ごめんねずっと好きでした(♀) | ナノ
ごめんねずっと好きでした
じゃきん、
小気味いい音が耳に響く。はらりと、ほんの少し手から零れた黒髪がゆっくりと宙を舞いフローリングの床の上に吸い込まれるようにして落ちて行った。
俺の手には今現在、束になった黒髪が一掴みぶん握られている。ただそれはもう俺の髪じゃない、いや俺の髪なんだけど、頭から伸びた髪との間でそれはもう綺麗に途絶えていて、今は力なく俺の手にしなだれた状態で握られている。だからもう、これは俺の髪であって俺の髪ではないのだ。
要は簡単に言うと、シズちゃんのとてもとても大事にしていた髪をばっさりと切ってやった。そう、シズちゃんの目の前でだ。更に付け足すなら、シズちゃんの仕事道具で。
苛々していた。
わかっている、こんな子どもみたいな真似したって結局は何も変わらないことを。だけど俺はこうせざるを得なかったのだ。きっと他にも選択肢はいろいろあっただろうに。
当たり前だけれど、シズちゃんはそりゃもう目を見開いて物凄く驚いた顔をしていた。まぁ無理もない、あれだけ手塩にかけて綺麗に大事に可愛がってきた髪だ、それを目の前でしかも自分の仕事道具のシザーでばっさりとやられてしまっては、言葉を失っても致し方ない。
鋏の音を最後に、シズちゃんの部屋からは音は途絶えたままだ。俺も何も言わないし、シズちゃんも何も言わない。言えないのかどうかは俺の知ったことではない、それこそ髪が恋人だとでも言い張るのならば、切った俺にも罪はあるのかも知れないが。これは俺のものだから俺がどうしようと自由な筈だ。
しかしこのままでは一向に何も進まない、ので、取り敢えず俺は口を開いた。いや開いてしまったのだ。
「そんなに髪が好きなら髪と付き合えば?」
するとただ驚いた表情をしていたシズちゃんの表情が、すっと無表情に変わる。そしてそのまま数歩俺に歩み寄って来たかと思うと、次の瞬間にはぱしん、という乾いた音と共に片方の頬に鈍い痛みが走った。
突然の出来事に俺は手にしていたシズちゃんの鋏を手元から落としてしまう。かしゃん、足元にそれが落下した音が聞こえた。けど、俺は正直それどころじゃあない。表情を取り繕うこともできずそのまま引っぱたいてきたシズちゃんを見上げたら、やっぱりその顔は先程と同じ無表情のままで、ただ冷たい視線だけが俺を見下ろしていた。
「……っ!」
何か文句を言ってやろうと思ったが、ひとつとして上手く言葉にはならなかった。かっと頭に血が上って、そのまま握り締めていた髪をシズちゃんに叩きつけてやると俺はドアを思いっきり閉めて部屋を出た。とにかくあそこに居たくなかった。頭に血が上っているのはわかってはいたが、何よりも頬に疼くようにじんじんと残る痛みが一番俺を苛立たせていた。
「信じらんない!殴る!?普通髪切ったくらいで殴る!?本当意味わかんない何なのあの単細胞むかつくむかつく、むかつく!」
ぼすぼすとクッションを叩きつけながら俺はやり場のない怒りを持て余していた。すると横からするりと手が伸びてきてそのまま手元のクッションは呆気なく奪われてしまう。
「怒るのは勝手だけどよ、人んちのクッション壊す気かお前は」
「だってむかつくんだもん」
「もん、じゃねぇよ」
「…ドタチン優しくない」
だって俺悪くない、悪いのはシズちゃんだ。そう呟くとドタチンが溜息を吐くのが聞こえた。
「…しっかしまぁ、派手にやったな」
その言葉と一緒に、指先で俺の短くなった髪にドタチンが触れる。短くなったとは言っても、片方だけが長いままで、その反対側の一部分が短いのだ。元々の長い部分は変わらず胸の下くらいまである。しかしアシンメトリーというには極端すぎるほど、真横に綺麗に鋏で切った髪が何とも言えない不格好さを醸し出していて。それに加えてこの赤くなった頬である。まるで見世物の如く通りすがりの人に振り返られたのは言うまでもない。
「ドタチンの家来るまでにめちゃくちゃ人に見られた」
「だろうな、せめて髪纏めるとか頬隠すとか何かしろよ」
「自分で出来るんだったらとっくにそうしてる」
「誰かさんが放っておけばやってくれるからな、お前の場合」
「じゃあドタチンが切ってよ」
「やだね、俺が静雄に殺されるじゃねぇか」
肩を竦めたドタチンが苦笑しながら呟く名前に、俺はほんのちょっと和らいでいた怒りがまたふつふつと湧き上がるのを感じていた。
「髪、髪ってそればっかで煩い」
「あいつお前の髪好きだからな」
「そこが俺は嫌いなの」
「それじゃあ元も子もねぇだろ」
「いいよ、最初に声掛けられてホイホイ店に着いてった俺も馬鹿だった」
因みにドタチンはシズちゃんのお店の美容師のひとりだ。多分あんまり交友関係が広くないシズちゃんの、まぁ友達というか仕事仲間と言うかそんな感じ。俺が店に行く度に構ってくれるし、ぶっきらぼうに見えて実は優しいのを俺は知っている。因みにドタチンは俺が付けたあだ名だ。
だからこうやって俺が何の連絡もなしに尋ねて来ても、快くとは言わないかも知れないが、受け入れてくれる。ああ本当優しいなぁ、その優しさがあの男に2割でもうつればいいのに。そうしたらもうちょっとあの髪馬鹿もどうにかなるかも知れないのに。
「…俺、ドタチンと付き合おうかなー…」
「いや、俺はまだこの世に未練ありまくりだから遠慮するわ」
「ええ、今ちょっと優しいとか思って損した」
「思ってくれなくていいから、そこは」
ほら、氷をビニール袋に入れたのものをタオルに包んで手渡される。赤くなった頬を冷やせというのだろう。ああやっぱりドタチンは優しいなぁ、たぶん俺シズちゃんが居なくてドタチンに出会ってたら本当に惚れてたかもわからないよねこれは。うん、男前、ちょう優しい。大好きドタチン。
タオル越しにぴたりと押し当てた氷が冷たくて気持ちいい。頬を冷やしながら、ぼんやりとほんの一時間くらい前のシズちゃん家での出来事を思い出して、胸の辺りがきりりと痛む。けど俺はそれに気付かないフリをした。
ピンポーン
不意に響いた呼び鈴の音に、しんと部屋が静まり返る。俺は玄関の方向に視線を向けてから、ドタチンを見る。
「…シズちゃんかも」
「かもな、俺もあいつも今日休みだったし」
「い、居ないって言って!あと絶対部屋に入れるな!」
ぽそりと呟いた可能性をあっさりと肯定されて、俺は慌てて風呂場へと駆け込んだ。変わらずむかつくし殴り返してやりたいとかいう気持ちが無いわけじゃないが、無表情で殴られたのは正直、今思うと怖かった。できればまだ会いたくない。どんな顔をしたらいいのかがわからない。
俺は洗濯機の横にしゃがんで身を小さくする、すると廊下を通る時にドタチンが「何で隠れんのに玄関に近付くんだよ」と突っ込みを入れたがこれは俺なりの策略なのだ。もしシズちゃんが乗り込んで来ても、あの馬鹿は部屋にまっすぐ乗り込むだろうからきっとここに俺が隠れているとは思うまい。即ち玄関に近いこの風呂場のが有利なのだ。
そんな合間に呼び鈴がもう一度響く。今度は立て続けに二回鳴った、苛立っているのが、呼び鈴越しに嫌と言うほど伝わる。正直もう窓から飛び降りて逃げ出したいくらいだ。
するとひょいとドタチンが洗濯機の横で小さくなる俺を覗き込んで来る。「こんなモンあったら直ぐにバレんだろ」と俺の靴を手渡してきた。確かに、こんな華奢な作りのミュールが目につく場所にあればドタチンだって言い訳はできまい。流石ドタチンやっぱり優しい男はそんな気遣いも一味も二味も違うね!無駄に心の中で讃えてから取り敢えず俺は玄関のドアの向こうの迫り来る脅威に息を潜めた。
がちゃり、玄関のドアの開く音が聞こえる。ドタチンが「よぉ」と声を掛けるのに、姿が見えないながらに俺はやはり訪問者がシズちゃんであることを悟った。
「あいつ、来てんだろ」
「ああ、さっきまで居たぜ?もう帰ったけどな」
「…何処行った」
「知らねーな、禄に口利いてねぇからよ」
ちっとシズちゃんが舌打ちするのがわかった。怒ってる、怒ってる。顔が見えないのにこんなに痛いくらい感情が手に取るようにわかるほど殺気立っているのだろう。俺は無意識に抱えた膝をぎゅっと更に抱き込む。
暫くの沈黙の後に「邪魔したな」とシズちゃんの声が聞こえて、それをドタチンが静雄、と呼んで引き止めた。何でそこであっさり帰さないんだ!と俺は思ったが、声に出すのをぐっと堪える。今そんな事したら全ての計画が台無しだ。取り敢えずドタチンには後でみっちりお説教だ覚えとけ。
「お前、髪だけ好きならあんま過剰に関わんの止めとけよ」
「…あ?」
「髪だけ好きって言われて喜ぶヤツなんざそうそう居ないだろ」
「なにが」
「あいつ自分で切ったんだろ?お前のそういうのが嫌で切ったとか思わねぇの?」
ドタチンは優しい、はずなのに、今だけは優しくない。俺が居ること知っててシズちゃんを試すみたいな真似をする。俺がシズちゃんのこと好きなこと知ってるくせに、俺とシズちゃんがべつに付き合ってるわけでもないことも知ってるくせに、なんで、なんでそんな事聞くの。逃げたい、耳とか要らない何も聞きたくない、もうやだ本当シズちゃんが全部悪いんだ畜生。
「意味わかんねぇ、何だそりゃ」
「少なくともあいつはそう思ってるみたいだけどな」
ぴりりとした緊張が空気ごと一緒に張り詰める。そのまま流れた沈黙の後に、シズちゃんが、言った。
「俺はあいつが好きだから、あいつの髪が良いんだよ」
髪だけ好きだなんて言った覚えはねぇ、ぶっきらぼうに、それでもちゃんと俺の耳に届くくらいの声音でシズちゃんが紡いだ言葉に俺は頭の中が真っ白になった。
「…だ、そうだ」
ドタチンの言葉は、明らかにシズちゃんじゃなくて俺に向けられている。だけど、俺の頭はいま容量を完全にオーバーしてしまっていて、軽くバグ状態だ。
わかってる、好きだって言ってくれたあの時も本当は凄く嬉しくて、だからシズちゃんが好きなら俺もこの髪大事にしようってそう誓ったのに、だから、シズちゃんが悪いんじゃない。ちゃんとそう言ってくれたのにつまらない感情に身を任せて切ってしまった自分だけが悪いのだ。
それでもやっぱり俺はシズちゃんが好きだから、ちゃんと俺のことを見て欲しいし俺のことを好きになって欲しかった。髪だけじゃないってわかっててもシズちゃんは俺の髪ばかりに触れるし髪ばかり気にするし時々髪に話しかけてるんじゃないのかっていうくらい、髪のことばっかりだ。
それが積もりに積もって気がついたらシズちゃんの鋏を持ち出していて。そのまま躊躇うこと無く俺はそのシズちゃんが大好きな髪に鋏を入れた。
(あ、どうし、よう)
不意に指先でそっと髪をてっぺんから撫で下ろすと、いつもみたく胸元まで撫で下ろせずにそれは途中で途絶えてしまった。ばらばらになった毛先をぎゅっと握り込むと、手がかたかたと勝手に震えた。どうしよう、ない、ない。あんなに大事にしてくれたのに、綺麗だって唯一褒めてくれたのに、自分で切ってしまった。
小刻みに手元が震えたまま、俺は床上に落とした視線をどうしても動かせない。どんどん身体が冷たくなって行くのがわかる。だって、あった筈の髪が無い。髪が無かったらきっと嫌われる、どうしよう。たとえ何があってもこの髪だけは俺は切ってはいけなかったのに。
ふっと視線を落とした先の床に影が掛かる、けれどやっぱり俺は視線を逸らすこともできないしその影の先を見上げることもできない。何故なら影の正体はドタチンでは無いと心のどこかでわかっているからだ。
「…なにやってんだお前」
小さく洗濯機の横で縮こまった状態のことを言いたいのだろう、そのままシズちゃんが俺の前にしゃがみ込む。それと同時にばたん、とドアが閉まる音が聞こえる。たぶん、ドタチンが部屋を出た音だと思った。
するとシズちゃんの指先が伸びてきて、俺の髪を掴んでいた手首を掴んでそのままするりと下ろされる。そしてそのまま空いた手で、短くなった髪を撫でられる感触がした。
いや感触なんて無いけど、髪に感覚なんてないけどそんなのわかってるけど、だけどいつだってシズちゃんの髪に触れる手つきは優しいのだ。それを覚えこんだ俺の髪は、触れる先からちゃんと察知して感覚として脳に伝えることができる。そのくらい、不器用で口下手なシズちゃんのことを察知してあげられれば良かったのに。そしたらきっと髪も無くならなかったのに。
「…殴って、悪かった」
なのに、なのにどうしてシズちゃんが、謝るんだ。
言いたいことはいっぱいある、星の数ほど、だけどこの男のたった一言でになにひとつそれは言葉にならない。多分もう何処かに消え去ってしまった。目頭がぐっと熱くなるのがわかったけれど俺は必死になってそれを制御する、泣くな、泣くな泣くな泣くな!
「嫌いに、なった?」
「…何でそうなるんだよ」
「だって、切っちゃった、かみ」
「知ってる」
「ほら、もう肩にもつかないくらいだし」
「知ってるよ」
見りゃあわかる、そう言われて俺の言葉はそこで途絶えてしまった。漸く視線を上げてシズちゃんの顔を見れば、さっきみたいな無表情では無くて、ほんの少し安心する。ぶっきらぼうなのには変わりないけど。
「切ってやるから、帰るぞ」
「…やだ」
「あ?何でだよ」
「切りたくない」
「…手前がそれを言うか」
「俺のだから、切りたくないって言ったら切りたくない」
「そーかよ」
「でも、」
「今度は何だ」
「ごめん」
ぽそりと、本当に聞こえるか聞こえないかくらいの声音でそう呟くとまた沈黙が流れた。だってほら、シズちゃんが謝ったのに俺も謝らないと何か気分悪いでしょ、フェアじゃないって言うか。だから、これでイーブンだ。痛み分けだ。別にこんなことで気持ちが軽くなるとかそんな単純なこと思ってるわけじゃないけど、悪いことした自覚が無いと思われるのも微妙だし。ああ何か言い訳ばっかりだ、やだな。
「なら、」
そう言うのと同時にシズちゃんの掌がぽんぽんと俺の頭を撫でる。心地好いリズムと一緒に、真っ直ぐな視線が俺を捉えて離さなくなる。ああ、出会ったときと何も変わらない、シズちゃんの目はいつだって真っ直ぐだ。
「とっとと全部俺のモンになれよ」
それなら髪切っても問題ねぇだろ、言っとくけど髪はついでだからな。そう付け足すシズちゃんの声は、もう俺の耳には殆ど入らない。言ってることはとてつもなく横暴なのに、やっぱり髪に触れる手だけはどこまでも優しい。
知ってるくせに、誰が育てた髪だよ、もう他の人になんか切って欲しくないって髪が言ってる。そう、断じて俺じゃない髪がだよ。
短くなった髪を指先で掻き上げられて、そのまま耳に掛けられる。お前顔小せぇから、短く切ってこういうのもいいよな、シズちゃんがそう呟くと段々顔が近くなって、気付くとそのままキスされていた。
初めてのキスが他人の家の風呂場だなんて、本当にシズちゃんはどこまでもデリカシーゼロである。あ、間違ったマイナスである。あとドタチンなんかごめんね。心の中で呟いて、俺は返事の代わりにそのままゆっくり瞳を閉じた。
寧ろわたしがなんかすみませんでした。