17 | ナノ





全ては必然のようで、実は必然じゃない。

それは俺が一番嫌という程わかっていたし、どうにかしなければならないという気が全く無い訳でも無かった。色々思うところはたくさんあった。だけど俺はそれらが多すぎて処理できないのだという言い訳がましい結論に位置づけて、できるだけそういう事は考えないようにしていた。ある意味素晴らしくポジティブだと思う。

俺は彼が好きだからといって、特別何も望まないと、だから傍に居ても許されるんじゃないのかと思い込んでいたのだ。それがとんだ勘違いだとは気付かずに、ただひたすら想うだけが全てだと思っていた。








今年の夏は長い、そんな事を天気予報でキャスターが言っていたなと思い出して少し外に出るかを躊躇った。例のクーラー事件(大体シズちゃんと俺の間に起こることは事件にしかならない)から早一週間が経とうとしている。一緒のベッドで眠った翌日、無事シズちゃんの部屋のクーラーは修理され復活し、だらだらと三日間に渡って続いたなんちゃって同棲生活は呆気なく終わりを告げた。

それでも結局水曜が来れば俺はゴミを出しに行くし、夜になればシズちゃんがベランダで煙草を吸うので、二日に一度は顔を合わせている。
俺に至ってはそこはかとなく仲良くなった今でも未だに壁越しの「おかえり」を止められないし、朝調子が良ければベランダからこっそり出勤する彼の後ろ姿を眺めたりしている。

どんな恋する乙女だ。最早自分でも失笑せざるを得ない。いや寧ろ、自分以外に笑ってくれる輩などきっと何処にも居ないだろう。そのくらい、今の俺は異常だ。自覚は前々から言っているように、勿論あるのだけれど。

時刻は午後の10時をまわった所だ、だけど何て言うか今猛烈に俺はアイスが食べたい。だけどうちの冷蔵庫にはひとつもそんなものは存在しない。普段結構な量を買い込んでいるのだが、この季節は特に消費量が多いのは別にうちだけの問題ではない筈だ。

まぁ夜だし、昼間の太陽にじりじり照り付けられないだけマシだよね、よし気持ちが揺るがない内にさっさと外に出ようと玄関に向かい、がちゃりとドアを開く。但しその音は俺のものだけでは無かった。

もう一つの開閉音に思わずそのまま横に視線を移動させれば、ドアノブを片手にしていたのはその部屋の住人では無く、ふわりと肩くらいまでの柔らかそうな髪を夜風に靡かせた若い女が立っていた。

思わず視線が合って、固まる。無理もない、だってそこはシズちゃんの部屋だ。なのに出て来たのはシズちゃんじゃない。その女の瞳はとても不思議な色をしていて、透き通るような白い肌をしている。一目で純粋な日本人ではないという事だけが分かった。
するとお互い固まっていた俺たちの間に、部屋の中からひょっこりとシズちゃんが顔を出す。俺が思わず「あ」と声を上げたらシズちゃんが「よぉ」と声を掛けて来た。そんな俺達の様子を、間に挟まれた女は交互に目配せを繰り返しながら見つめている。


「珍しいな、どっか行くのか」

「あー、うん。コンビニ、アイス買いに」

「…またそれかよ」


だって美味しいじゃん、アイス。そう返すとただ大人しくしているだけだった女はポケットからPDAらしきものを取り出す。そして指先を巧みに画面の上で滑らせてから、シズちゃんに向けて画面を向けていた。


「ああ、こいつが言ってた隣のやつ、自営業の」

「え、そのネタまだ引っ張るの」

「自分で言ったんじゃねーか」

「まぁ、そうだけど」


すると女は納得したようにこくこくと頷いている。もしかして口が聞けないのだろうか、彼女の色々な素振りから瞬時に俺はそう察知することが出来た。
大層な美人だというのに、勿体無いなとも思った。別にそういう風に興味があるわけでは断じて無いが。そんな事を思いつつじろじろと不躾に観察していたら、ばちりと女と視線が合った。思わず俺は得意の愛想笑いを貼り付けてそれに対応する。


「どうも」


すると彼女からも会釈と穏やかな微笑が返って来る。そしてまたPDAを軽やかな指先の動きで叩き、シズちゃんに見せ付けた。画面を見てシズちゃんがふっと小さく笑う、「気にすんなよ、またいつでも来い」そう告げると彼女もまたふわりと花のようにして微笑んだ。何とも微笑ましい光景である。何と言うか、色々当てられてしまいそうな状況だ。




「んじゃ俺コンビニ行くから」


じゃあね、ひらりと手を振り二人を横切って行けば「たまにはまともな物も食えよ!」と後ろから声が上がったが、それも適当に手を振って答えておいた。後ろは振り返らず足早に階段を下りて、できるだけ彼等から離れた。何だかとても、あそこは居心地が悪い。

やっぱり当てられたかなぁと思いつつも、取り敢えず俺は本来の目的を果たすべく何も考えないようにしながら急いでコンビニに向かうことにした。






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近くのコンビニまでは徒歩3分、いつも通りアイスのみを大量に買い込み帰宅して直ぐにそれらは冷凍庫に押し込んだ。
水を買う必要は無くなった、非常に不本意ではあるが波江の勝手な行動により取り付けられたウォーターサーバーは酷く便利なのである。
ふう、と息を吐いてベランダへと繋がる窓へと歩み寄る。カラカラとほんのちょっと間抜けな音を立ててそこを開けば、直ぐに横から煙草の匂いがした。いつもはそこに存在を確かめる唯一の術として、ちょっと好きになりかけていた匂いだったというのに、何故だか今日は酷くむせかえりたくなるような匂いがした。

俺がベランダに出てそこを覗き込むより先に、窓を開ける音で気が付いたのだろうか隣から「お帰り」と控えめな声が掛けられる。俺はそのままベランダに出ていつも通り隣のベランダを覗き込み、彼の姿を確認してから「ただいま」と小さく返した。


「この暑いのにわざわざ外で煙草吸うなんて、本当物好きだよねシズちゃんって」

「ほっとけ、外で吸うから美味いんだよ」


そう言ってふぅ、と白い煙を吐き出しまた口元に煙草を添える。それら一連の動作は、フィルターが掛かった俺からすればもうなんて言うか、堪らない。この一言に尽きる。正直煙草というものはどちらかと言えば余り好きじゃあない。だけどそれも許せてしまったり寧ろちょっと好きになってしまう辺り、本当に何とかは盲目というのは伊達じゃないなと思う。いや、そう思わざるを得ない。

今日は余り星が見えない。それでも彼はただひたすらに真っ黒な空を見上げていた。室内からの明かりで薄く照らし出される金髪と、黒とのコントラストがやたらに綺麗に俺の視界に映える。


「綺麗なひとだね」

「あ?」

「さっきの女の人」

「ああ、アイツか」






彼女?そう喉を吐いた単語は、俺の口から言葉にはならなかった。吸い込んだ息がぐっと喉の奥に詰まる、呼吸がし辛い。何とか次の単語を探そうと思案していたら、それより先にシズちゃんが口を開いた。


「まぁ、あいつすげぇいい女だからな」


そう言ってシズちゃんが屈託無く笑うのを、俺はただぼんやりと何処か他人事のように眺めていた。生ぬるい夜風が頬を掠めて、俺とシズちゃんの髪を靡かせる。その横顔は見たことないくらいに優しくて、穏やかで、そうなんだ、その一言も返すことから出来ずただ視線が逸らせずにいた。


「つーか、お前もう飯食った?」

「あ、うん、食べた」

「そうか、ならいい」


此処で俺は初めてシズちゃんに嘘を吐いた。勿論俺は律儀に夕食時に食事を摂るだなんて規則正しい真似は殆どしない。だけど咄嗟にそう答えざるを得なかったのだ。


「今度また何か作ってやる」

「…え、」

「俺の料理で良けりゃの話だけどな、お前には色々貸しもあるし」

「貸しって」


シズちゃんが言う貸しって言うのは、多分あの拉致事件だとか、クーラー事件だとかたぶん色々だ。勿論俺からしたら貸しだとかそんなつもりは更々無いけれど、まぁシズちゃんからしてみたらそういうことになるのかも知れない。ぶっちゃけどれも自分の欲の塊でしかないのだが。


「まぁ、いつでも言えよ」


そう言って彼が薄く微笑むのに、いつもなら自ら行動する癖に俺はこれまでのように素直にそれに頷くことができなかった。彼が笑うたび、たまらない気持ちになるのは最初からずっと変わらない。その度ちょっと嬉しいような何とも言えない歯痒い感情が満ちるのに、煙草の匂いといい今日はそれらがどれもただ苦しいばかりだった。



彼は知らない、俺がこんなに彼を好きなことを。当然だからこそこうして普通に会話を交わしたり食事を作ってやると言われたりするわけで、それはごく自然で普通のことの筈なのに。

俺の知らない女にどれだけ微笑んでいたとしても、俺にもこうやって微笑んでくれるならそれで良かった。それで良いのだと思っていたし特別言い聞かせたりはしていない。けれど、違った。俺は彼が与えるものが欲しくて欲しくてたまらなくて、いつしか自分以外に与えられるものまで羨むような我儘さを覚えてしまっているのだ。
ちがう、ちがうちがうちがうこんなのは。俺はただ彼の生活に触れられて、知らないことをたったひとつ知るだけでよかった筈なのに。




(もっと近付きたい、だなんて)




何て浅ましいのだろうと思った。予想外だ、自分の事は間違い無く人間だとは理解していたつもりだったが、思っていたよりずっと自分も人間として単純な生き物だったらしい。その瞬間、俺はほんの少し自分に落胆した。気付きたかったような気付きたくなかったような、そんな複雑な気持ちでいっぱいだった。

何も言わない俺を不思議そうな顔をしてシズちゃんが見つめている。はっと我に返り何事も無かったかのように装うと、俺はベランダに腕を掛け身体を凭れさせた。



「シズちゃんは優しいよね」

「はぁ?何だよいきなり」

「料理もできるし、口は悪いけど優しいし、俺が女だったら惚れちゃってるかも」


薄く笑みを貼り付け冗談めいた口調で言えば、「それ褒めてんのか貶してんのかどっちだ」とシズちゃんがほんのちょっと毒づいた口調で答えた。これ、嘘じゃないよ。だけどもちろん、そんな事は言えない。






「…俺、好きだなぁ、シズちゃんのこと」





ほんのちょっと弱々しくなってしまった言葉が、空気に溶けて闇に消える。





「はいはい、そりゃどうも」




俺が好きなら飯をちゃんと食えよ、そう言ったシズちゃんは、俺の方をちらりと見て小さく笑うとまた空を見上げてしまった。俺はいっそもう星でも空でも何でもいいから、余計な感情を抱かない何かになりたいとすら思った。ずっとシズちゃんを見ていられて、たまに見つめてくれたらそれでいいのに。そうしたら馬鹿なことはなにひとつ考えなくたって済むのに。

好きだという、たった二文字の単語が冗談としてしか伝わらないほど俺とシズちゃんは近くなり過ぎてしまった。なのに俺はまだ足りず近付きたいと思っている。伝わらなくてもどかしいのに、近付きたいなんて客観的に見てみればただの馬鹿でしかない。だけどその馬鹿は今紛れも無い自分なのだ。
知りたいのに、確かめることすら怖いだとか。触れたいのに、深みに嵌るのが怖くてそれができないだとか、俺はもういっそ呆れるほど矛盾だらけだ。

可能性なんて微塵も見当たらないその先に、ほんの少し絶望する。だけどそれは俺がシズちゃんを好きになった時点でそうならざるを得なくて、そうでしか有り得ない未来なのだ。


「シズちゃん、」

「ん?」

「ありがと」


こないだのハンバーグ美味しかったよ、そう呟いて笑うと、シズちゃんは一瞬呆気に取られたような表情をしたけれど、直ぐにまた薄く笑ってそーかよ、と言った。

俺は酷く勘違いをしていた。所詮俺達の間には壁があって、所謂ただの隣人でしかないのだ。友達という言い回しもまぁできなくもないだろうけれど。

知らないことが沢山あった。それは彼の名前だとか、職業だとか好きなものだとか年齢だとか、数え切れないほど。

与えるものは何も無くても、彼を好きでいる日常がただ幸せだった。ほんの、小一時間前までは。なのに、今はこんなに息が苦しい。煙草の匂いがやたらと鼻を突く。永遠に感情を持て余していられるほど人間は単純にできていないことを嫌と言うほど俺は実感していた。


この先にはいつか拾い集めるものは無くなる、だったらもう止めるしかという以外に答えはどこにも見当たらなかった。

その日を最後に、俺はベランダに出ることも、日課になっていたカーテンを開けることも、ぱったりと止めてしまった。



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