うやむやむやむにゃ | ナノ


(花日)

雪山に行こうぜ。なんなら誠凛の連中を誘ったっていい。こっちも何人か連れてくけど。
手渡されたのは電車で数時間とかかるゲレンデへのチケットだった。一枚で団体用も兼ねるそれを貰って、しかし待ち合わせ場所に日向は結局一人で行った。駅の噴水近くで一人佇んでいた花宮が驚くのを笑って、二人は電車に乗った。


ゲレンデに人はいなかった。三月ともなれば人の目はすっかり来るべき春に向けられていて、まだまだ雪の残る山などもはや見向きもされない。
閑散としたスキー板やらボードの貸し出し場に来て、日向と花宮が選んだのは一つの橇だった。元々花宮は雪遊びに興じる気はなかったし、日向に至ってはスキーやスノーボードは全くの素人であった。
二人はただ雪山に来るに見合っただけの装いで、ずるずると真っ赤な橇を引きずって、もくもくと歩く。


坂を上る途中、会話らしい会話は無かった。どちらも喋る質ではないし、何より静寂と純白の景色が口を閉じさせた。無言で前を歩いていた花宮が、ああ、と思い出したかのように口を開く。
「眼鏡、大変なことになるだろうから。俺が前に乗ってやるよ。」
偉そうに言うことでもあるまい、この男は何かと上からで物を言いたがる。うんざりとしながら日向は不満をぶちまけそうになる口をマフラーで蓋をする。この男との会話は些細なことでも己の神経をいたく逆撫でするのだ。


大したことはないだろうと思っていた坂を上りきると、その高さに驚く。延々と続く真っ白な斜面は底の見えない切り立った崖を思い起こさせた。突然、日向は無性にそこを滑り降りることが怖くなった。
「俺は良いわ。お前だけで滑ってこいよ。」
「はぁ?何のためにここまで引っ張ってきたと思ってんだよ。」
良いから乗るぞ、と半ば強引に腕を取られ、渋々と日向は花宮の後ろに収まる。一般的な大きさの橇は男二人が座るには些か小さく、否が応にも花宮の背中と日向の腹は密着した。
日向から前はよく見えない。それがまた妙に恐ろしい。橇の命運は全て前に座る花宮が握っているのだ。その上にいる自分たちも。


もぞもぞと花宮が身動ぐと、橇は一度大きく傾き、それから段々とスピードを上げて落下していった。
思っていたよりずっと速いそれに、日向はひょっとすると悲鳴をあげていたかも知れない。
びゅうびゅうと雪を孕んだ風が顔や肩を叩き、成る程これは自分が前にいたら酷い有り様になるな、と納得した。耳元ではためく自分のマフラーすら鬱陶しく感じて、そう言えば花宮はマフラーをしていないと今さら気付く。
ごうごうと耳の中で渦を巻く風のやかましさに、日向は耐えきれず花宮の肩に顔を押しつけた。と、その時。

「俺は、メガネ君が、好きだ!」

え、と思わず上げた顔に風が雪が直撃して、日向は慌てて顔を花宮の背中に埋め直す。
一体、彼は今なんと言っただろうか。そもそも、本当に彼の言葉だったのだろうか。風の音ではなかったか。
あの夏の日に宿敵とも言うべき関係が築かれて、何をどう間違ったかお互いの連絡先を手に入れて、二人きりで会うようになって、知りたくもなかった体温を知った。それでも明確な言葉は一度として交わされたことはなかったから、日向にとって花宮は相変わらず友達、いやそれ未満の存在のままでいる。
それなのに。


強い衝撃にはっとして周りを見渡すと降りて来たばかりの坂が背後にある。いつの間に下に着いていたのだろう、さっさと橇から降りていた花宮は、呆然と座り込む日向を見て笑った。
「ふはっ。ひっでー顔。」
嫌みったらしい歪な唇の端も、三日月のように細くなる目の形も、普段と全く変わらない花宮のものだ。あんまりにも自然な挙動に、あれは幻だったのかもしれない、と日向は唐突に思う。
花宮を問い質すことは何故だか憚られた。どれだけ目を凝らしても、花宮の表情からは肯定も否定も見つけることは出来なかった。
「……どうだった?」
花宮はずっと面白いものを見つけた子供のように笑っている。寒さで上気した頬も相まって、その姿は随分幼く見える。
日向はこくりと唾を飲み込んだ。
「もう一回。」


今度は橇を引くのは日向の役目だった。結構力いるなコレ、と汗の滲む額を拭いながら斜面を上っていく。この辺で良いだろうと花宮の言った地点に橇を離すと、何も言わずに花宮は橇に乗り込んだ。
「乗らねーの?」
頂上から見る底の景色はやはり日向の足を竦ませた。普段高所を恐れることなんてないのに、どうしてこんなに不安になるのか、日向自身も分からなかった。それでも。
「……乗る。」
恐怖は果たして好奇心に負けた。


花宮が地面を蹴ってすぐ、日向は思い切り歯を食い縛った。幻のようなあの声が、自分の悲鳴で掻き消されないように、強く強く。
ああそうだ、ここらへんだった。ぐっと橇の速度が上がったところで、日向は意識を聴覚に集中させる。花宮のコートを掴む腕に思わず力が入った。
相変わらずごうごうと嵐のような風が二人を包み込む。息も出来ない風圧を受けて、まともに目も開けていられない。後ろに座る自分がこうなのだから、花宮に声を出すことなど出来るだろうか。ふと、日向の心に疑念が過る。一度疑ってしまえば、 益々その考えは現実味を帯びた。日向は苦笑する。声なんて聞こえなかった。一人で混乱して、緊張して、馬鹿みたいだ。橇に乗っていることも忘れて、日向は全身から力を抜いた。刹那。

「俺は、メガネ君が、好きだ!」

ーーああ!その時の日向の驚愕といったら!慌てて掴んだ言葉は瞬く間に風と一緒に手をすり抜ける。そもそも言葉なんて存在したのだろうか?じれったさに日向は喚き散らしたくなった。
橇はやがてゆっくりと止まる。帰ってきた静寂と変わらない景色が日向の確信を鈍らせた。花宮は結局言ったのか、それとも言わなかったのか?分からない。日向は途方にくれた気分になる。荒れ狂う日向の心情を知ってか知らずか、花宮は軽い口調で問う。
「どうだった?」
返事は決まっていた。
「もう一回。……次はお前が、橇持ってけ。」
花宮は、なんだそんなに気に入ったのかよ、とやはり笑うだけだった。


それから、花宮と日向は橇を交代して引きずりながら、幾度となく斜面を行き来した。時々思い出したかのように嫌味を言ってくる花宮に、やっぱりこいつがあんなことを言う訳がないと舌打ちして、けれども、滑る途中であの声を聞く度に日向は泣きたくなった。「どうだった?」「もう一回。」何回繰り返しても結果は何も変わらなかった。日向はとうとう決断を下せなかったし、花宮はそんな日向を笑うだけだった。


そろそろ帰ろうぜ、と花宮に促され、二人は疲れきった体を引きずり橇を返しに行った。最寄りの駅に着く頃にはすっかり陽は傾いていた。
暖房のきいた暑すぎるくらいの電車内で、買ったばかりのコーヒーをすすりながら、なんてことのないように花宮は言う。
「俺、寒いの嫌いなんだよね。」
コートに残る雪を払いながら日向も応える。
「知ってた。」

きっともう二度と雪山に行くことはあるまい、と日向は思った。
そして、あの声を聞くことも、二度と。

二人を乗せた電車は、真っ直ぐに終着駅へと進んでいく。

(謎は謎のまま残る。)



チューホフ「たわむれ」より。




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