「…………は?」
私、外部の高校を受験することにしたわ。
そう告げた時のトラは、普段からは想像もつかない程に驚いていたけど、それ以降はいつも通り過ぎるくらいだった。
わかってるのかしら?
こうして隣を歩いて帰るのも、同じ景色を見て過ごすのも、残り少ないってこと。
私が医学の道を進むつもりだと言うことは小学生の頃からトラも知っていることだし、何れそれを実現させる為に医学に専攻した学校に行くことになることも見えていた未来だった。トラだってきっと知っていたわ。
授業にはまともに出もしないから表面上成績は悪いとしても、頭の回転は早い方で、どちらかと言えば頭は良い方だと思う。使わないのが勿体ないわね……
それを告げてから、少し離れて歩く隣のトラが遠く感じるようになって、自分の夢を叶える為とは言ってもこの隣を失うのはつらい。
そう思うのは私だけなのかしら?
トラは、私が隣からいなくなっても、何とも思わないのかもしれないわ……
寂しくてもつらくても卒業は目の前に迫る。
受験には成功し、ここから離れることは現実として近付いた。
勉強の為にここ何ヵ月かはトラにもほとんど会わなかったわ。私が受かったこと、教えても喜んだりしてくれるタイプではないことも知っているからこそ、報告するのに躊躇する。
久しぶりに会うことすら、少し怖い。
勝手で自意識過剰かもしれないけど、私は、トラを置いていってしまうような気分になっている。
どれだけ悩んだとしても夜は明ける。
それから卒業の日までの短い間、何度かトラと一緒に帰ったけれど、有り得ない程普通で、まるで数ヵ月会っていなかったのも無かったかのような日々だった。
不思議ね。どうして気付かなかったのかしら。
当たり前に隣に居させてくれることに自分がどれだけの幸せを感じていたか。
背が高くなったトラを見上げながら思う。
――私は、この人のことが本当に好きなんだわ。
卒業式に桜が舞い散るなんて、なかなか無いことよね。
まだ肌寒いこの季節に、私達は中学生を卒業する。
しんみりした空気と、広すぎる校舎を回りながら感じる懐かしさ、とは言え、ほとんどの生徒が高校も持ち上がりだから、こうやっていちいち回って歩いてるのも私を含め数人なんだけれど。
初等部の中に足を踏み入れた時、言い知れないくらいの寂しさが込み上げた。
通っていた教室、廊下、そして、CZメンバーと過ごした談話室。
中学に上がる前には皆で訪れてワイワイしてたから、今、一人でここに来ると少し泣きそうになった。
よく座っていた椅子に腰掛ける。椅子も、机も、まるでおままごとのセットに近く感じる程低くて小さい。
卒業式、トラの姿も見たことは見たけれど、相変わらずやる気がなくて最後まで先生たちに怒られていたわね。
初めて会った時には身長も私と変わらなかったのに、いつの間にか見上げる程大きくなって、すごく、カッコ良くなったわよね。
思い出して今と重ねて、少しずつ離れていく距離、今日で離れてしまう大切な時間に、一度零れ落ちた涙はそれから止まることはなかった。
「――っと、やっと見つけた。って、はあ!? 何泣いてんだよ?」
「トラ……?」
いつもいつもトラを探して追い掛けて、その隣は私が勝手に居座っていたのに、最後にはトラが私を探してくれていた……?
「おいおい、ぐちゃぐちゃになってんぞ……お嬢でも泣いたりすんだな」
「当たり前じゃない……卒業式なのよ? 私だって感傷的になったりするわよ」
大きくなったトラの手が少し乱暴に涙を拭ってくれるけれど、トラの顔を見て余計に泣けてきた私はそれを無意味にするくらいに涙を流し続ける。
最初は慌ててた癖に、次第に困ったようなめんどくさそうな顔になっていくトラ。
本当に、この人は本当に分かってないわ。
「まー、なんつーか、外部に入学するやつからすれば寂しくもなるのかもしんねーな」
「……違うわ。それだけじゃなくて、私が、泣いてるのは……全部トラのせいだわ……」
「はあ?」
どうしてこんな人を好きになってしまったんだろう?
訝しげに眉を跳ね上げて、身に覚えがないであろう自分の罪を問われていることに不服申し立てたいのだろう。
トラが纏う空気が冷たくなったって知らないわ。
もう、三年も一緒にいたんだから。怖いと思うことにも少しは慣れてきたんだから。
「トラは、寂しくないの? 今日で終わりなのよ?」
「いや、オレはこのまま持ち上がりだから大して懐かしむこともねえけどよ」
「だからっ……そうじゃなくて! 私と、一緒に帰るのは今日で最後なのよ!」
「………………」
自分でも驚く程恥ずかしいことを聞いてるのは分かってる。
だけど、今ハッキリさせないともうこの機会は巡ってはこない。もう、トラに会うことも無くなってしまうかもしれないのだから。
そう腹を括ってしまえば後は煮るなり焼くなり好きにしてって感じよ。もう、何でも言えそうだわ。
「私はトラと過ごした三年間、かけがえのない時間だったと思ってるわ。トラの隣を歩けたことも、危険な遊びに連れ回されて迷惑したことも、トラのお家でゲームをしたり弟さん達と遊んだことも、一緒にサボって一時間過ごしたことも全部! 全部、トラがいたから楽しかったのよ!」
ここまで言っても言われてる本人はバカみたいに固まってるままで何も言おうとしない。
すごく、ムカつくわ。
怒りで声は震えるし、恥ずかしくて頭は沸騰しそうになるし。もう、訳が分からない。
「私だけがトラとの時間を大事に想ってるなんてあんまりだわ! 私にとって、あなたは……」
「撫子」
やっと口を開いたかと思えば呆れたように私の名前を呼んで、トラは怒りと恥ずかしさで震えたままの私を引き寄せる。
見上げたまま睨む私の顎を掴んで、その色違いの瞳を前髪の隙間から覗かせると、程無くして柔らかくて温かい何かに包まれた。
「っ!?」
それが何かを理解した頃には、逃げられないように頭に手を回されていて、その胸はいくら押してもびくともしなくて、どうしても逃げられない。
「ト、ラ……っ」
「ん……」
唇が離れて、抗議しようと名前を呼んでもすぐにまた重なる。
啄んで、重なって、離れて。
慈しむようなその感触は、唐突に、強引にされたとはとても思えない程優しくて、私は抵抗することを忘れた。
……そうは言っても長い。いくらなんでも恥ずかしさで顔から火を噴きそうになる。
次に離れた時に胸を押して距離を取ると、トラは少しだけ寂しそうな顔をした。
「じゃ、オレのモンになるか? 撫子」
「……順番、間違えてるんじゃないの」
「むしろ今更って感じもするけどな。お前が鈍感過ぎんじゃね?」
もう一度唇が柔らかく重なって、まだ返事もしていないのに、と思ったら腹が立ってきたわ……
「で? どうすんだよ、撫子」
イエス以外の選択肢がないこの問い掛け。
男女が恋人同士になるのってもう少し初々しくてロマンチックなものだと思ってた私が馬鹿みたいだわ。
トラを好きになって、そんな普通の甘い恋愛が出来るとは思えない。
「……トラのものになるわ」
ムカつくけれど、まだ怒っているけれど。頷いた瞬間にトラが幸せそうに微笑んでくれたから。こんな形でも正解なのかもしれないわ。
「それより、好きとは言ってくれないのね」
「好きとか嫌いとか、いちいち細けぇんだよ。んなこと言わなくても伝わってんだろ?」
「何よ……ほんとにひどいわね」
トラの胸に耳を寄せて、トクントクンと、優しいリズムを刻む鼓動を聞く。
女心を欠片も分かっていないひどい人。いきなりキレたりする怖い人。唐突にキスしてきたりする怖い人。
穏やかさや優しさが鳴りを潜めたらただ誰にも理解できない恐ろしい人なのかもしれない。それでも……
「……ねえ、トラもくれるのよね? 私は、トラの全部欲しいわ」
「やるよ。お前が欲しがるオレのこと全部」
だから、お前も全部オレに捧げろ。撫子。
囁かれる愛の言葉には甘さなんて少しもなく、ただそこには私を独占したい強い欲望と、私にとってこの上無い程の満足感があった。
私はこれでも真っ当に生きてきたと思っていたのに、この人のせいで何もかも狂わされてしまったわ。
この美しい金色の獣を手にいれる為に。
2015/09/17
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