはノシドの外の文字を読むことが出来なかった。
 陸に上がったことにすっかり舞い上がって暫く豪快に笑っていたセツだが、時間が経つにつれ笑っている場合でないと気付き、紙を片手におろおろと周囲を徘徊する。
 小一時間ほど徘徊した後、他の人に聞けば良いのだという結論にようやく至ったセツは人の良さそうな人を捕まえて文字の解読を依頼したのだった。

「ええっとね。ああ、これはレクエルドだねー。この大通りを突き当たりまで進んで、右に暫く行ったらあるよ」
「ありがとうございます! 助かりました」
「いいよ、これ位。その荷物からして、君は他国から来たのかい?」
「ええ、まあそんな所です」
「随分喋り言葉勉強したんだね。ちなみにどこから来たの?」
「ノ……じゃなくて、西の方です」
「西ならカイトか、もしくはかの伝説の地、メギド辺りだね」
 てっきりノシドと言われるとばかり思っていたセツは小太りの中年男性の言葉に目を丸くした。
 メギド
 初めて聞く単語だ。
「あれ、もしかしてメギド知らない? まあそれもそうだよね。カイトとこっちじゃ神話も宗教もからっきし違う。気になるなら城に行ってみると良い。城はコメンサール聖戦に深く関わっているし、運が良ければ直接それを目で見れるからね」
「コメンサール……あ、はい。機会があれば行ってみます!」
「うん、マニャーナ国は由緒正しい尊厳たる歴史を持っている上に、近年最も繁栄している国だから、きっといい思い出になると思うよ。じゃあ、楽しんで来てね」
「本当にありがとうございました!!」
 丁寧に教えてくれた男は小袋を背負い直すと、にっこりと微笑みながらその場を離れる。その背中が見えなくなるまで手を振り続けると、セツは顎に手を添えて考える。
 ーーコメンサール聖戦って……。
 どこか聞き覚えのある言葉。どこで聞いたのだろうと考えを煮詰めていると、数人の人がぶつかっていく。
 ああ、こんなところで突っ立っていれば迷惑か。そう思い暫く止めたままの足を動かすと、美しい長い金色の髪をした人が追い越して行く。
 金髪。それと同時に思い出されたのは、雨の中の騒動の発端である金髪の少年、インソ・レンテ。
『コメンサール聖戦知らないの?』
 確かあの少年は部屋に飾ってある絵画を見ていたセツに、呆れながらもその概要を簡単に教えてくれた。
「魔物と聖人? 何か難しい名前の人との古代戦争だっけか。ノシドじゃそんなこと聞いたこともないけど、こっちじゃ有名なんだねぇ」
 ぶつぶつと呟きながら、先程教えてもらった道を進む。
 夕暮れ時の港は往来の人で大層混みあっており、セツはただ前に進むだけなのに相当な苦労を強いられた。
 人混みなど祭りの時しか縁が無かったセツは暫くは人混みに抵抗していた。しかし未だ残る船酔いも影響し、もう、人が少なくなってからでいいや。と考え、人通りの少ない路地へと避難する。

「う……っぷ。駄目だ気持ち悪い」
 再発した酔いに押され、壁づたいによろよろと歩きながら、口を押さえて軽くえづく。
 吐き気特有の唾液が酸っぱくなる現象に頭が回るような不快感を覚える。正直に言えば今すぐここで吐き出してしまいたいが、理性がそれを拒否する。
「……て……さいっ!」
 素数を数えながら賢明に気を紛らわせていると、路地の奥の方から何か揉めているような声が聞こえた。
 気のせいかとまた素数を数えるも、その声は一向に止まない。痴話喧嘩だろうかと、のろのろとその声の方に足を向かわせると、声は次第に大きくなっていく。
「止めて、離してください!」
「離すも何も、声かけて着いてきたのはアンタだろォ? 良い大人が自分の判断で着いてきたんだ。なのにこっちが悪いように言うのはおかしかナイかい?」
「そんな……っ。 私はただ、頼みごとがあるからって……」
「だから頼んでんだろォ? 俺の慰み者になってくれってよォ」
 ヒヒヒという下卑た男の笑い声を聞く内に、セツのは胸がムカついてきた。それは今までの嘔吐感ではなく、不快感から来るムカつき。
 男の会話にガファスでのシッシとノチェの姿がチラついたセツは、それまでの嘔吐感など忘れて走っていた。
「おいこら!」
 声の元にたどり着くなり、セツは開口一番に威嚇する。
 前にいるのは中肉中背の男と、男に手首を捕まれている美しい金髪の、髪と同じく美しい容姿をした人物。
 朝日のような輝きを放つ金色の髪に、夕日のような深みのある橙の目。陶器のような白い肌に、すらりと伸びた長い手足。まるで人形のように整ったその人物の容姿を確認したセツは不謹慎にも「こりゃあさらわれる訳だ」と思った。
「何だおめー?」
「何だもへちまもあるか。その人、嫌がってんじゃん。手、離しなよ」
「はぁ? そんな訳ねーだろ? なァ、お嬢ちゃん?」
「わ、私は……」
 ぐいと男に引き寄せられ、半ば強制的に同意を求められた美人は目を泳がせながら口ごもる。
 状況的にも断りづらいものがあるが、このような状況になった経緯からして、恐らくこの美人は断ることに慣れていないのだろう。言い方を変えれば、流されやすい。
「あほか! 明らかにお姉さん嫌がってんだろ! さっきの会話聞いてるから分かっているんだよ」
「何だよ、ならとぼける必要なかったなァ。まあいいや。おめーは別にいらねェけど、逃がしたら厄介だから連れてくな」
 トンと美人を壁に突き飛ばし、男はセツへと手を伸ばす。セツはそれをしゃがんでかわし、そして屈伸動作を活かして男の顎に渾身の頭突きを放った。
 想定外の攻撃と、痛みに悶える男の肩を掴んで仰向けに引き倒すと、セツは男の胸倉を掴んで、胸の内の怒りを浴びせようとする。
「お前、こんなことして良いと思って……おぼろろろろ……」
 が、何の呪いかここに来て船酔いが限界に達し、セツは男の上に胸の内ではなく、胃の中のものをぶちまけたのだった。


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