(上) | ナノ


・火神くんが虎
・帝光時代
・黒火?


火神大我は虎である。
哺乳綱ネコ目ネコ科ヒョウ属に分類される、紛うことなく虎である。鋭い爪、口から覗く牙は、磨きあげられた大理石のようにつやつやとしていて、光に反射し輝く黄褐色の体を、黒い横縞が鮮やかに彩っている。火神大我は虎である。しかし彼は元々人間であった。

何時からこうなってしまったのか、火神はよく覚えてはいない。気が付けばこの森で、息を潜めて生きていた。日本では決して野生では存在しない虎。もし見つかればどうなるか、動物園から脱走した黒豹が、山から降りてきた熊が、辿る末路は決まっている、人間に仇をなすものは排除される。例え何もしていなくても。それを元人間の火神は正しく理解していた。幸いにも、この森は人の集まる場所からずっと遠くにあるらしく、この姿になってから、火神は人間がこの森を歩くのを見たことが無かった。

バスケがしたい、と火神は思った。人間だった頃、まだ両手が、両足があった頃、火神はバスケが大好きだった。四六時中ボールを追いかけ、ゴールネットに向かってひたすら走り続けた。チームメイトにも恵まれて、随分楽しい時を過ごしていたと思う。推量なのは、もう記憶がほとんど曖昧だからだ。虎になってから、火神は人間としての自分がどんどんと形を失っているのを感じていた。四つ足で走ることの自然さ、獲物を前に、姿勢を低くして完全に気配を断つこと、真っ先に噛みつくのは喉笛だと、誰が教えてくれた訳ではないのに火神にはそれが出来る。
――野生。
いつか誰かが自分をそう評した。全くその通りだ、と笑っても、喉から出てくるのは獣の唸り声で嫌になる。
(ああ……もう!)
衝動のまま一声、森の端から端まで響き渡った咆哮は、夜の深い闇に吸い込まれて消えていく。眠りから叩き起こされた森の住人が何かしら声をあげるかと、ほんの少し期待したが、しんと静まりかえるばかりだった。


ほら、もう、誰も見つけてはくれない。
火神大我は、虎であった。


***



日本の冬は冷える。基本的に虎は暖かな地域を好む生き物だ。だから、冬の寒さは心底火神を辟易させた。しかも冬になるとこぞって餌となる動物は冬眠を始め、ろくに腹を満たすこともままならなくなる。
ああ、またこの季節がやってきてしまった。
寝床にしている洞窟から起き上がり、ふあぁと欠伸を溢しながら、火神はのたのた入り口に向かう、ぴゅうと吹き付ける風は、人間であった頃には気付かなかった、色んな匂いを連れてくる。北からやってきた冷気が火神の鼻をくすぐり、ぷしゅ、と小さくくしゃみが出た。
(冬が来る、)
これからどうしよう。昨日からろくに食べていない。元から動物が多い森では無いのだ、しかも、自分の存在によって、益々動物は一帯から離れていっているように感じる。
(また野ネズミを探すしかねーかあ)
人間だったら卒倒するだろうメニューだが、いかんせん火神は虎だ。獣だ。最初こそ躊躇していた火神も、今となっては食べれそうなものは基本的になんだって食べる、例えそれが腐りかけの鹿の肉だったり、熟れすぎてぐちゃぐちゃになった果実だとしても。ぐるると鳴る腹をなんとか満たすべく、火神は水飲み場にしている湧き水へと道を急いだ。



***



限界を感じていた。大好きだったバスケに理由が見出だせなくなった。純粋な気持ちでパスを出すことが出来なくなった。良いですね、君は、君たちは、必死に僕が繋いだパスを、何の感慨も無くゴールネットに放り投げる、2点(3点)、僕がどれだけ望んでも手に入れられないものを、簡単に、あっさりと、当たり前だと笑いながら。例えば僕が、このコートの真ん中で、一歩も動かなくなったとして、何か変わる?そのボールは、君たちの手に届くのですか?――届くのだろうな。いや、届かせるのだろうよ。神様が、才能が。

ならば、何故、僕は、ここに。

『今日の試合。黒子、あれはなんだい?』

手にしているシャーペンを、何度も何度も回す時は、彼の機嫌が悪い証拠だ。

『あれ、とは?』
『しらばっくれるな。後半、お前はコートの中心から、動かなかっただろう』
『…ああ、』

バレていないと思ったのに、見えていたのか、ちょっと意外だった。

『試し、です。僕が動かないと、ボールがどう動くのか―見てみたくて』
『それは、試合中に、しかも、お前が出ている時に、する必要があることか?』

くるくる、くるり。持ち主らしいシンプルで細身なデザインのシャーペンは、一瞥すら向けられないまま、主人の指の上で回る。

『少なくとも、僕にとっては』
『……もう良い』

暫くお前は来なくて良い。
向けられた背中が、拒絶を示す。着替えを終え、既に体育館の入り口にいた他のメンバーが、ちらちらと視線を向けてくる。心配。疑念。非難。――君たちに、何が分かる。
結局、部室で二人きりになる気まずさに、手持ちのジャージだけ着て、制服は適当に鞄に入れて、(ぐちゃぐちゃになったが、構わずチャックを閉めた)僕は体育館を後にした。人の輪を押し退けて出ていく僕に、声を掛ける人は居なかった。

ほら、もう、誰も見つけてはくれない。
黒子テツヤは、影であった。



***



(ん……?)
何か、良い匂いがする。火神は閉じていた目を開き、立ち上がった。結局大した獲物は見つからず、朝から満たされない腹を抱えたままだった火神は、食べ物の香りに敏感だった。夜の闇は深い。しかし火神にとって何の障害にもならぬ。匂いのする方向へ、火神は走り出した。



***



枝を避け、ひたすら歩く。
視界は最悪、先ほど転んで打った膝が痛い。血が出ているのかもしれないが、暗闇で確認出来る訳もなく、放っておいた。

「…は、」

振り返ってみる、木立の隙間から町のネオンがちかちかと瞬いている。随分登ってきたらしい。それでもまだ、天辺は遠い。

黒子が裏山に行こう、と思ったのは、偶然だった。制服がぎゅうぎゅうにつまった鞄を引きずりながら、家の扉を潜ろうとしたとき、ふと、目に入ったそれ。周りの山から切り離されて、住宅地にぽつりと浮かぶ姿は、異物感を拭いきれない。似ている、自分と。そう思ったら、足は勝手に動いていた。

……そんな、30分前の自分を、呪いたくなる。進めど進めど終わりの見えない道程に、黒子は若干うんざりしていた。道などとうに無く、獣道を使いながら、それでも前に進む、非生産的な行為。
(……何をしているんだ、僕は。)
冷静なもう一人の自分が引き返せと叫んでいる。暖かなお家に帰りなさい、布団の中で丸まって、何もかも忘れてしまいなさい。

どうせ誰も、見つけてはくれないのだから。

分かって、いる。無駄なこと、足掻いても意味などないこと、とっくに。

「――――っ、」

誤魔化すように足を踏み出した、小石のゴリゴリした感触を靴裏に感じて、支えも無く進むことを危険と判断する。バランスをとるために、横にあった藪の枝を掴ん、だ、

その瞬間。

何か大きなものが眼前に飛びこんできた。黒子が反射的に足を止める。大きなものも、動きを止める。お互いが、お互いの存在を認めて、

「うわぁ!?」
「ええっ?!」

叫んだ。片方は足元の落ち葉に足をとられてすっ転び、もう片方は滅茶苦茶に藪の中に飛び込んだ。まさか自分の他に誰かがいるとは思わず、おずおずと黒子が声をかける。

「だ…誰ですか?」
「お、お前こそ!こんな所で何してやがる!?」

獲物だと思ったのに、どうして人間がここにいる?!ばくばくと鳴る心臓を宥めながら、大きなもの――火神は吠えた。

「………って、ああ?俺、喋って……?」

その声は、醜い獣の声ではない。

「……あなた大丈夫ですか?頭ぶつけたんですか?」
「うるっせーな!!あ、あー…俺の声って、こんなんだっけ……」

要領を得ない相手の返答に、黒子は緩く頭を振って切り替える。落ち着け、冷静になれ。

「…僕は黒子テツヤと言います。あなたはなんと仰るんですか」
「あー?えっと、火神………」
「かがみ?」
「……………ワリ、分かんねぇ」
「はぁ?」

火神は、自分の名前が言えなくなっていることに、初めて気付いて愕然とした。
急に静かになってしまった藪の中に、黒子は不審な目を向けた。さっきから、どうにも噛み合わない感じが拭えない。やはり、藪越しの会話という不自然さ故だろうか。

「火神くん。君と直接話したいのですが……藪から出て来て頂けませんか?」
「む、無理だ!」
「、何故ですか?」

あまりの必死さに、黒子は少々面食らう。

「俺、人間じゃ、ないんだって」
「……何言ってるんですか?人間以外が言葉を話すなんて、聞いたことがありません」

身体が、熱い。
いつになく自身の舌が良く回ることを黒子は自覚した。本当なんだって、と困惑を滲ませる彼は、今どんな表情をしているのか、知りたくて堪らなかった。

「分かりました、君が出てこないと言うならば、僕が今からそっちに―――」

がさがさと藪が揺れる、人間の、生きた肉の匂いが益々火神の本能を炙る。食べたい。駄目だ。食べたい。駄目だ。ちょっとだけ。駄目だ。お腹が空いた。此所で食べなきゃ、俺が死ぬ。
ならば、いっそ――

「ねぇ、火神くん」

――なぁ、名前を呼んで貰ったの、随分久し振りだったんだ。

(駄目だ、来るな!!)
ガウゥッ。


「―――――は……?」

へた、り。黒子テツヤは、今まで生きてきた中で、こんなに死を意識したことは無かった。車に轢かれそうになったことも無ければ高所から足を踏み外したことも無い。そもそも真っ当に生きていれば、命の危機なんて、めったに感じるものでもない。
――その筈なのに。
因みに黒子は腰が抜けるというのも初体験だった。背骨は抜き取られてしまったのかと勘違いしてしまうほどすうすうとして、全く力が入らない。その癖瞼だけはギリギリと力が込められて、目の前の情報を一生懸命集めようともがいていた。
――獣だ。金色の、獣。
優に2mはあろうか、月明かりに黄褐色の毛は幻想的に瞬き、黒い横縞が益々それを引き立てる。虎だ。震える唇がそう溢したのを、黒子はどこか他人事のように感じた。

「だから……だから嫌だったんだ。俺は人間じゃない。虎なんだ」

不思議だった。嫌々するように後退り、前肢に頭を埋めるようにして縮こまる虎から、しかし人間の言葉がはっきりと届く。ぶるぶると震える巨体が、なんだか可愛く見えてしまうのは、自分の危機感が足りなさ過ぎるせいか。

「……はぁ、成る程。…本当に、人間じゃなかったんですね…」

黒子は思ったよりも冷静だった。喚くこともなければ逃げ出そうという発想も無かった。冷や汗もかかないあたり、僕の交感神経って死んでいるのかも、と斜め上の心配をするくらいには、余裕があった。

「…虎だぞ。俺は、すぐにお前を殺せちまうんだぞ。逃げろよ」

前肢と前肢の隙間から、ちらりと視線を向ける火神の動作が、むしろ火神が黒子に怯えているように見えて、黒子は噴き出しそうになった。本当だぞ!食っちまうぞ!!とウーウー唸っても、逆効果だ。黒子は完全に、自分の緊張が解けるのを感じた。

「なんというか……。あれですね、君は、」


おそろしくてかわいそう


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