19 | ナノ






かちゃり、ドアの開く音にごろりと寝返りを打つ。するとそこには小さなトレイを手にしたシズちゃんが立っていて、ベッドに寝転がる俺をそりゃもう高い位置から見下ろしていた。


「…何してんの」


思わずそんな言葉が出た。だってそうだろ、俺からしてみれば先程帰ったと思っている筈の人間がそこに立っているのだから。するとシズちゃんは「飯持ってきた」と呟いてベッドサイドの小さなテーブルの上から俺の読みかけていた本を退け、手にしていたトレイを置いた。その上にはほかほかと湯気を立てた粥がこれまた小さな器の中に盛り付けられていた。その横には薬と、水の入ったコップがちょこんと乗っかっている。

うちに米なんてあったっけ、まさかこれを作りにわざわざ一旦隣の自室に戻ったのだろうか。そんな事を考えたらちょっとだけ喉の奥が詰まるみたいにして苦しくなった。困ったなぁ今はあまり、優しくして欲しくないのに。

ゆっくりと起き上がると、シズちゃんは俺の背中にクッションとか枕とかを入れて出来るだけ楽にしていられるようにしてくれた。何なんだ、あんたはスーパー介護士か何かか、と思うほど手際よくシズちゃんにされるがままになりながら、俺は何も言わずに大人しくただ黙っていた。
しかし次の瞬間、器を手にしたシズちゃんがスプーンに粥を一掬いしたかと思うと、あろう事かそれを俺の口の前に差し出して来たのだ。俺は元々何も喋ってはいないが、更に絶句する。するとシズちゃんはまた何か勘違いをしたらしく小首を傾げて俺を見つめている。


「何だよ、食欲無くても食わねぇと治らねぇぞ」

「…いや、食べるけど」

「じゃあ食え、ほら、ちゃんと味付けたからそんなに不味くはねぇって」

「いやそういう問題じゃなくて、自分で食べれる、から」


貸して、そう手を差し出せばシズちゃんはちょっと不服そうに俺に差し出していたスプーンを器の中に戻してそれを手渡してきた。ここで要らないなどと言ってしまうと更に機嫌を損ねるのは実に想像に容易かったので、取り敢えず俺は大人しくそれを受け取る。そのままスプーンに掬われた粥をゆっくりとした動作で口元に運んだ。


「…美味しい」


実に何日か振りのマトモな食事に、俺の口からは割と素直な言葉がすんなりと出た。ここ数日は本当にしんどくてキッチンと部屋の往復すら億劫な程で、殆ど水しか口にしていない。勿論俺の家には薬も無いし、元々の生活からしてマトモな食料も存在しない。
それでやむなくいや本当は物凄く不本意ながらも波江に連絡を取り「薬を買って来てくれ」と頼んだのだ。後が色々怖いので、どうにかその手段だけは避けたかったのだが。

しかし寝ていれば治ると思った俺の期待をあっさりと裏切るように症状は一向に酷くなるばかりで。一日目はまだちょっとした頭痛や倦怠感くらいで済んでいたものの、三日目にはついに起き上がれなくなった。いや起きることは起きれるが、ベッドから出たくないと言うか、寧ろ出られない状態だったのだ。

どうしてこうなったと聞きたい状況ではあるが、結局辿った先の原因には自分がいるという最悪の結果行き着いた。波江にこのタイミングで薬を頼んだりしなければ、今シズちゃんが俺の家にいたりはしなかった筈なのに。いやもう何か此処まで来ると風邪引いたところ辺りから間違っているような気さえして来る。

俺の素直な美味しいという言葉に、シズちゃんは「そうか」とほっとしたように口元に小さく笑みを浮かべていた。俺はそのまま何度かスプーンを口に運んだが、結局全部は食べられなくて半分ほど食べた所で申し訳ないと思いつつもシズちゃんに器を返した。シズちゃんは俺が食うからいい、と言って今度は薬と水を手渡して来る。

こんなに甲斐甲斐しく誰かに看病される事なんてそうそう無い自分からしてみたら、今の状況は何て言うか、非常にそわそわするものでしかない。しかも相手はあのシズちゃんだ。その上俺が今一番会いたくない人物にカテゴライズされているというのに。


「よし、食ったら寝ろ」


そう言って、くしゃくしゃと俺の髪をシズちゃんが掻き混ぜる。本人は多分撫でてるつもりなんだろうけど何かもう犬とかにするそれに近い撫で方だ。触れられるのだってただ単純に嬉しいけれど、今はよくない。乱された髪を適当に撫で付けて、俺は再度ベッドに潜った。

今度はありがとうだとかそういう事は何も言わなかった。しんどかったからとかそういう事も手伝ってだとか色々言い訳しようと思えば出来たんだろうけれど、多分何を言っても俺の言葉は真実味を持たないからだ。

出て行って欲しくないから出て行けとも言えない、居て欲しくないのに追い出すことが出来ない。

そろそろこの矛盾のループにも嫌気が刺してきたけれど、何せ今は弱っている。身体的にもそうだし何かそんなものが色々。彼に会わなくなって二週間、自らそうしたことを彼は何も言わなかったし何も聞いてきたりはしなかった。だから、つまり、そういうことだ。最初に分かっていたことじゃないか報われない恋だということを。

どうせ起きていたって禄な事は考えやしない、まさに病んでいるという言葉が今の自分には酷くお似合いだ。シズちゃんが寝室からばたんと出て行く音を聞いて、俺はぎゅっとそれらのネガティブな考えを払拭するように固く瞳を閉じた。





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次に目を覚ましたら、日付は変わっていて時刻は朝の6時を回った所だった。酷く喉が渇いていたので取り敢えず俺は気だるい身体を起こしてベットから出る。薬が効いたのかそこそこ身体が軽い、どうやら熱も下がったらしい。寝室を出てキッチンのあるリビングに行くと、其処には何故かソファに身体を投げ出し眠るシズちゃんの姿があった。


(…帰らなかったのか、)


水を飲むより先に彼の元へと歩み寄り、その肩を掴んで軽く揺する。そういえば何度かこうした事があるなぁ、ゆさゆさと肩を押したり引いたりすれば、シズちゃんがゆっくりとその目蓋を開いた。


「…朝だよ」

「あー………うん……」

「いや、寝ちゃ駄目だって遅刻するでしょ」

「…ねみぃ」

「うん、わかったわかった、ほら早く起きて」


何故此処に居座り眠っていたのかが気にならないでも無かったが、取り敢えず今日は確かまだ平日だからシズちゃんは仕事の筈だ。まだ早いとはいえこのまま寝かせておいたら確実に遅刻するだろう。もうゆさゆさからがくがくとかいう効果音に近い力加減で無遠慮に肩を揺すり続ける。すると突然ぱしりと片方の手首をシズちゃんに掴まれた。


「…ちょっとは良くなったか」

「あー…うん、お陰さまで」

「…そか、」


なら良かった、そんなことを呟いてシズちゃんは空いた方の手で俺の頭をぐいと自分の方に引き寄せわしわしと掻き混ぜる。昨日の夜と同じ光景だ。くしゃくしゃ、髪が乱されてシズちゃんの大きい掌に何度も何度も撫でられて、ソファの傍らに座り込んだまま俺は身動きが取れない。振り払いたいなんてこれっぽっちも思っていないけれど、さっきから何度言ったか覚えてもいない。お願いだから優しくしたりしないで欲しいって、まるで二流のドラマの台詞みたいだよね。もうこれで何度繰り返したろうか。


会わないようにしていたって、自分から触れなくたって結局触れられてしまえば何もかも同じだ。そのくらい俺はシズちゃんのことが好きだったし、だからこそ会わないようにしたのは俺なりに引いた境界線のつもりだった。だけどそんな事を知らないシズちゃんは、俺の引いた線などまるでお構い無しだ。

わかっている。線を一方的に引いているのは俺だけで、シズちゃんは別に悪くない。責めるつもりも権利も何一つ俺は持ち合わせていない。だけど、だけどだけどだけど



(くるしい、)



つらい、しんどい、すき、すき、頭の中に色々な単語が並んだ。浮かんでは消えて、それを何度か繰り返して不覚にも虚しさを覚えてしまった。だって結局それらはどれも伝えることは叶わない。それが当たり前で、それが出来ないなら会わずにいるしか結局俺には方法が見当たらないのだ。

撫で続けるシズちゃんの手をそっと掴んで外す。シズちゃんがじっとこちらを見つめていたけれど、そのまま手を軽く引いて起きるように促した。


「寝てたらまた寝るから、起きてよ」

「…起きてるって」

「つーか何でこんな所で寝てたの」

「あー…だってお前昨日結構しんどそうだったし、なんか」

「なに?」

「心配だったから」


お前しんどくても絶対頼ったりしねぇだろ、見張りだよ見張り。口調はぶっきらぼうなのにその扱いがまるで恋人みたいで、そのアンバランスさがもう本当何て言うか、どこまでも天然過ぎていっそどうしたらいいのかが全く分からない。シズちゃんにとっては当たり前の行為が、俺にとっては最早拷問でしかない。もう駄目だ、この人を早くここから連れ出さないと。取り敢えずその結論を導き出して俺は半ば無理矢理シズちゃんを叩き起こし、ずるずる玄関へと引き連れて行った。





靴を履き終えたシズちゃんにスーツの上着と鞄を手渡す。ぼさぼさの髪は何とも愛くるしくて、それを整えてやりたい衝動に駆られたがそれをぐっと堪えてシズちゃんを見送る。

しかしドアを開いた所でシズちゃんが一瞬立ち止まり、こちらを振り返る。思わず不思議そうに見返せば、あー、と煮え切らない返事なのかそうでもないのか分からない声を上げて、がしがしとその金髪を掻き混ぜた。


「…どしたの」

「ちゃんと治ったら、また来いよ」

「え、」

「ベランダ」

「………」

「お前居るのに慣れちまったら一人で煙草吸ってんのも、何か虚しいんだよ」


瞬間、俺は躊躇った。人間というのは実に欲望に忠実な生き物であって、脳で幾ら冷静な考えを答えようとしても咄嗟につい感情が邪魔して本音をぽろりと口にしてしまうからだ。
俺は今一体何て言おうとしたんだろうか、わかった?俺も寂しい?好き?まぁこの際そんな事はどうでも良かった。それらが言葉にならなかっただけでも、俺は自分の事を目一杯褒めてやりたいくらいなのだったから。






「うん、ごめんね、もう行かない」

「…は?」

「色々ありがと、仕事遅刻しないようにしなよ」

「ちょ、お前…」


言葉を失っているシズちゃんの手元からドアノブを奪い、そのまま軽くその胸板をとん、と押してやる。数歩後ずさったシズちゃんを見つめ俺は小さく笑った。寝起きのしわくちゃのスーツ姿が余りにもかわいらしくて面白かったからだ。






「ばいばい、」






それだけ告げて、ドアを閉めるとそのまま施錠してチェーンも掛ける。かちゃん、俺からの鍵を掛ける音がした。これでもうシズちゃんはこちら側には入って来れない。今回のことは、またしても事故だと思えばいい。あとはもう二度とこんな事にならないように会わないようにすればいいし。事故が多発しすぎて嫌になっちゃうよなぁ、ほんと。

締まった扉の向こうにはまだ多分、シズちゃんが居る。そう思うとどうしても俺はそこから離れられなくて、ただじっと何の変哲も無い扉を穴が開くほど見つめているしかできなかった。暫くすると足音と隣のドアが開く音が聞こえてきたけれど、それでも結局俺はそこから一歩も動けないままでいた。









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