唇に焦がれて
2013/08/18


 今日、彼女にキスしようと思う。


 学校が終わって、帰りに彼女がいる軽音サークルの部室に寄る。
 予備校が無ければいつも通りの流れなのに、そう決心して行動すれば全てが緊張感に変わった。

 ステージの上じゃなくて、狭い部室でも真ん中で歌う彼女の輝きは失われることはない。
 今日はつい彼女の唇に目がいってしまう。凛とした歌声を放つそれに釘付けになってしまう。

 歌いながらたまに見学のオレに向かって笑いかけてきたりする。こんな事されて期待しない男なんて存在しないと思う。
 いつその桜色の唇を塞いでやろうか。どうやって触れてやろうか。そんなことを考えていたのに吹き飛んでしまった。
 長年の付き合いでどんな間抜けな姿も見てるオレでさえ、歌う彼女は息を飲む程綺麗だ。


「お疲れ様ー」

 部員がそれぞれの機材を手に帰っていくのを見守って、最後にはオレと彼女だけが残される。
 コードを巻き取って片付けていく姿はどこか危なっかしくて、黙って見ていられない。
 そう思った傍からコードにつまづいて転けそうになるから、すかさずその身体を受け止める。

「わっ!」

「足下気を付けろよ。バカ」

「ふふ、でもいつもシンが助けてくれるから」

 頼られるのは嬉しいけど、そんなに信用されすぎても困る。オレがいない時はどうするんだよ。
 そうは思っても人畜無害な笑顔を見ると何も言えなくなる。いちいち可愛いんだよ。


「今練習してる曲はね――」

 片付けが終わったらいつも通り座って少し話す。言われなくても練習頑張ってるのは伝わる。
 キラキラした横顔が綺麗で思わず見とれた。緩やかに言葉を紡いでいく唇。次第に我慢出来なくなって、計画とか、タイミングとか、頭の中で考えていたものが全部崩れて消えてなくなった。

「シン……?」

 彼女の頭を引き寄せると、当たり前だけど至近距離で目が合う。
 手が届かないと思える程綺麗な彼女が、今はバカみたいにきょとんとした顔をしてオレだけを見つめてる。
 全く男として意識されてないのが悔しいけど、今はそんなこと後回しだ。

「ん……っ」

 いくら望んだか、どれだけ想像したか分からない。
 漠然と考えていたよりも彼女の唇は柔らかくて、温かくて、気持ちいい。
 苦し気に漏れる彼女の息があまりにも罪深い。
 もっと深くかじりつきたくなって角度を変えようとした時、彼女が力無く胸を押すから仕方なく解放してやった。
 真っ赤な顔をして肩で息をしてるのすら愛しい。

「…………」

「…………」

 キスをして、それから見つめ合ってるのにお互いに何も言葉がない。
 恥ずかしそうに見上げてくるのは反則だと思う。そんな顔されて、もう一度したくならないやつなんて絶対にいない。

 名前を呼んでから彼女の頬を撫でて顔を近付けると、さっきとは打って変わって逃げようと後退する。
 あからさまに拒否されるのは悲しくはあるけど、さっきよりは男扱いされてるらしい。

 ちゅ。
 彼女に逃げる間も与えずにもう一回。啄むように軽いキスをする。
 やめとけば良かった。彼女の温もりを感じる程にもっと欲しくなる。止まらなくなりそうになって、その衝動を振り切った。

「シン……あの……どうして?」

「おまえと、キスしたかったから」

「でも、いきなりなんて、ずるいよ……」

 宣言したら絶対させてくれない癖に。
 ずるくていいんだよ。あの手この手使わなきゃ触れることも出来ないんだから。
 やっと触れることが出来たその感触が忘れられなくて苦しくなってきた。

「そうやって意識して。もっと男として認識して」

 その小さな身体を腕の中に閉じ込めるだけのこともまだまだ上手く出来ない。
 彼女の速すぎる心臓の音を聞いて安心する。とか思ってるオレだって痛い程に速いけど、オレだけじゃなくて良かった。それが分かったから離してやる。
 少しずつしか進めないけど、着実に進んで行ければいい。

「シン……本当に、彼氏なんだね」

「そうだよ」

 違和感は確かに大きい。それでももう後戻り出来ないし、する気もない。
 どれだけしんどいことになってるんだとしても、こいつが欲しいって気持ちが揺らぐことはない。





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