時刻は深夜二時、草木も眠る丑三つ時の……四十分前、つまり一時二十分。俺は物凄く焦っていた。
電車のドアが開いた途端、俺はドア付近で固まっていた酔っ払い達を押し退けてホームに転がり出る。
畜生、華の金曜だからって酔いつぶれてんじゃねえ! そう心中で毒づく俺だが、それは自分に対する言葉でもあった。
改札に続く階段をかけ上がりながら、俺は帰りが遅くなった言い訳を必死に考える。が、運動をする事によって血流が良くなり、先ほど抜けたとばかり思っていたアルコールが再び回る。
部長の奢りだからって調子に乗って飲みすぎるからだ、馬鹿野郎! 自分を叱ってみるが、アルコールのせいで気分が悪く、反省する余力すら残っていない。くそう、部長の優しさと愚かな自分が憎い。
***
手すりに掴まりながら何とか改札を出た俺だが、ここで新たな問題が浮上する。というか、最悪な現実が待っていた。
俺は駅まで自転車で通っている。だから勿論帰りも自転車だ。今までも、これからも。だがその予定は相棒である自転車を見た途端に崩れ去る。
何故か自転車のサドルが無く、その身代わりだとでもいうように、カリフラワーが刺さっているのだ。
最悪だ。本当に最悪だ。何の漫画だよ、このやろう。こんな始まり方、いらねぇよ。
突如現れた悪のダークホースに、俺は頭を抱えて深夜の駐輪場にしゃがみ込む。
近頃自転車のサドルが盗まれる事が多い事は知っていた。実際に盗まれている人を見た事はあるし、サドルが無い自転車も何台か目にした。
だが、これはどうだ? お詫びに差し上げますと言わんばかりに、しっかりと刺さっているカリフラワー……。盗んだ奴は謝罪のつもりで置いていったのだろうか? だとしたらありがた迷惑以外の何物でもない。
サドルが無いだけならば、立ちこぎで帰るなり、駐輪場に一晩置いておくなり、対処する方法は沢山ある。
だが、カリフラワーが刺さっていたら駐輪場に置いておく事なんて出来ないし、立ちこぎをして帰るとうっかり潰してしまいそうで怖い。捨てるだなんて論外だし、通勤鞄に入れようにも、カリフラワーが大きすぎて入らない。
畜生、犯人は何でまたカリフラワーを選んだんだ、せめてブロッコリーにしておけよ!
だがここで見えない犯人に怒りをぶつけても仕方ない。そう思った俺はカリフラワーが刺さった自転車を押して、駐輪場を後にした。
***
深夜でよかった。
自転車を押して深夜の歩道を歩きながら、俺は初めて帰りが遅くなった事に感謝した。
カリフラワーが刺さった自転車を押して歩く、スーツ姿の男。……うむ、人が大勢いる中で居れば、新たな都市伝説になるには申し分ないシュチエーションだ。
誰も通らない歩道を歩きながら、俺はチラリと時計を見た。が、暗い為に時刻が見えない。仕方無しにスーツのポケットから携帯を取り出す。
01:38
高明度設定の明るい液晶とは反対に、俺の気持ちは消費電力設定の液晶並みに暗くなる。
二時までには家に着きたいと思っていたが、どうやらそれは無理な願いのようだ。自宅へは自転車であれば十分程で到着するが、徒歩となると二十分はかかる。しかも俺は手ぶらではない。カリフラワーがぶっ刺さった自転車を押しているのだ。確実に三十分はかかるだろう。
サドル盗んだ奴、三輪車に轢かれちまえ。
サドル泥棒に毒づいてみるも気分が晴れる事は無く、やりきれない思いが溢れかえる。
はぁ、とため息をついておもむろに懐から小さな箱を取り出す。取り出した拍子に箱の中から小さな振動が伝わって来る。
今日、いやもう昨日になるか。昨日は結婚一年目、つまり結婚記念日だった。それに合わせて俺は嫁に小さなネックレスを買った。
予定では帰宅してから嫁にさりげなくネックレスをプレゼントし、嫁が驚く姿を余裕を持った表情で見つめる筈だった。(ここで気の利いた言葉をかけられたら尚良し)
だが、女物のネックレスについて部長に相談したのが運の尽き。「景気付けに酒奢ってやるわ。いやー、めでたいめでたい」と断る暇もなく飲み屋に連行された。……そして今に至る。
今思えば、部長はただたんに飲みたかっただけだろ。明日休みだし、旦那さんと子どもは今学校行事で旅行に行ってるって言ってたし。はは、乗せられた俺哀れ。
まあ、今はさっさと家に帰る事だけを考えよう。箱を懐にしまい直し、前を見て歩き始めた俺だが、再び難問が立ちはだかる。
オレンジ色と赤、白の絶妙なコラボレーションの看板。そう、コンビニだ。
普段ならば気にならない存在だが、今の俺からすればその明るい看板が天の光に思える。何故なら今の俺は酔っ払い。コンビニには酔っぱらいの万能薬、ウコンの力があるからだ。
いや、でも俺は嫁の待つ家へと一刻も早く戻らなければならない。ならない。ならないんだ!
なのに何故俺の足は車道を横切ろうとしているんだ? 止めろ、カリフラワー自転車を止めるな! 何カゴから鞄取ってるんだよ! おいっ!
「ありがとうございましたー」
はぁ、結局こうなるだろ。ため息混じりにウコンの封を空けて何口か飲んだ俺は足取りも重く、自転車が止まっている裏口へと足を進める。
もう今日は厄日だ。絶対そうだ。
そう思いながらウコンを飲み干し、顔を上げた俺は今日最大かもしれない厄と遭遇した。……もう厄日は始まらなくていいって。
「やべー。マジ格好いいんだけど」
「マジヤバい。鬼格好良いじゃん」
俺のカリフラワー自転車を囲んで、二人の若者が携帯で写真を撮りながら、どこか興奮したように話していたのだ。
どうするんだよ、スエット姿に、明らかに高校生だろうに金髪の頭。どう見ても不良じゃねえか! 何でそんな奴等に囲まれてるんだよ、自転車!
関わりたくない不良という存在に、自分の自転車が絡まれているこの状況に、俺はただ呆然と突っ立つ事しか出来なかった。
だけど状況という物は、いったん悪くなるとどんどん悪くなって行くもので……、
「あれ、あのリーマン、この自転車の持ち主っぽくね? こっちガン見してるし」
帽子を被っていない方の少年が俺を指差しながら、もう一人の少年に同意を求める。もう駄目だ、逃げる道は絶たれた。天は我を見捨てた。
だが逆にここまで来れば覚悟が決まる。今日は色々耐えたんだから、一回位暴れてもバチは当たらない筈だ。多分。恐らく。きっと。I believe!
野球で鍛えた筋力をナメるなよ、補欠だったけど。
心中でそう呟き、待ち構えるであろう戦いにネクタイをゆるめながら、俺は自転車を囲む不良達に歩み寄る。
「これ、お兄さんのっすか?」
「ああ、そうだ」
気分はセガール。現実は冴えない酔いどれサラリーマン。悲しすぎる理想と現実の差に嘆きながら、俺は自分なりに堂々と答えてみせた。どうせこの後は滅茶苦茶になるんだ。一度位格好をつけても良いだろう。
だけど……、
「お兄さん! もしかしてカリフラワーの神様っすか!」
特攻隊よろしくと、玉砕覚悟で構える俺に向けて少年が口にしたのは罵声や嘲り等ではなく、初めて耳にする神様の名前だった。
何の事か分からない俺に向けて、不良二人は目を輝かせてカリフラワーの神様について熱く語る。
おお、これが少年の瞳というやつか。
だが、このまま訳の分からん神様だと崇められるのは、不良少年達に何だか悪いし、カリフラワーだとか言われて、俺も良い気はしない。
「いや、違うな」
「嘘ばっかり〜、誰にも言わないから正直に言っていいんスよ」
……言っても信じないのなら、ハナから聞くなよ。
思わずため息が漏れた。
目の前でワーワー騒ぐ不良少年達を適当にあしらいながら、俺は何気なく携帯の液晶を見る。
01:50
あ、ヤバい。
ウコンと不良少年達に弄ばれる内に、いつしか時は丑三つ時の十分前になっていた。
ただでさえ丑三つ時は気味が悪い。なのに今の俺には、運と言うものの欠片もない。……なんだか更に面倒事に巻き込まれそうだ。
そう考えた俺は覚悟を決めて自転車に走りよる。
これだけはしたく無かった……。そう思いながら自転車に跨がると、少年達は息をのみながら携帯を構える。おい、写メは止めろ。
しかし跨がってみたものの、どうもカリフラワーに腰を下ろす勇気が出ない。
妙ちくりんな格好をしているが、奴だって立派な食べ物だ。そう豊かでない家庭で育った俺にとって、食べ物を尻に敷くなんて行為は絶対に出来ない。
立ちこぎをするにしても、カリフラワー自転車に乗って走り出す俺を、今か今かと目を輝かせて待つ少年達が横にいるのだから、期待を裏切るような事は出来ない。
どうしたものか……。暫く考えた後に、俺は片手を上げてなるべく爽やかにこう言った。
「ア、アデュー」
そしてカリフラワーに付くか付かないかの瀬戸際で腰を浮かせて自転車をこぐ。こうすれば端から見る分にはカリフラワーに座っているように見える筈。
「パネエ! まじパネエ!」
上手い具合に少年達は俺の作戦に引っかかってくれたようで、背後からは興奮気味の若者言葉が聞こえてきた。カリフラワーの神様に夢中な不良少年か、何だか可愛いな。
***
コンビニから十分距離が出た所で空気椅子から立ちこぎへジョブチェンジし、ひたすら家路を爆走する。
ウコンのおかげで酔いはマシになったが、空気椅子のせいで太ももの筋肉がダルい。でもまぁ、酔いと比べたら可愛いもんだ。
足のダルさに堪え忍んでこぎ続けてると、段々見覚えのある家が見えてきた。よし、ここまで来たらこっちのもんだ。
玄関前にカリフラワーが刺さった自転車を乗り捨てるようにして置き、物音がしないよう、細心の注意を払いながら鍵穴に鍵を差し込んでゆっくり回す。
カチャリと軽い音がして扉が静かに開かれる。
01:59
何とか間に合ったか。そう思い、安堵のため息を吐く俺だったが、突然玄関の電気が灯る。そして暗闇で見えなかった、玄関の敷居で仁王立ちしている人物が俺の目に飛び込んで来る。
「おそえり。今日……じゃない。昨日、何の日か忘れた訳じゃないよね?」
パジャマ姿で微笑みながら話しかけてくる人物は他の誰でもない、俺の嫁だった。
真っ暗な玄関に嫁が居た事に、心臓が飛び出そうな程驚いた俺だったが、不気味な笑みを浮かべる嫁の手に自転車のサドルが握られていた事により、更に驚く事になる。
もしかして、サドルとカリフラワーを差し替えたのは……。
「お、お前……」
「黙れ! この薄情者!」
尋ねてみた瞬間、終始笑みを浮かべていた嫁の顔がクワッと鬼の形相となり、夜中だと感じさせないような怒声を発する。
初めて嫁を、いや、お嫁さんを本気で怖いと思った。
「記念日を楽しみにしていたのは私だけ!? ふざけるな馬鹿!」
午前二時ジャスト。
てっきり厄日は始まったと思っていたが、俺にとっての真の厄日と地獄の刻は今まさにこの刻、嫁の張り手と共に始まったのだった。
――PSNノベコン一位入賞作品