五十年の涙
 神有村は神の村
 神の留守の時雨の中
 想い人は現世に帰る
 ほんの一刻、神の奇跡


「神有村に行きたいねぇ」

 七十を過ぎた祖母は最近遥か昔に消えた筈の村に行きたいと、事ある毎に呟く。
 神有村。それはかつて祖母が住んでいた村で五十年程前に土砂崩れによってそこに住んでいた人もろとも埋もれ、地図から消え去った村らしい。

「おばあちゃん、今度の休みに神有村に行こうか」
「え? でも……」
「ほら、来週はお父さんも休みだし。それに、私もおばあちゃんとおじいちゃんが住んでいた所に行きたい」

 そう言うと、病室のベッドからボンヤリと窓の外を眺めていた祖母は、少女のような可憐な笑みを顔いっぱいに浮かべて私を見た。
 ありがとう。嬉しそうに何度もそう言って私の手を握る祖母の体温が心地よくて、何だか私も笑顔になる。

 神有村へ行く日を決め、笑顔で病室を出た後に長く無機質な廊下を歩く。
 足音と共に、ぽたりと一滴の熱い涙が落ちた。まばらにいる人々が怪訝そうに此方を見るが気にする余裕は無かった。
 地図から消えた神有村。会った事もない祖父が眠る神有村。私はその村に祖母を連れて行ってあげたかった。半世紀近く思い続けている神有村へ連れて行く事は、後半年の間に私が祖母に出来る、唯一の孝行だと思うから。

 * *

 翌週、私と父と祖母の三人は神有村の跡地に訪れた。
 神有村を見付ける事に骨を折るとばかり思っていたが、父がちょくちょく黄昏る為に来ていたらしく神有村自体は拍子抜けする程あっさりと見付ける事が出来た。
 だけど、やはり五十年という長い歳月は神有村の跡地を緑で覆いつくし、村があった事は当然。ここが土砂崩れの被害にあったという事すら分からない有り様に変えてしまっていた。
 当初は変わり果てた村の姿に落胆していた祖母だったが、暫くすると気持ちの整理がついたのか、この村の思い出をそれは楽しそうに語ってくれた。そんな中、父が少し躊躇いながらこんな質問をした。

「なぁ、おふくろ。親父と最期に交わした言葉って何だったんだ?」

 急にシトシトと雨の粒が荒地へと降り注いできた。私達は雨に当たらないように祖母が乗った車椅子を大きく開け放たれたワゴン車のトランクの下へ移動させる。
 父の問いから少しの間を空け、祖母は時雨だねと小さく呟いた。

「……五十二年前も、こんな雨が降っていたよ」

 シワだらけの手をギュッと握り、祖母は顔を上げて荒地と化した神有村を見渡す。そして半世紀以上仕舞い込んでいた思い出を、降り始めの雨のようにぽつりぽつりと語り始めた。

 * *

 神有村が無くなったのは、父が五才で祖母が二十四才の時だった。
 長雨が続いたある神無月の事、父が急に高熱を出して倒れた。しかし村と言うよりは集落に近い神有村には医者はいなかった。
 そうこうする内に父の容態は益々悪化し、遂には意識が混濁してうわ言を口にするまでになった。
 事態を重く見た祖父は、祖母に父を隣の集落の医者へ連れていくよう命じた。丁度その時期に来る巡回医がこの長雨で足止めを食らっていると踏んだからだ。
 足の悪い祖父に代わり祖母が父を背負って村を出る時、祖父は家に一つだけあった傘を手渡して、村の入り口までずぶ濡れになりながら祖母を見送りに行った。
 その時の祖父の表情はとても朗らかな笑顔だったらしい。きっと心の中では心配で不安で仕方なかったのだろうが、そんな思いを顔に出せば祖母までも不安にさせる。だからこそ、祖父は笑顔で祖母と父を見送ったのだろう。

「大丈夫だ、神無月だろうとこの村には神がいる。神有村の子どもを見捨てない。だから安心して医者へ行け。俺はお前達が元気に帰って来るのを待っているから。そう言ってあの人は笑ったの。……でも、帰ってみたらあの人は村と共に土砂の下敷き。神有村の子どもより神の居る村が先に無くなっちゃうなんて、皮肉な話だね」

 涙を拭うように祖母は目尻にそっと触れた。降り出した雨はいつの間にか強くなり、車体を強く叩いている。
 祖母と父の身を案じながら、会えないままこの世から去った祖父。村と愛する人を無くした祖母。二人の気持ちを考えると胸が痛んだ。

「……雨が酷いし、今日はこの辺にしてまた今度来ようか?」

 雨の勢いが弱まらない事、そして辛い思い出の場所に長居をして良いのかと父は考えたのだろう。
 だが、

「もう少し、もう少し待ってちょうだい。私はもう長くないのでしょう?」
「ばっ、馬鹿な事を言うなよ」
「良いのよ、隠さなくて。自分の事は自分が一番分かっているのだから。だから、せめて時雨が止むまで待って……っ」

 涙ながらに祖母はそう告げ、俯いたまま肩を震わせた。
 祖母が知り得る筈の無い残酷な現実。それを引き出された私と父はどうする事も出来ず、ただ雨の音を聞きながら突っ立つ事しか出来なかった。
 ただ時間と雨のみが流れる中、不意に雨音の向こうからある唄が聞こえてきた。

 神有村は神の村
 神の留守の時雨の中
 想い人は現世に帰る
 ほんの一刻、神の奇跡

 その唄は祖母がよく口ずさんでいた物だった。だけど祖母は唄っていないし、その声はどう聞いても男性のものだ。
 誰だろう? 私はそんな疑問を抱いたが祖母はそれが誰だか分かったようで、雨の向こうから足を引き摺るようにして歩く人影が見える前に掠れた声でこう呟いた。

「……清吉さん」

 何故か祖父の名を口にした祖母は車椅子から立ち上がった。この先、自力で立つ事は出来ないだろうと医者に宣告された祖母が自力で立ち上がる。それは奇跡に近い事だった。だけど今、それ以上の奇跡が私達の前にある。
 やがて雨の中、何処からともなくやって来た男性は私達の数歩前で立ち止まる。優しい瞳で此方を見る男性は何処か懐かしい雰囲気を纏っていた。
 お父さん。そう呟いた父の声が酷く幼く聞こえたが、私は目の前のあり得ない光景を突っ立ちながら見る事しか出来なかった。

「律、それに秋雄……。やっと逢えたな」

 時雨に溶けるような男性、祖父の優しい声がした。
 どう見ても二十半ば辺りであろうこの男性を祖父とは認め難い。いや、むしろ死んだ筈の人間が現れるなんてあり得ない。なのに何故だか私の目からは熱い涙が零れ落ちた。
 車椅子の後ろで呆然と立ち尽くす私の前で、祖母は一歩、また一歩と祖父に近付き、そして差し出された祖父の手を震える手で愛惜しむように握りしめる。

「清吉さん……っ。私も、私も逢いたかった。秋雄も、秋雄もあなたのおかげでこんなに立派に……」

 途切れつつも、絞り出した祖母のその言葉には五十年分の思いが詰まっていて、気が付けば私は嗚咽を漏らしながら止まる事の無い涙を拭っていた。
 そして祖母から一足遅れ、父も祖父の元へと歩み寄る。何も言わずに俯く父の頭を、祖父はただ優しく撫でた。
 半世紀を経て再会した一つの家族。彼等に言葉は不要だった。手の仕草、震える肩、流れる涙……、全てが彼等の感情を表していた。
 雨は依然として降り止まず、五十年の再会を果たした一家を打ち続けた。
 祖父が消えるまで続いた雨は、まるで天の涙のようだった。

 * *

 それから二ヶ月後、祖母は眠るようにして息を引き取った。享年七十五歳。自宅闘病の末の最期だった。遺骨は祖母の遺言通り、神有村跡地に撒いた。
 それから私はしばしば祖母と祖父が眠る神有村跡地を訪れるようになった。
 祖母はもうこの世に居ない。だけどあの村へ、神有村へ行けば祖母と祖父が居る。そんな気がするのだ。
 今日も私は神有村へ行き、そして立ったまま目を閉じる。そうすれば楽しげな若い男女の声、若かりし頃の祖父と祖母であろう声で、あの唄が聞こえてくるような気がして……。

 神有村は神の村
 神の留守の時雨の中
 想い人は現世に帰る
 ほんの一刻、神の奇跡

――PSNノベコン二位入賞作品


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