仮面



 最上階、角部屋。最高の立地のマンションの、最高の部屋に向かう。エレベーターのガラス越しに外を見る。眼下の様々な光は夜でも忙しなく動いていた。



 扉の前に立つ。それから鞄を開いた。この部屋に入る前に、俺は必ず仮面をつける。顔全体を白の仮面が覆う。扉の光沢に反射して見える自分は、ホラーとしか形容しがたかった。異世界に迷い混んだような気がして悪寒が走る、合鍵を使い扉を勢いよく開いた。

 相変わらず室内は薄暗く、カーテンをしめきった湿気の多い匂いがする。ここは俺の、俺の……、俺の………知り合いの家だ。
 突き当たりの扉を開くと、リビングに至る。そこの窓もすべてカーテンを閉められ、複数のパソコンが放つ光だけが広いリビングの灯りになっていた。その画面はすべて数字か、俺の知らない言語だけで埋め尽くされてる。
 そのパソコンの真ん中に、知り合いはいた。数字、チャート、言語を見ながら何か考えているようだ。寝ていないのか目の下にははっきりとクマができ、唇が乾いて皮が剥けていた。

 「B。」

 声をかけても返事はない。Bは随分な資産家で、資産転がしだけで俺の年収を越えていたりした。見た目も少しやつれているが、短髪がよく似合う男前だし、笑うとなくなってしまう目が柔和で、かわいかった。

 「B。」

 今度も返事はない。歪んでいるのか、すぐにずれ落ちる眼鏡を押さえながらキーボードを打ち込んでいた。呼び掛ける声も、仮面でくぐもる。

ーーー

 Bは人の「顔」が恐ろしいのだと言う。目、鼻、口、それぞれのパーツを解すことは出来ても、それが何を(誰を)構成するのか分からないと以前聞いた。俺には意味がよく分からなかった。
 また、人の顔が認識できない、その感覚がどうもそら恐ろしいものなのだそうだ。だからこうして、誰にも会わず、誰の顔も映さず、籠った生活をしている訳らしい。

 俺達は高校の同級生だった。Bは昔はこうではなく、ただ穏やかな笑顔の少年だった。俺は、Bが好きだった。Bの穏やかさが落ち着いた。Bも俺が好きだった。俺達は恋人同士だった。
 が、しかし、大学に入って半年した頃、Bが初めておかしなことを言った。カフェのオープンテラスで、注文した飲み物を待っていた時だった。俺が専攻の話を始めると、Bは突然俺の顔を両手で挟み、なぞったのだ。

 「この凹凸は、Aの顔なの?」

 初めは質の悪い冗談だと思った。俺はBの手を取り握った。目を瞑り、手の暖かさを確認する。暖かで、とても心地よかった。今でも後悔する、その時Aの目を見ていれば良かったと。そうすれば、Aが本気でそう言っていたことに気付いたろう。

 大学も卒業間近になった頃も、いつものように俺達はデートを重ねていた。その時は駅前の大きな広告の前で待ち合わせていた。約束の5分前に俺は着いてBを待っていた。約束の時間Bは現れなかった。時間に正確なBには珍しいと心配していると、Bから電話がかかってきた。

 「今どこ?まだ移動中?」

 行き違いになったかと、辺りを見回す。すると、少し先の柱にBの姿が見えた。なんだ、あんなに近いなら気づきそうなものなのに。Bに近寄って、話しかける。

 「悪い。気付かなかった。」
 「え?気付かなかったって今どこ?まだ家?」

 Bはまだ携帯に話ながら辺りを見回している。随分と抜けてるなと笑いながら、肩を叩く。

 「いや、目の前。」

 そうしてやっとBと目が合った。Bは俺の顔を見て、数秒置き、またしても携帯に話し掛けた。

 「いないけど。」

 この日以来、俺の顔はBに認識されなくなった。肝が一瞬で冷えるこの発言を、未だに悪夢でよく見る。見た後はただ泣けて仕方なかった。

 認識されないのは、まだいい。それどころか、俺の顔は次第に嫌悪の対象にさえなっていった。
 社会人になった頃、Bの家を訪問した。俺はBを忘れられなかった。
が、しかし、扉を開けたBは、即座に水をぶっかけてくるほど敵意を向いた。俺はただ、下ろしたばかりのスーツから水滴が落ちるのを、呆然と見つめていた。

 「誰だよお前!誰だよ!Aはどこにいるんだよ!A!A!!」

 どうもBは俺に会えないことに癇癪を起こしているようだった。目の前に確かにいるのに、俺を探す恋人はどこよりも遠かった。その現実に俺は崩れ落ちるように膝をつく。
 その時、鞄から歓迎会の余興で使う仮面が転げ落ちた。様々な機微を示す顔面を、一つの状態に落とし込んだ姿。Bには全ての顔がこう写るのだろうか。

 「ああ!A!Aどこにいるんだよ!俺がいやなのか、A!頼むよ、一人にしないで…!お願いだから…っ!怖い、……怖いぃっ、一人でこんな、怖すぎる…っ! 」

 泣き叫ぶ恋人を見ながら、俺は仮面を嵌めた。Bの恐れる顔を捨てることにした。その仮面は泣いてるとも笑ってるとも言えない顔をしていた。俺もその下でそんな顔をしていた。

 「B」
 「え、あ!?あ…え、誰…?」
 「Aだ。遊びにきたんだ。」

 俺が仮面越しに話すと、Bはようやく落ち着き、俺の好きな笑顔を見せた。この日以来、俺は仮面を嵌めてBのもとへ通うようになった。きっと一人で怯えるのは、怖いだろうから。

ーーー

 今度はBの肩を揺さぶる。振り向いたBは俺を見て、眉を寄せた。

 「誰?」
 「Aだ。遊びにきたんだ。」
 「あっ、ああ!Aか!服がこのあいだと違うから分からなかった。悪いな、散らかってて。」

 このやり取りは、かれこれ500回近い。500回「誰?」と聞かれ続けた精神は、仮面でどうにか均衡を保っていた。仮面があるから誰か分からないのだと。
 Bは途端申し訳なさそうに、こちらを窺う。俺の顔は仮面で見えない、そんな顔を窺おうとするBが切なかった。

 かちり、音が鳴る。
Bの眼鏡が俺の仮面と触れたのだ。Bの唇は、俺の仮面の唇に重なる。仮面の狭い視界がBで埋まる。

 「A、会いたかった…。」
 「俺も。ずっと、ずっと…。」

 もう俺はBとキスすることも出来なかった。Bが俺の顔に手を這わせる。その手を握ると、昔と同じく暖かかった。目を瞑り、込み上げるものを仮面の下で圧し殺した。


おわり




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