10 | ナノ





ご存知の通り、今日は水曜だ。

そして俺は躊躇っていた、いや寧ろ戦っていた。何がって、目の前のドアノブとだ。既に手は掛けている、あとは軽く捻るだけでそのまま簡単にドアは開く。
だけどどうしてもそれが出来ずただ俺は玄関にひとり、指定のゴミ袋を片手に立ち尽くしていた。


(べつに、躊躇う理由も必要もないのになぁ)


どこか冷静に分析してしまう自分には本当に失笑せざるを得ない。そしてとっとと開けてしまえと思う自分も居れば、いや此処は今の時間を見送るべきでは、と思う自分も居るからだ。

しかし俺自身どうして今このドアを開けられないのかそれだけが分からない。これは勿論気持ち的な問題でだ。俺は彼の事を好きなわけだから、別に顔が見たいとか声が聞きたいだとかそういうのは至って普通の感情だと思うわけで。
けれど、今現在俺はドアノブを捻ることが出来ずに居る、さっきも言ったが理由は不明だ。もうこのループを短時間で軽く三回はこなしたが、やっぱり答えは見付からないままだった。ああ何か考えてたら眠くなってきた。今なら立ったまま眠れる気がする。

がちゃ、不意に俺の耳にドアの開閉音が響いた。だけど俺の目の前のドアは開いていない。要するにこれは隣のドアの音だ。
遂に岐路に立たされて更に俺の思考回路はフル回転を始めた。どんな顔して会えばいい?いや普通でいいのかこの場合。でも何か無駄に緊張してないか自分。いやでもやっぱり会いたい先週ご飯行ったっきり会ってないし、いやでも、いや、もう、なるようになれだ。


ばん!と勢い良く扉を開けると、通路をほんの少し先に行く彼、平和島静雄がとても驚いた顔をしてこちらを振り向いた。無理もない、普通の三倍くらい今ドアからでかい音がした。壊れてないかな大丈夫だよね。って、あれ、おにいさん朝にしては中々感情の篭もった顔してるんじゃない?いつも眠くて眠くて仕方無いって感じなのにさ。


「…朝から元気だな」


ぼそり、寝起きの低い声が感心するようにそう呟く。
そうでもないよ、だって俺ほんとは低血圧だし。まぁそんな余計な事は勿論口にはせず、俺は咄嗟に繕った笑みで「おはよう」と笑ってみせた。自分のこういう機転の利くところは、まぁ嫌いじゃない。



「お前さ、」

「え、なに?」


お互いゴミ袋を片手に、狭い階段を降りて行く。不意に声を掛けられてちょっと驚き混じりの返事が出でしまった。


「仕事何やってんだ」

「えーっと……自営業?」

「何だそりゃ」


うん、俺も今そう思った。強ち間違っても居ないけど合ってもいないから、この場合冗談で流して貰って構わない。って言うか深く突っ込んで貰っては困るのだ、今俺に一番当て嵌まるのは確実に引き篭もりという単語なのだから。

やがてゴミ捨て場に辿り着くと、彼はひょいとゴミを置いて、じゃあな、と俺に背を向けて今日も駅の方向へと向かう。

俺は未だゴミ袋を手にしたまま反射的に「あ、」と小さく声を上げる。すると彼は不思議に思ったのか振り向いて小さく首を傾げた。


「行ってらっしゃい」


大して抑揚の無い声だったが、俺がそう口走ると彼はほんの少し呆気に取られたような顔をしていた。が、直ぐに「おう」と返事をして今度こそ俺に背を向けて歩き出して行った。そんな背中をただじっと見つめて、手にしたゴミ袋もそのままに彼の姿が見えなくなるまで俺はそこに立ち尽くしていた。




部屋に戻ってすぐ、俺はリビングのソファーに頭から突っ込んだ。ぼすん、鈍い音がして、身体がゆっくりと沈む感覚にそのまま目を閉じる。

水曜の朝は、と言うかゴミを出した後は大体こうだ。なんて言うか、力尽きるって言うかそんな感じ。
まず俺の低血圧は伊達じゃない。正直本当起きて動けるような状態じゃない日も珍しくないくらいだ。なのに、俺はそんな身体を酷使してまでゴミを出しに行く。毎週毎週飽きもせずに同じ時間に起きて、だ。

朝食はもちろん食べない、って言うか作る気力がまず湧かないし食べなくたって死ぬわけじゃないし。例えばとりあえずコーヒーを飲むとするじゃないか、あれ結構お腹一杯になると思うんだよ俺的には。コーヒーを甘く見てはいけないと心から思う。

まぁ下らないことをつらつら述べてはみたが、要はここまでして毎週こそこそ彼の後を尾行してゴミを出していた俺の身からしたら、今日はもう何て言うか、有り得ない。
事務的なおはようが返って来るだけでも、俺は十分過ぎるほど満足感を感じていた。なのに、なのにあの日から何かが少しずつズレていて、ちょっとずつ不思議な方向に向かっていることが本当に俺を惑わせていると思う。

あの日って言うのは、俺が彼を拉致、もとい保護したあの夜のことを指している。
ええと、順を追ってみよう。

俺が彼を拉致して、部屋に連れ込んで、無理矢理二度寝させて?で、俺は気まずくなって部屋を留守にして、彼が夜お礼を言いに来て…ご飯行こうってなって…うん、それで、今日のいまさっきの会話へと繋がるわけだ。

はぁ、短く息を吐くと軽く寝返りを打つようにして、ごろりとうつ伏せから横を向く格好になる。


わかっている。

見ているだけが幸せだっただなんて、建前でしかなくて嘘だらけだ。だけど俺はたぶん、深みに嵌るのがちょっとだけこわい。だから今日、ドアを中々開けられなかったのだ。それを本当は心の何処かで気付いていた。躊躇うのならよせと、誰かに言われた気がしたのだ。誰もいない筈の一人暮らしなのに実におかしな話だった。















がさがさと袋からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、それを冷蔵庫に入れる。重い、実に重い。だがしかし水道水というのはどうも苦手だ、まず温いっていうのが頂けない。ウォーターサーバーでもリースしようかと一時期考えたりしたが、あれはあれでボトルの交換が面倒臭い。ので結局止めた。
ああ手が痛い、今度から波江に来る時に買って来て貰うことにしよう。文句は多少と言わず大分言われるだろうが、自分で買いに行く事の色々な浪費を考えるとそちらのがずっといい。

結局あのあと俺がソファの上で爆睡してしまったのは言うまでもない。次に目が覚めた時は夕方だった。って言うかもう既に夜に近かった。
流石に一日中何も食べなかったこともあって(あと多分原因は早起きだと思う)空腹感を覚え冷蔵庫を覗いたら、中身はほぼ空だったと言うわけだ。ついでに水も無い。食料は無くても水があれば生きていけると自負している俺にとってはこれは一大事である。それでやむ無く買物に出掛けたというわけだった。

ペットボトルを二本冷えた箱へと詰め込み、あとは冷蔵庫に入れなくてもいいかな、そのまま袋をキッチンのシンクの上に放置して、そこで室内に漂う妙なまでの蒸し暑さに思わず顔を顰めた。


「…これだから上の階は嫌なんだよね、っと」


アパートとかマンションと言うのは、構造上どうしても上の階に熱が篭もる。冬は若干助かったりもするのだが、夏は正直地獄だ。一度帰った時のあのサウナ部屋状態がどうしても嫌で、クーラーを付けたまま外出したこともある。それはたまたま不在時に訪れた波江に見付かって、延々説教と言うか嫌味を聞かされたことを覚えている。あいつは俺の母親か。

からからと小さなベランダへの窓を開ければ、すうっと風が部屋を通り抜けた。

ああ、まだ暫くはクーラー付けなくても何とかなるかなぁ、そんな事を思いながら思わぬほどの風の心地好さに吸い寄せられるように俺はベランダに出る。当然ながら夜の8時を過ぎた空は真っ暗で、ちかちかと星が黒に瞬いて見えた。久方振りに見上げた夜空をそのまま見つめながら、コンクリート製のそこに腕を乗せて寄りかかる。

不意にふわり、風に混じって煙草の煙の匂いが鼻先を掠めた。あれ、なんか、嗅いだことあるようなないような。それを確かめるより先に、申し訳程度の小さな壁の向こうから、同じようにベランダに凭れ掛かる影に声を掛けられた。



「よぉ、自営業」



いやそれ名前じゃないし、そう突っ込みたいのは山々だったが当然それが俺の口から言葉になることはなかった。






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