その日から、少年と人魚の交流が始まりました。 日向が海に出向いた時を狙って声を掛けたり、こっそり家に上がりこんだり、最初は煙たがっていた日向も、段々と慣れてきて、海の中の話や、仲間の人魚の話をせがむようになりました。 日向には家族がいません。 昔、漁に出ていき、帰ってこない父を探して、母も日向を置いて出ていって、それっきりでした。一人になった日向を、哀れに思った村の人から、働いた分だけ分けて貰った野菜やら魚やらで、生計を立てているのでした。 そんな生活でしたから、突然現れた、やけに懐っこく、無償の愛を捧げてくれる存在に、ほだされているな、と感じながらも、それが嫌ではないのでした。 採ってきた貝を手土産に、今日も木吉は日向の元に来ていました。膝を診て貰うというのは表向きで、本当は日向に会いたくて仕方がないのです。 持ってきた貝を適当に置いて、木吉は珍しく筆を持つ日向の手の中を覗き込みました。 「日向、何してんの」 横から突然現れた木吉にさして驚くでもなく、日向は手にしていた蝋燭を木吉の顔の方へと傾けます。 「これはな、蝋燭に絵を描いてんだよ」 日向は赤い絵の具を筆につけると、おっかなびっくり模様を描いていきます。木吉が部屋に転がる幾つかを手にとってみると、なるほどその一本一本の絵は微妙に違っていました。 ――俺の村、漁師が多いだろ。だから、漁に使う蝋燭に、絵が描いてあれば、ご利益があるんじゃないかって。 「漁に出ていく時、心を込めて絵を描いた蝋燭に灯りを灯せば、無事に漁から帰って来れる。…願掛けみたいなもんだな」 そう日向は照れくさそうに笑いました。 お世辞にも上手いとは言えない、歪で不恰好な線や丸ばかりですが、そこには日向の真っ直ぐな思いが滲むようで、木吉の胸はじわりと温かくなりました。 「な、俺にも描かせてよ」 「いーけど。お前絵とか描けんの?」 やってみろ、と。簡単に筆を渡したことを、日向は直ぐ後悔する羽目になるのでした。 「日向、お前の蝋燭のお陰だよ!ありがとうな」 わしわしと頭を撫でる顔馴染みの漁師に微妙な笑顔を返し、日向は貰った魚の入った箱を抱え直しました。 日向の―正確に言えば木吉の―描いた蝋燭は、見た目が美しいこと、そして何より火を灯せば必ず大漁で、無事に帰れることから、あっという間に村中にその評判は広がっていきました。村人が、日向に蝋燭を描いて貰いたいと殺到するのは、当然の流れでした。 床に転がる蝋燭を眺めて、日向は唸りました。今日も家に勝手に上がり込んでいた木吉は、首を傾げつつひょいと蝋燭を取っては絵を描いていきます。 「どしたの日向。腹でも痛いのか」 「ダアホ、ちげぇよ。ただ…こんな風に、騙すのって、何か…」 「騙す、って」 確かに、これを描いているのは日向ではなく、木吉です。けれども木吉は人魚で、ほいほい人前に出るべき存在ではありません。それを分かっているからこそ、日向は悩んでいるのです。 うんうん唸る日向の背中で、木吉は手にしていた蝋燭を置き、ゆっくりと日向の腕を引きました。 「俺ね、この蝋燭を描く時は、いつも日向のことを考えてる」 「は?」 「日向が、笑ってくれますように。喜んでくれますように。幸せになれますように、って。だからね、日向は、喜ぶべきなんだ」 何処までも優しい瞳に、日向は顔を赤くしました。相手に慕情を抱いていたのは、何も木吉だけではなかったです。 「馬鹿じゃ、ねぇの…」 消え入りそうな声、喜悦を雄弁に語る赤い耳たぶに、木吉は笑ってそっと唇を寄せました。 |