24 | ナノ




ばたん、扉が閉まって狭い空間が閉ざされる。

息苦しいのは出会った時からずっとだ。嬉しかったり苦しかったり色んな意味で俺の呼吸は苦しくなる。このひとが特別だと嫌でも分かるくらい、実にわかり易く息が苦しくなるのだ。

ほんの少し落ち着きを見せた俺の呼吸に対して、シズちゃんは微かにその肩を揺らしまだ浅く呼吸を繰り返している。顔は上げられないけれど、じっと射抜くように見つめられていることだけは感じる視線からまるで手に取るように分かった。


「…何で逃げんだよ」


先程までの荒々しい口調から一転して、シズちゃんの声音はとても穏やかだった。低く掠れた、俺の一番好きなトーンの声がやたらと耳に響く。
不意に伸びてきたシズちゃんの手が、俺の手首をぱしりと掴んでぎゅっとそこを握り込む。触れた手が酷く熱い。そこから本心がだだ漏れになってしまいそうで、俺は振り払おうと手を上下に振ったが、シズちゃんの掌はがっちりとそこを握ったままびくともしなかった。


「離してよ」

「断る」

「じゃあ出てってくれない」

「嫌だ」

「離してってば」

「嫌だっつってんだろ!」


突然の大きな声に、俺の身体は正直にびくりと跳ねた。いや多分相手がシズちゃんでなければこうはならなかっただろう。しまったと思いつつ、手も振り解けない状態の俺は正直焦っていた。逃げられない。いや何て言うか、前と状況が同じなだけに否応無しに思い出してしまう。自分が最も後悔しているあの日のことを。


「…どれだけ探したと思ってやがる、ふざけんな」

「別に探さなくて、いい」

「話あるっつったろ、だから逃げんなって言ってんだ。離したら手前逃げるじゃねぇか」


シズちゃんの言うことは最もだ。多分こうして繋がれていなければ俺はありとあらゆる手段を駆使してでもここから逃げようと試みるだろう。だってそうだ、俺はそれが怖くて逃げてここに来たのに、どうして今そこで窮地に立たされなければならないのかが分からない。俺のしたこと全てが無意味になってしまうじゃないか。探したとかそんな、嬉しいとか思ってない、絶対に。


「…俺は話す事無いし聞きたくも無い、だから帰ってよ」

「だから、断る」

「帰って」

「臨也!」


ぐい、大きな掌が俺の顎元を下から掴み上げ無理矢理顔を上向かされる。そこで俺はぶつかった瞬間にちらりと垣間見たきりの、シズちゃんの表情を直視することになった。予想通りのきっとした視線に見据えられると、やっぱり息が詰まる。無理矢理に近い形で顔を上向かされている所為もあるのかも知れないけれど。

視線がぶつかって、顔を覗き込まれて、それでも逃げることだけを考えた。駄目だ、このままじゃ。傷付くのが怖いだなんて女々しくて実に笑えないが、それでも怖いものは怖い。俺は物覚えがいい、一度聞いたことはそう簡単に忘れないし寧ろ忘れられない、そうだ、それなのに俺はどうして無かったことに出来るだなんて思ったのだろう。

余りにも以前と同じ過ぎる光景で、俺は思わず下らないことを考えた。今があの時だったら、もしそうだったら俺は絶対にあんな馬鹿なことはしないのに。絶対に死んだって何があったって、キスしたりなんてしなかった。


「だから、目ぇ見て喋れって言ってんだろ」


無理だ。世の中シズちゃんみたいに真っ直ぐな素材で出来ている人間のが少ないんだよ、わかってる?わかってないよねぇ絶対に、後ろめたいことあるとちゃんと目見て喋れないんだよ、面白いよね人間って。ああでも、それだと俺がシズちゃんを好きなことは後ろめたいことになってしまうのか。もう全部バレてるのに、おかしな話だ。

だとすると、俺がシズちゃんのことを真っ直ぐ見据えて言葉にできることなど何一つ存在しないことになる。だって好きなことを前提に俺はシズちゃんに話掛けていた、言えないながらに気付いて欲しかったのだろうか。やだなぁそんなの、まるで女みたいだ。

顔が見たくて早起きをして、声を聞きたくて挨拶をして、会話がしたくてベランダに出掛けた。それなのに言えなくて苦しかった、でもそんなのは結局俺の一方的なエゴに過ぎない。だからこそ、つらいだとかそういう下らないことを考える自分が嫌なのだ。

だってきっと俺は、シズちゃんが悪くないのにシズちゃんの所為にしてしまいたくなる。それが酷く嫌だった。

だから何かを言ってやろうと口を開いて息を吸い込んではみたが、止めた。多分口を突くのは下らないことばかりだ。黙っていてもどうもならないことは分かっていたが、それらを言ったところでどうにかなるものではないという事もわかっていた。


「苦しい、」


そう言って顎元の手を掴んだら、それは案外あっさりと下ろされた。多分俺がちゃんとシズちゃんの方を見ていたからだ。そんなシズちゃんを、まるで自分の思い通りにならないと腹を立てる子どもみたいだと思った。まぁ、自分とて大差はないけれど。


「別に俺が言った事に何か言おうって思ってるんだったら、気にしなくていいよ、忘れて」

「…は?」

「本当優しいんだからシズちゃんはさぁ、だからって別にちゃんと返事とかしなくてもいいんだって。本当律儀だよねぇ」

「おい、」

「だから、何も言わなくていいから、さぁ」

「臨也」

「…言わなくていいって言ってるだろ!」


は、短く吐き出した息に、喉がやたら痛んだ。声を張り上げた所為かと思ったが、たぶん原因はそれ以外にもあったろう。


「…ふざけんな」


ふと、低くシズちゃんがそう呟く。表情は明らか過ぎるほどにそれはもう怒りを含んでいて、きつく俺を睨み付けていた。ぐっと未だ握られたままの手首に力が篭もる。


「言いたいこと言って逃げんのかよ!随分と勝手だな手前は!」

「逃げて何が悪いの?誰かが駄目だって言った?いつ何処に引っ越そうと俺の勝手だろ!」

「…ああ言やこう言うな本当にお前は…!」

「煩いなぁシズちゃんに関係無いだろ、だからもう黙って帰っ……」


瞬間、俺の言葉は掴まれた腕をきつく引かれた事によって途絶えた。一気に狭い玄関の景色が流れて、次気付いた瞬間には目の前には白いシャツがあった。そのまま身体にするりと回された腕ががっちりと自分を捉えるのに、漸く俺は抱きしめられているのだと理解した。





「…ごちゃごちゃうるせーんだよ、お前は」


そう言って、また更にぎゅうと身体を抱き寄せられる。目を見開いたまま何も言葉にすることができない。俺の視界に映るのは、シズちゃんの肩と、まだ余り見慣れない玄関の薄暗い壁だけだ。

正直理解しろというのが無理な話である。なにこの人、なにしてんの、なんて俺のこと抱きしめたりしちゃってんの?考え出してみれば言いたいことは山のようにあった。けれど俺の脳はまだそれらを単語として口から発せられる程状況を上手く飲み込めていない。


「なに、してんの」

「うるせーよ、だってお前逃げんだろ」

「それ、さっきも、聞いたけど」

「…そーだっけ」


忘れた、そう言ってシズちゃんが俺の肩に顎を乗せる感触がした。益々俺の頭はなにしてんのこのひと、で埋め尽くされる。もうなんだ、なんなんだこれは、わけが、わからない。
先程全力疾走した後みたく心臓がばかみたいな音を立てる、ばくばく、ばくばく、頭や耳に煩いくらいに響き渡るものだから、こんなに密着していたらそれが聞こえてしまうんじゃないだろうかと心配した。本来ならそんな余裕も無い筈だというのに、呆れた話だ。


「…苦しい、暑い」

「あっそ」

「重たい、邪魔」

「うるせーよお前本当、ちょっと黙れ」

「なんでこんな事するの」

「したいからに決まってんだろ」

「…嘘つけ。離せ、あと出てけ、帰れ」

「うるせぇって言ってんだろーが」


うるさいうるさいって、さっきからシズちゃんそれしか言ってないよね、いや俺もだけど。お互い様か。
けれどその一言では、先程からのこのおかしな状況はなにひとつとして解決しない。何がどうしてこうなったかなんて俺は知る由もない。だって、やっぱりシズちゃんは馬鹿の一つ覚えみたく煩いしか言わないからだ。


「……お前が好きとかそういうのは、よくわかんねぇけど、でも嫌いじゃない」


たぶん、シズちゃんがそう付け足すのにこれまた笑えることに俺は固まってしまった。想像していたものと大分違うことを言われたからだ。気持ち悪いだとかふざけるなだとか多分そういうことを言われるのだと思い込んでいたからである。あ、いやふざけるなはさっきからは連発されてるけど。


「………彼女」

「あ?」

「いるじゃん、彼女」

「はぁ?何処に?」

「一回だけ、会ったことある」


口が利けない子、居たじゃん。そう呟いたら暫くした後にシズちゃんは納得したようにああ、と呟いた。


「いやあいつ結婚してるけど。しかも俺のダチと、だからよく喧嘩したりすると来るんだよ」

「………、」


何だそりゃ、と言い掛けて、止めた。そうしたらシズちゃんが「お前まさかそれ気にしてたのか」と言ったので即座に「違う」と言い返してやったら、余計に抱きしめる力が強くなった。冗談じゃなく苦しいのに、大した抵抗もできず俺はやっぱりただ玄関の壁をじっと見つめた。


「………最悪だ、何でシズちゃんみたいなの好きになったんだ俺、なんかもう死にたくなってきた」

「…ぶん殴られたいのかお前は」

「あー、うん、はは、殴られて一瞬で死ねるならそれでもいいかなぁ。その代わり絶対一撃で死ねるようにしてね、無駄に痛くて生き長らえたりとか最悪だから」

「ごちゃごちゃうっせぇってさっきから言ってんだろ、いい加減黙れよお前、本当うるせぇ」

「煩いと思ってるならこんな事せずにほっといてよ」

「出来るならとっくにそうしてるっつーの。もう何でもいいから、あれだ」

「…だから、なに」

「傍に居ろよ」


今更居なくなったら落ち着かねぇ、そう言われて途端に言葉を失った。

抱き締められていること自体が、俺にとってはそもそも夢なのである。だからこれも、きっと夢だと思った。俺はついに自分の見たい夢を見られるようになったのだろうか。しかしそうなると夢の中のシズちゃんは子どものように横暴な事になってしまうけどね。あ、現実でも横暴か。だとしたら最早夢も現実も無いじゃないか。


「…俺がさぁ、」

「何だよ」

「どれだけシズちゃんの事好きとか知らないじゃない、舐めてるよね本当に」

「うるせぇな、こういう事出来るくらいには好きだっつってんだろさっきから」

「聞いてないし」

「さっき言った」


何だこの色気の無いやり取りは。まぁ、シズちゃんらしいと言えばらしいけれど。
ふと俺はそっとシズちゃんの背に手を伸ばそうとして、我に返りその手をぴたりと止めた。
図り兼ねていた。なにもかも。だって、俺はシズちゃんじゃないから、先程から何度も言うようにシズちゃんの考えていることなど到底知る由も無い。何を口走ろうと何を思おうと、本心はシズちゃんにしかわからない。例えそれが嘘でも、本当でもだ。

けれど、先程から縋るみたくして自分にしがみ付いてくるシズちゃんも、それは同じなんだろうかと思った。俺の言葉は本心だったりそうじゃなかったり何もかもが曖昧だけれど、それでもシズちゃんは俺の事を探していたと言った。嫌いじゃないと言った。そこでそっと背に腕を回して、ぎゅうと目の前の大きな子どもみたいなシズちゃんを自分からも僅かに抱き返す。

ふと身を僅かに離す間隔がして、それに合わせて距離を置いてシズちゃんを見上げたら、段々顔が近付いて来たので俺は思わず反射的にその顔を鷲掴みにした。

「…何しやがる」

「いや、ちょっと落ち着こうよ、分かってる?いやシズちゃん絶対分かってないよね」

「何が」

「俺のこと男だって分かってる?」

「当たり前だろ」

「自分の事男だって、分かってる?」

「当然だ」


じゃあこれはおかしいでしょ、そう言って鷲掴みにした顔を押し返したら、手首を掴まれそこからあっさりと退けられた。しかも物凄く不機嫌そうな顔で。


「うぜぇ、第一手前だってこないだしてきただろ」

「いやあれは牽制ってやつだから、わざと歩かせようとしただけだから」

「意味わかんねぇ。いーから黙ってろ」

「は、意味わかんないの、ど…っ…」


そのまま更に黙れと言わんばかりに、シズちゃんの唇はゆっくりと俺のそれに触れた。まるで付き合いたての10代のように幼稚なキスに、首の辺りが擽ったくなる。そしたらシズちゃんの手が俺の首の後ろにそっと当てられて、そこから痺れるみたく熱が生まれた。

触れた時と同じようにゆっくりと唇が離れて、そこはかとなく穏やかな表情をしたシズちゃんと目が合う。ああ、俺絶対今情けない顔してるんだろうなぁ。そんな事を考えていたらシズちゃんが「おい」と呟く。


「…なに」

「何か言えよ」


何を?キスの感想?いや寧ろさっきあんたが散々黙れ黙れって言ってたじゃないか随分と勝手な話だな。けれどやっぱり俺はシズちゃんと居るとどうしても呼吸が苦しいので、そんなに一気には言葉を口走ることはできない。あと色々一杯一杯だ。

ふと、彼の名前も知らない頃を思い出していた。ひとつひとつ、地味にいっそばかみたいに彼のことが知りたくて必死だったあの頃が懐かしいだなんて、まるで年寄りのようで何だか笑えた。今のこの状況だって、どんな少女漫画だと笑ってやりたくなるような場面でしかないのだけれども。

ただ抱きしめられるシズちゃんの体温や包まれるその香りに、俺はただ純粋に感動していた。いっそ震えてしまいそうなほどにだ。だけど何処かふわふわと俺の意識や感情は頼りない。何かよくわからないけれど、たぶん、幸せだった。気を抜いたらこれまたおかしなことに泣いてしまうかも知れないと思った。何だそれは、波江が見たら腹抱えて爆笑するんじゃなかろうか。

ぽすんとシズちゃんの肩口に、額を押し付けて息を吐いた。好きだ。好きだ好きだ好きだ。俺はばかみたいにばかなこの男が好きだ。だから、きっと、俺は相当のばかだ。



「……い、」

「あ?何だよ」







「………星型のにんじんが食べたい」



ぽつりと呟いた俺の見当違いな発言に、シズちゃんは「何だそりゃ」と小さく噴出して苦笑していた。狭い玄関で抱き合っていう台詞にしては実に色気が無いなと思ったが、もうそんなことはどうでも良かった。確かに此処はあのアパートじゃないし、隣にシズちゃんの暮らす部屋があるわけでもない。




ベランダだったりだとか、玄関だったりだとか、大体思い出すのはそんな場所で過ごした記憶ばかりで。

たぶん、そこが俺と彼の共有できる唯一のテリトリーだった。








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