あらら、あらわ。 | ナノ


木日

「ああ、どうか、どうか俺の訴えを聞いてくれ。あいつは酷い。酷い。酷い。厭な奴だ、本当に悪い奴だ。ああ、我慢がならない。
 あいつを生かしておいては駄目だ。このまま野放しにしたら、きっとまた犠牲者が出る。
 どうかあいつを滅茶苦茶にしてやってくれ。あいつは、手足を折られ、目玉をくり貫かれ、八つ裂きにされたって文句は言えないんだ。ああそうだ、俺とあいつは友人だ。チームメイトだ。齢は18、生まれた月はほんの1ヶ月しか変わらない、そんなの大した違いになんてならない筈だ、そうだろう?それなのに、あいつが今日に至るまでどれだけ俺に酷い仕打ちを続けてきたことか。自分で言うのもなんだが、心穏やかな人間である俺は、あいつの言動に耐えうるだけ耐えてきたつもりだ。それも今日で終わり。俺は気は長いが腹が立たない訳じゃない。寧ろ人よりずっと沸点が低くて、執念深いと自覚している。ここに来るまで、俺がどれだけあいつに尽くしてきたことだろう。周りの奴らは気付いているっていうのに、本人だけはちっとも気付きやしない。……いいや、あいつは知っている。知っていて、知らないふりをしているのだ。とんだ意地悪だ。あいつは俺から与えられることを恥ずかしく、悔しく思っているから、益々俺を軽蔑しようとするのだ。馬鹿なんだあいつ、それも致命的に。あいつは何もかもが自分一人でなんとかなると思っている。部員を叱咤し、記録を纏め、備品を調達し、それでも自主練は怠らず、自分がいなければ部が回らないなんて傲慢な使命を抱いて毎日走り回ってるんだ。これを馬鹿と言わずしてなんて言う?人一人が出来ることなんてたかが知れてる、どんなに気概があろうと限界ってもんがある。あいつが駆けずり回る内に落とした物一つ一つを拾って、あるべき場所に戻してやったのは誰だと思ってるんだ。今度こそは気付いてくれたかとそれとなく探りを入れても、あいつは俺に見向きもしないで、当然みたいな顔して檄を飛ばしている。その度に俺は打ちのめされた気分になる。ああこいつはちっとも俺の努力を認めてはくれないのだという失望。あるいは、褒めて貰えると思った自分に対する羞恥。そして、必ずこの思いを味わうと分かっていても、俺は手を伸ばさずにはいられないのだという絶望だ。苦しい。苦しかった。……やめてくれ。俺はゲイじゃない、そんな思いであいつに接してるんじゃないんだ。……まさか、お前。あいつをそういう目で見ているのか?お前が?お前、なんかが?……なんだ、違うのか。良かった。言うなら、そう、俺のこれは愛だよ。愛。不思議な顔をしているな、でもそれ以外に浮かばないんだから仕方ない。
 俺は本当を言うと、別にあいつが俺の涙ぐましい立ち回りに気付いてくれなくたってんだ。ただ一言、優しい言葉をかけてくれれば良いんだ。それだけで良いのに、あいつは俺を意地悪く詰ることしかしてくれない。ただ一度、あいつが薄暗い帰り道を歩きながら、ふと、俺の名前を呼んで、「お前って本当難儀な性格してるよな。認めて欲しいけれど自分でそれを言い出すのは怖くて、でもやっぱり気付いて欲しいから顔色伺って、それはとても生き辛い筈なのに、お前はもうそれ以外の生き方を忘れちまった。良いじゃねぇか。万人に分かって貰うなんて、無理だよ。お前を真実認めてくれる相手がたった一人いる、それで良いじゃねぇか。」ぶっきらぼうにそう言われたとき、泣き出さなかった俺こそ褒められるべきだった。慣れない慰めに開閉を繰り返す唇に噛みついて、暖かな場所へ帰ろうとする体を抱き締めて、俺は、心の底から叫びたかった。そのたった一人にお前がなってくれよ、と。例え世界中の誰もが俺を否定しても、あいつが肯定してくれたら、それだけで十分過ぎるくらいなんだ。俺はあいつを愛している。あいつを好きだと口にする、その誰よりも深く深くあいつを愛している。あいつを知る奴らが揃って囃し立てるその手のひらは、何も与えることは出来ないと俺だけが分かっている。それなのに俺はあいつから離れられない。あいつがもし此の世から消えたら、俺もすぐに後を追う。あいつ無しで生きていく自分を想像出来ない。俺には夢がある。ささやかな夢だ。それは、あいつが身の回りの一切合切を捨てて、あいつを知る者が誰もいない場所で、俺と一生を終えること。俺の祖父が昔買った土地、ここからずっと離れた山奥に、小さな家がある。側には桃の花が植わっていて、春が来ると良い匂いの花をつけるんだ。そこで一緒に暮らして欲しい。不便なことも多いだろうが、俺とあいつならなんとかなると確信がある。俺の願望はいつでも俺の喉奥に居座っていて、唇がその形を作ることを今か今かと待ちわびている。結局、あの日の帰り道で、俺は黙って頷くことしか出来なかった。後にも先にも、あいつが俺にそんなことを言ったのは、あれっきりだった。何度俺が告白される場面を見ても、あいつはもう何も言わなかった。
 俺はあいつを愛している。あいつが死ぬなら俺も一緒に死んでやる。あいつは俺のものだ。誰のものでも、あいつ自身のものですらない。あいつが誰かのものになるくらいなら、あいつを殺す。あの夕焼けの中、俺は一度あいつに殺されたのだ、俺が殺したって文句は無い筈だ。再び目覚めたとき、俺は黄泉の川岸に何もかも置いてきた。この身一つであいつの隣に立ち続けた。俺は神も仏も信じない。信じるのはあいつ、それだけ。あいつの美しさに誰も気付くなと毎日俺は祈っている。俺はあいつを愛している。あの高潔な美しい人を、ひたすらに愛している。あいつの傍にいて、声を聞き、その姿を見つめるだけで俺は幸せだ。欲を言うならば、俺の夢を、共に生きていくことを望んでくれたなら、もっともっと幸せだ。ああ、想像するだけで心が踊る!俺のこの純粋な、全くの善意の愛情を、どうしてあいつは受け取ってくれないんだ。ああ、あいつを殺してくれ。二目と見れない姿にしてやってくれ。お前にしか出来ない、お前にしか。お前をあいつの元に連れていってやるから、好きなだけ嬲ってくれて構わない。あいつは俺を嫌っているばかりか憎んでいる。常日頃から傍に寄り添い、支えてきたのに、どうして俺をあんなに毛嫌いするんだろう。
 ああ、聞いてくれ。ほんの3日前のことだ。その日は朝からどんより曇っていて、輪をかけて寒かった。部活の頃には雨が降りだしていて、買い出しに出かけたあいつとリコの帰りを皆そわそわしながら待っていた。帰ってきた二人を見て驚いたよ。あいつだけ全身水浸しだったんだから。聞けば、学校まであと少しのところで、横を通った車に水を引っかけられたらしい。庇ってくれてありがとう。リコはポケットから女の子らしい可愛いハンカチを出して、あいつの頬を拭う。ぶつくさ言いながらそれを甘受するあいつの目に、俺はもはや見慣れた色を見て、うんざりした。あいつにとってリコが特別なのは分かっている、分かっているが、理解しているということと受け入れられるということは別だ。俺は人の弱点を嗅ぎあてるのに慣れている。自分でも褒められるような特技ではないとは思うが、人が隠しておきたい本音や恥辱を瞬間的に探し出せるということは、結構役に立つものだよ。そんな俺の前で、あいつは間抜けにも真心を晒すのだ、取って食ってくれと言わんばかりじゃないか。こんな醜聞聞いたことがない。あれだけ女々しいものが嫌いだなんて喚いておきながら、思いを告げることもなく、ひたすら熱を孕んだ視線を向ける横顔は、秋波を送る女そのものだ。滑稽だ、馬鹿馬鹿しい。俺はあいつにタオルを渡して、着替えてくるようせっついた。受け取った備品をリコと一緒に整理している間、背中にはあいつからの燃えるような視線をひしひしと感じていた。あいつは、俺がリコと話したいばっかりに、自分を追い払ったのだと信じ切って、俺に嫉妬して見せたのだ。リコは快活で利発な子だ。さっぱりしていて物事を引きずらないし、下手に異性に媚びることもしない。俺が入院していたときは誰より見舞いに来てくれたし、俺の勉学に差し支えることのないよう取り計らってくれたのも彼女だ。リコは聡明だ。優しい。目を引くような美人ではないけれど、くるくる変わる表情は愛らしいし、手入れされた髪の毛はサラサラしていて、近付くと良い匂いがする。俺だって、本当は、買い出しに付き合おうと思ったのだ。彼女一人では大変だと立ち上がりかけた俺を遮って、さっさと横に立ったあいつ。二人に任せておけば大丈夫だ、なんて言われたら、引き下がるしかないじゃないか。道すがら、二人は何を話したんだろう。部活のこと?授業のこと?傘を並べ肩を寄せて、くすくす笑いあったのだろうか。あいつが跳ね上がった水からリコを庇ったとき、あいつの手はリコの肩を掴んだのかな。傘も持つのも忘れて彼女を引き寄せて、そしてなんてことない顔で、大丈夫だなんて言ったのか。全ては二人しか知らない。二人しか。ああ忌々しい。口惜しい。そう、俺は口惜しいのだ。俺はあいつに殺され、何もかも捨ててきた、それなのに、あいつは何もかも受け取ろうとする。狡い。あいつが俺からリコを盗った、いや違う、リコが俺からあいつを盗った。ああ、俺は何を言っているんだ、駄目だ、こんなことは。違う、俺の言っていることは全て出鱈目だ、信じないでくれ。俺は俺が分からない。すまない。こんな情けないことを言いたかったんじゃない。ああ、けれど、俺の胸の内に渦巻くこれは紛れもない嫉妬、なんて醜い感情だよ。全てを擲ってあいつに尽くしてきた俺には優しい言葉一つかけることもしない癖、あいつはリコを当たり前のように気にかける。口惜しい。ああ、美しいあいつ、美しかったあいつはどこに行ってしまったんだ。色恋に溺れ、ただの人間に身を窶したか。残りの箱を取ろうとした俺の手とリコの手が触れて、彼女の白い頬がぱっと赤らんだのを見たときに、俺に悪魔がとり憑いたに違いない。あいつを殺してやらなくちゃ、とふいに思ったんだ。何もかもが不純。何もかもが穢らわしい。このまま生きてもあいつはいずれ誰かに殺される。その前に俺が殺して、そして俺も死ぬのだ。それが良い。もうそれしか道は残されていないように思えた。落ちぶれたあいつを救うのはもはや死しかないのだ。俺が一度死に再び甦ったとき、景色が全く変わって見えたように、あいつも一度死んでみれば良い。
 勘違いしないでくれ。確かに殺してやろうと思ったけれど、すぐに行動に移そうと思った訳じゃない。剪定を間違えれば花は枯れるように、タイミングというものを弁えなければ実は就かない。そして今日という日がやってきた。お前も知っているだろう、冬の予選。俺たちは順調に勝利を重ね、あと少しで本戦への切符を手に入れるところまで来た。ああすまない、軽率だったかな、悪い。お前のところと当たれなかったのは残念だった、せっかく約束したのにな。……ははは、冗談だ。むくれるなよ。とにかく、その最終調整が今日だったんだ。皆気合い入ってたよ。数々のメニューをこなすのにとられた休憩はほんの10分だった。そのたった10分間に、あいつは許されがたい罪を犯した。ガシャン、だかドガン、だか、とにかく大きな音が聞こえて、コートに出ていた全員が部室に飛んでった。部室にいたのはあいつと、あいつと同じSGに任命された一年生。高校でバスケを始めたと言うそいつはチーム唯一のSGであるあいつによくなついた。何度もあいつのシュートは凄いと口にしていたから、憧憬とか敬慕とかもあったんだろう。適当に他人をあしらうやり方を知らないあいつは、剥き出しの好意にほだされるがまま、よく面倒を見てやっていた。だから、そいつの不調にあいつが気がつくのは当然だった。競り合いから無理矢理放たれたシュートは僅かにそいつの手首の許容を超えていた。手を離せないリコや俺に代わって、テーピングしてやる、と、あいつは休憩が始まって直ぐ様そいつを部室に引きずっていったのだった。それがほんの数分前。テーピングとは思えない不穏な音の正体、扉を開けて俺たちは絶句した。何してる、と真っ先に怒鳴ったのは伊月だった。弾かれたようにあいつは一年の胸ぐらを掴んでいた手を離し、入り口で呆然としている俺たちを押し退けて、体育館を出ていってしまった。咄嗟に背中を追おうとした俺の肩を掴む伊月。後は任せた。そうして、リコ共々外へ飛び出していってしまった。仕方なく見渡してみれば、そいつは勿論、皆一様に不安げな表情をして固まっている。大事な大会を直前に控えた今、チームの不和を致命的にさせてはいけない。俺はなるべく優しい声を出して、床に座り込むそいつをそっと支え、ベンチに座らせてやる。そいつの右手に施されたテーピングは一分の狂いもなく美しいのに、渦巻く空気はどこまでも歪だ。そいつ以外の部員に休憩を続行し、時間が過ぎても気にせず始めておくよう告げ、コガにリコから託されていた次のメニューを渡す。個人強化重視のメニューは、とても集団では動けそうにない今の状態ではありがたかった。降旗や黒子が行こう、とそいつを気にする同じ一年たちを積極的に急かして、漸く部室は俺とそいつの二人きりになった。俺は何も聞かなかった。耐えかねてそいつが口を開くのは分かっていた。やがて、罪人が懺悔するかのように粛々とそいつは語り出した。分かりません。小さな声だった。もう少し大きい声を出してくれないかな、ぼんやり思う。青白い顔でそいつは続ける。俺は、ただ一言言っただけなんです。テーピングのされた右手を庇うように抱き締めるのは無意識だろう。……何気ない話の中で、シュートの話になりました。「今日は調子良いな。来週の試合でも、宜しく頼むぜ。」そう褒められて、俺は嬉しくて、嬉しくて、咄嗟に謙遜した、つもりだったんです。先輩の方こそ。……そいつは一度言葉を切り、唾を飲み込んだ。謙遜で言ったんです。先輩の方こそ、もうずっと、シュート外さないじゃないですか、って。

 あいつは屋上にいた。冬の冷たい風がびゅうびゅう唸って、えらく寒かった。練習中の半袖と短パンにジャージの上だけ引っ掛けた背中は見ているこちらが寒くなる。俺は二人分の鞄を下ろして、あいつに近寄った。「もう駄目だ。もう駄目なんだよ。」肩を掴んでこちらに向かせると、あいつはしきりにそう繰り返していた。レンズの向こうの瞳は絶え間なく動き、青紫色になった唇が戦慄くのは、寒さのせいだけじゃない。見ていられなくて思わず抱き締めた。あんなに焦がれた身体は氷のように固く、冷たく、ちっとも俺の心を温めてはくれなかった。されるがままのあいつは、俺に寄せられるがまま肩口に顔を埋めて、呟く。「俺は、お前がいなければ勝てない、なんて言われるようなチームには、絶対させたくなかった。」俺の震えにあいつが気付いたか知れない。俺は一度息を止め、ゆっくり吐くことで、胸の内を誤魔化すことに成功した。「だから努力したんだ。あいつらにも努力させた。そうしてここまでやってきた。……やってこれてしまった!」突然顔を上げたあいつに驚き、軽く顔を仰け反らせた俺を、あいつの目は真っ直ぐに射抜いていた。鋭い痛みに自分の左手を見れば、逃がさないとばかりにあいつがしっかりと俺の手首を掴んでいた。あれは痛かった。苦しかった。っ!……ああ、この痕だ。袖に隠れたこの場所を、お前は最初から気にしていたな。流石だよ。もう良いか、離してくれ。……。悪趣味だな、相変わらず。あの時のあいつは、今のお前みたいな嫌な顔をしていたよ。何が可笑しいのか唇を吊り上げて、目を細めて……。「俺はもう一度の試合で3回しかシュートを外さない。分かるか、3回だ。百発百中のあいつのようにはいかないが、それにしたって畏怖されるには十分だ。分かるか。なぁ、俺は、俺は、俺は!俺は、もう、ただの化物なんだよ!」
 桜の花がすっかり散って、夏の日差しがちらちら肌を焼き始めた頃の交流試合。その第3Qで、あいつはいきなり覚醒した。今思えば、あれは覚醒なんかじゃない、あいつが人間の皮を破り捨てた瞬間だったのだ。あいつに渡されたボールは2つを除いて全てゴールネットをくぐった。絶好調だな、と肩を叩く土田に曖昧な笑みを返し、右手を開いては閉じるあいつ。窮屈だった皮を脱ぎ去り、本性を現したあいつは、最初こそ戸惑っていたが、無事に勝利を納めた後はご機嫌に笑っていた。「一度に折るフィギュアの数を、倍にしただけあったな。」なんて、茶化し合いながら。笑っていられたのはその頃だけだった。あいつのシュートは月日を重ねるごとに精度を増した。どんなにボールが回されても3本以外は全て決める。最早運や努力なんて生易しいもので片付く話ではなかったが、誰一人として疑問も懸念も口にしなかった。凄いです、とひたすら瞳を輝かせる後輩の存在もあって、化け物はついぞ見つかることはなかったのだ。化物はのうのうとあいつの内で息をし、コートの上の人間を蹂躙するだけ蹂躙して、そうして今日まで生きてきた。「どうして俺が化物になったか分かるか。いいや、分からないなんて言わせない。」俺は咄嗟にあいつの口を塞ごうとした。喉の奥から溢れようとしている、その言葉だけは口にしてはならない。直感だった。俺は左手を出そうとして、その手が拘束されていることを思い出した。しまった、と俺が思うより先に、化物は血を吐くように叫んだ。叫んでしまった。
「もう、コートのどこにも、お前がいないからだ。」
 ………………ああ。この瞬間の俺の悲哀が、喜悦が、お前に分かるか。それは決して言葉にしてはいけなかったんだ。どれ程身の内で暴れ狂おうと、固く蓋をして鍵をかけ、秘めなければいけない感情だったのに。あいつは、それを口にしてしまった。俺がどれだけその言葉に打ちのめされ、同時にどれだけ救われたことか。俺だってずっとあいつと一緒にコートにいたかった。切磋琢磨する仲間の横で、動かない膝を抱えて、俺は何度も考えた。俺ならああやって動く、俺なら今のリバウンドは取れた、俺なら、俺なら……。誰か一人にでもこの心を打ち明けたら楽になれた?泣き喚いたら神様が見かねて元通りにでもしてくれたのか?出来る訳がない。俺に出来たのは全部整理がつきました、何一つ悔いなんてありませんって顔をして、一日でも早く俺のいないチームを完成させること。誠凛が誠凛としてこれからも戦っていくには、余りに時間が無さすぎた。そんな顔するな。俺は過去の自分も、お前も、恨んではいないよ。約束を果たすにはそれしかなかった。そして約束は叶えられた。ハッピーエンドじゃないか。物語は大団円だ。俺が許せないのは、どんなに辛く、苦しくても、あの輝かしい勝利のために今後の人生を棒に振ったって構わないと決断した過去の俺を、無遠慮に切り捨てたあいつだ。あいつの言葉のせいで俺はブレる。過去の自分も決断も疑いたくなんてないのに、「もう、コートのどこにも、お前がいないからだ。」なんて言われてしまったら、俺は、選択を間違えたと思うしかないじゃないか。酷い。こんな酷いことがあってたまるか。俺は何もかも受け入れた、未練は勿論執着も凝りも何も無い、だからお前たちは何も気にしなくて良いんだって、笑えていたのに、ずっと笑ってなきゃいけなかったのに、そのたった一言が必死に積み上げてきたものを壊した。壊してくれたから、俺は自由になった。あいつも俺を必要としてくれていた。それも、人間を捨ててしまえる程に、長く、深く。その事実は免罪符として甘く俺を誘惑した。コートから俺が消えれば、必然的に内の守りは弱くなり、外の攻撃はより一層その重大性を増す。3Pスコアラーであるあいつにかかるプレッシャーはどれ程のものだっただろう。あいつはただでさえ一人で思い悩む癖があるから、きっと想像も及ばない葛藤や絶望があったんだろうな。あいつは考えに考え、そして無意識に人間としての自分を捨てたんだ。化物として生きながら、あいつは今日に至るまでそれに気付かなかった。いや、気付かないふりをしていた。その柔らかな心臓に刃を突き立てたのはあの後輩だったね。じゃれつき回っていた子犬に噛み殺されるなんて、お似合いな最期だったじゃないか。もうずっとシュートを外さない、その異常性を、皆言わないだけで知っていた。化物であるあいつを守ってくれていたのは、あいつが殺した人間の、優しさだったのに。思わず溢した本音があいつの目を開かせてくれたことに、俺は喜ぶべきか分からない。だって、だからこそあいつは根底に居座る俺の存在を直視せざるを得なくなった。仮面をつけた俺に騙されるがまま、割り切ったかのように自分も装って、二人で続けた喜劇はもう終わりだ。あいつがどれだけ俺を憎もうと、あいつは俺のために自分を丸ごと変えられてしまうと、あいつは自ら認めたんだ!俺から延々と逃げ続けた、あいつ自身が口にした!言ったならもう取り返せない、俺が覚えている。俺は決して忘れない。ああ面白い。可笑しい。頬を流れる涙が、喜びなのか悲しみなのか、はたまた怒りか憎しみなのか、俺には判然としなかった。俺の腕の中で、あいつも泣いていた。吸い付くように舐めるとしょっぱかった。次から次に溢れてくるあいつの涙に唇を寄せながら、俺は満ち足りた気分だった。声も無く涙を流すあいつの心は分からなかったが、あいつの存在自体が俺への愛の証明と思えば、涙の一滴すらいとおしくてたまらなかったし、無慈悲に切り開かれた傷口は鮮血を垂れ流していたけれど、ちっとも気にならなかった。俺は幸せだった。あのたった数分の間だけ。いつだってそうだ。俺の幸せは長くは続かない、いつも、いつも、いつも……。
 抱き締めていた体の震えにぎょっとしてあいつの顔を覗きこむと、あいつは笑っているのだった。「ふふふ……ふふ。」歪む唇は青紫、無理矢理絞り出された声は細く低い。困惑する俺は、痛々しく笑うあいつをせめて落ち着かせようと背中を撫でるしか出来なかった。そうこうしているうちにあいつの笑いはどんどん大きくなって、しまいには耳を塞ぎたくなるほど大きくなった。俺の肩に顔を押し付けているためにくぐもった声は泡みたいにボコボコ弾けてむず痒く、俺まで変な気分になってくる。いい加減に止めて欲しいな、という俺の心を読んだのか、あいつはぴたり沈黙し、そのまま微動だにしない。一体何なんだ、と首を傾げていた俺は、完全に失念していた。
 あいつは殺すべき相手であったことを。
 「俺が、憎いか……?」囁きは身長差から唇に届けられた。瞠目する俺の目と鼻の先、あいつの唇は再び形作る。おれが、にくいか?意図が読めず言葉を詰まらせる俺を肯定ととったあいつが微笑む。「そうだよな。だって、お前からバスケを奪ったのは俺なんだから。」衝撃は俺の意識を奪った。目の前のあいつの顔すら白み、潮騒のように耳の奥にノイズが走る。手首を掴むあいつの指の生々しい感覚だけがかろうじて残っていた。「手術をしたら高校では無理でも将来的には完治する。手術無しでリハビリを続ければ一年だけはバスケが出来る。お前が後者をとることは分かっていた。だから止めても無駄なんだろうって俺は言った。お前はそれを認めた。お前の本気の決断に、俺は応えたかった。お前と交わした約束は、お前を欠いた誠凛を、俺自身を生かす柱になってあり続けた。お前が帰るまでは、お前と一緒に全国優勝するまでは。そう何度も心で叫んで、歯を食い縛って、一年がむしゃらにやってきた。そうして、冬の大会が終わった。お前がコートから消えたのも、そのすぐ後だったな。」とん、と胸を叩かれた。弱々しく握られた拳は何度も俺の心臓の真上を打った。「お前がいないコートで何度も何度もシュートを撃たなければならなかった俺の気持ちが分かるか。お前のユニフォームをとうとう手放すしかなかった俺の絶望が。何食わぬ顔の下で動けない自分を呪うお前に、俺が気付いていないと本気で思っていたのか。そうだとしたらお前はとんだ大馬鹿野郎だ。俺が化物になったことなんてとっくに気付いていたさ。でも、そうでもしなきゃ俺はとっくにお前に縋ってただろうよ。どうしてお前はコートにいないんだって。そんなことを言ってしまったら、お前を真正面から裏切ることになるじゃないか。分かってた。でも言いたかった。お前が笑顔で俺たちにドリンクを渡すたびに、後輩たちを指導する姿を見る度に、お前の居場所はそこじゃないだろうって、暴れてやりたかった。白線の向こう側で俺の名を呼ぶお前を見るたびに、俺はお前がコートに立つ姿を想像する。創部したばかりの、まだ先なんて全然見えていなかった頃の俺たちを想像する。ありとあらゆる想像をする。」耳鳴りは激しい頭痛に変わり、絶え間なく俺を責め立てていた。あいつの言葉が理解出来なかった。いや、したくなかった。「そして必ず想像はあの夕焼けに行き着く。後者を選ぶ、とはっきり肯定したお前に、何を馬鹿なこと言ってるんだ、怪我人は黙って治療に専念しろ、バスケなんて生きてれば何度でも出来る、別に高校時代に固執するようなことじゃないだろうって、言ってやれるような馬鹿になれなかった俺に。」あいつはとうとう頭を抱えてしまう。「俺は言ってやるべきだった。家族でも医者でもなく、お前のバスケに対する揺るぎない情熱を間近で見ていた俺たちが、俺こそが、お前にそう言ってやらなきゃいけなかったんだ。けれど俺はそれをしなかった。そして、そうしなかった俺は、果たして本当にお前のことを理解して言わなかったのか?お前がいなくなれば勝てなくなると、咄嗟に考えたんじゃないのか?間違っても高校ではバスケを諦めるだなんて考えてくれるなと、お前に考える暇を与えたくなかったんじゃないか?」もう止めてくれ!心の中で叫んでも、言葉にならなきゃ同じことだ。あいつがそんな賢い訳がない。あいつには、人を出し抜くなんて真似、無理だよ。俺はそんなあいつだから信じた。心底愛したんだ。「俺のシュートは俺の功績じゃない。本来ならお前の獲る点だったと、常に頭の中で誰かが囁くんだ。そしてそれはきっと正しい。おかしいな。俺はお前の為に化物になったんじゃなかったっけ。」お前のそれは検討違いも甚だしい、全くの冤罪だと、俺は確かに思った筈なのに。俺はとうとう最期まで動けなかった。そうこうしている内に被告人は自白を止めて自ら断頭台へ駆け上がっていく。「お前がこんな俺を憎むのは当然だ。正しいお前、優しいお前は認めないかもしれないけれど、お前だって人間だろう。お前が誰かを殺したいと願ったって、誰もお前を罪に問えない。お前自身ですらその衝動は止められない。」あいつの右手が俺の頬に触れて、そこで漸く俺は両手が自由になっていることに気付いた。ああ、今度こそ口を塞がなくちゃ。もう、もう、何も聞きたくはない。果たして俺の震える両手はあいつの肩を掴むに留まった。あいつの遺言を聞き届けることが、俺に出来る最後の餞だった。終わりにしよう。あいつは目を閉じる。
「だから、お前だけは、俺を殺したって良いんだ。」
 瞬間、俺はあいつの体を突き飛ばして走り出していた。軽い体だった。仰け反ったあいつは床に打ちすえられたかしれない。振り返らなかった俺には分からない。あいつは俺の好意も憎悪も憐憫も殺意も嫉妬も愛情も何もかも全て知っていて俺の隣にいたのだ。誓って言う。俺は最初からあいつを殺したいと思っていた訳じゃない。そんなことこれっぽっちも考えてなかった。本当だ。愛している。愛していたんだ。信じてくれ。俺はあいつを愛していたのに。俺の存在があいつを苦しめ、あいつの存在が俺を苦しめるのなら、俺はどうしたら良いんだ。どうしたら良かったんだ。分からない。もう何も分からない。殺そう。そうだ、殺そう。あの化物を殺そう。俺は最初から、それこそ出会ったときから、あいつを気に食わないやつだと思っていたのだ。ああそうだとも。俺からバスケを奪ったのは、俺の人生を変えたのは、俺の浅慮な自己犠牲でもお前の狡猾な策略でもない、あいつだ。あいつだったんだ。ああおぞましい憎たらしい。よくも俺の人生を滅茶苦茶にしてくれたな。甘い言葉で俺を唆して堕落させ、今日まで騙し通したあいつの演技には舌を巻くよ。愚かにも踊らされた俺は本物の馬鹿だ。間抜けにも程がある。さぁ俺を嘲笑ってくれ。何を呆けた顔してる、人を弄するのはお前の本領だろう。そう、お前。可哀想になぁ。俺から全部奪ったつもりで高笑いしていたんだろうけど、全部あいつの手の内だったんだよ。可哀想にな。悔しいだろう。悔しいと言え。お前は知らないままあいつと共犯になっていたんだ。可哀想。本当に、残念だ。お前は俺を殺した加害者でもあり被害者でもある。だからお前は俺に罰されなければならないし、あいつに報いる正当な理由がある。良かったな。ああ、一つ思い出したんだが、俺、屋上に鞄を置いてきてしまったんだよな。優しいあいつはきっと届けに来てくれるだろう。ところで、俺の家の最寄り駅から誠凛までは、何分か電車に乗らなければならないのだけど、そこの駅を使う人が結構多くてさ、階段から落ちて怪我したりする人が絶えないんだ。俺も膝患ってるから、毎回怖くて怖くて。……どうした。顔色が悪いぞ。もう帰った方が良いかもしれないな。ここから駅ならすぐだから、なんなら送ろうか?なんだよ遠慮するなって、俺とお前の仲じゃないか。目を反らすな、受け入れろ。お前が潰した未来の終着点がこれだ、どうしてお前だけがのうのうと生きられるだなんて思ったんだ?お前は俺と一緒にあいつを殺し、永遠にその傷を抱えて生きていくんだ。この道を選んだのはお前なんだ、お前自身が間違っていないと証明しろ。逃がしてなんかやらない。俺はお前を許さない。絶対に許さないからな、花宮真。」

if(畏怖)

太宰治「駈け込み訴え」より




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