02 | ナノ
「まぁ、簡単に言うならお前の願い事をひとつだけ叶えてやるって話だ」
もくもくとその小さな口いっぱいに、来客用のお茶請けのクッキーをめいっぱいに頬張りながら、自称マドラーの神様とやらを名乗った小人はそんなことを言った。
「あーあー………ちょっと。これ俺の仕事用のデスクなんだから零さないでよ。あともうちょっと落ち着いて食べたらどう。誰も盗りゃしないよ」
「ふっふぇな。ほれはほれんだ」
「何言ってんのかぜんぜんわかんない」
ハムスターと見紛うばかりに膨れ上がった、そんなほっぺたと顔で幾ら睨まれようと言葉の半分以上はジョークにしかならない。俺は傍らにあったティッシュを一枚抜き取ると、あぐらをかいて黙々とチョコチップクッキーを貪る彼の横にふわりとそれを敷いてやった。
「ほら、食べるならここで食べて。零しても片付け楽だから」
「…ああ?俺に指図すんのか」
「するよ。いーからさっさと移動、クッキー没収されたくなかったらね」
「…………」
しれっと言い放った冷たい声に怯んだわけでもなさそうだが、没収という単語自体には些か効果があったらしい。食べかけのクッキーを手にしたまま、とてとて歩いて大人しくティッシュの上へと移動し、またそこにすとんと座り込む。
「…で?スイッチはどこ?食べ終わったらでいいから教えて」
「はぁ?スイッチ?何の」
「やっぱり背中か」
「だから何の話だよ」
「いや、君の電源の話」
「手前…この後に及んでまだ言うか。そんなモンねぇってさっきから延々言ってんだろーが」
「うーん………クッキーを口の端につけたまま言われてもいまいち説得力に欠けるかなぁ」
そう、彼の言う通り間違いなく、小さな身体のどこにも電源を思わせるスイッチは存在しなかった。おいこら離せと言われても遠慮なく小さな身体を隅々まで捜索してはみたが、それでもやはり主電源は出て来ない。つまり、充電式にしろ電池式にしろコードレスにしろ、とにかく機械であるという可能性はあっさり打ち砕かれてしまった。
神様だとかふざけたことを抜かすので、きっと新手の宗教ロボットか何かだとばかり思ったのに、どこまでも今俺の目の前の存在は、どんどん現実からかけ離れて行くばかりだ。こちらの意味合いでの非現実とやらには余り興味はないのだが、この際そうも言っていられない。だってそうだろ、否定したくとも現に俺の目の前にそれはこうして存在している。結局のところ名称も分類もわからない、自称神様と名乗る不審者以外の何者でもなかったけれど。
このご時世だから誰がどんなおかしなことを言い出そうが、割とそんなのはよくあることだ。それでも彼の場合はおかしなことが言葉だけに留まらず、何分その大きさが宜しくない。余りにも寸分が狂っている。そして現に、マドラーを使用した際にぼふんと音を立て、どこからともなく小人がやってくるだなんて話は聞いたことがない。何から何までおかしなことだらけが故に、段々と俺は順を追って否定することすら酷く億劫に感じ始めていた。
そうしてひとまずキッチンから離れ、普段腰を落ち着けることの多い仕事場のデスクへと移動する。そこからの、実に緊張感のない腹が減ったという小人のつぶやきに、俺は波江が買い置いていた客用のクッキーを小人に振る舞ってやることにした。
ここまで行くと最早ただの興味本位だ。夢ならばとっくに覚めている筈なのに覚めない以上、見た事のないそれはただの興味の対象へといとも簡単にすり替わる。そういった意味では、寛容な自分の性格に感謝せざるを得ない。
「ねぇ、それもう五枚目だけど。一体そのちっさい身体のどこに入ってるの」
「企業秘密だ」
「うわぁ、冷たい。俺のお願い聞いてくれるって言う割に扱いがちょっと辛辣じゃない?」
「あんのか?願い事」
「ないけど」
「……ねぇのかよ」
「ないよ。やりたいことがあれば自分でやるし、調べるし。これといって特になし」
もしゃもしゃとクッキーを食べる動きが止まり、ぽかんとした表情で小人は俺のことを見上げて来る。既にサングラスらしき物体はそこにはなく、思いのほかあどけない茶色の瞳がくるりと真ん丸に見開かれていた。ああ、やっぱり人形みたいだ。秋葉原辺りに持って行けば高値で売れるんじゃないのか、これ。
「ひとつくらい何かあるだろ。俺はお前の願い事を叶えるまでここに居なくちゃならねーんだよ」
「そんなこと言われても、ねぇ」
「いいから何か言え」
「えー…じゃあこの世の人間の半分くらいが忠実な俺のしもべになりますよーに、とか?」
「…それ本気で言ってんのか?」
「何でもいいって言ったのそっちじゃん」
「いーけどよ……別にお前が何を願おうと」
すると小人はちいさな瞳をそっと閉じて、暫くはうんともすんとも言わずテイッシュの上にクッキーを広げた、さしずめピクニックじみた光景の中で一人瞑想に耽り出してしまった。
しかし一分も立たずにぱちりとふたたび瞳が開くと、どうしてかじとりと疑わしい眼差しが向けられて、なに、と思わず聞き返す。デスクに頬杖をついてそれら一連の行動を眺めていたわけだが、本当にくるくる動いて飽きないなぁと、思わず感心さえしてしまっていたところだ。ほんの少し、ペットを飼いたがる人間の気持ちがわかったような、そう大してわからないような。
「…おい、ちゃんと本当の願い事を言え」
「なに、どういう意味?」
「お前の本心の願い事じゃねぇと叶わねぇようになってんだよ。じゃねぇと一時の興奮で馬鹿みてーな事仕出かすやつも居るからな」
はぁ、と溜息を吐き出されてしまったけれど、彼の言葉にはそうですかと返すことくらいしか、今の俺にはできやしない。実際に心から望む願いは先程も言ったように自ら行動に起こすタイプだ。他人を手駒にすることはあっても、手に入れたいと思ったことはない。確かに心からではないという点ではずばり見抜かれている。
逆を言ってしまえば俺の要求とやらが「特になし」に該当することは間違いないので、まぁ、現に彼がファンタジーさ全開のなんでもひとつ願い事を叶えてくれる妖精もどきだとしよう。確かに結果としての脱力感たっぷりな溜息は頷ける。
「ねぇ、どうやってマドラーの中に入ってたの。それも企業秘密?」
「入ってねーよ、宿ってんだ」
「一緒じゃないの。それ」
「別にマドラーだけじゃねぇ。物にはひとつひとつちゃんと神様が宿ってる………って、なんだよ」
彼が言葉の続きを言い淀んでしまったのは、俺がその目線の高さに合わせて人差し指をついと差し出したからだ。じっと上向いた指の腹を見つめ、続けて視線を上げて俺の瞳を見つめ返す。視線がぱちりと重なったところで物は試しと口を開いた。
「お手」
しん、と部屋の空気が静まり返って十数秒後、上機嫌そうにクッキーを頬張っていたさきほどまでの穏やかさとは裏腹に、真剣なまでの怒りを含んだ目つきがぎろりと俺を睨み上げて来る。その口元は辛うじて笑みを保っているものの、ひくりとおかしな方向に引き攣ってしまっていた。
「………おい、殺すぞ」
「やだなぁ、冗談だって、冗談。神様か妖精だか知らないけど、そんな物騒なこと言うのは良くないと思うけど?」
肩をわざとらしく竦めて見せれば、ちっと小さく舌打ちをして小人はまた手元のクッキーにかぷりと齧り付く。よくもまぁそんな甘いものを延々と食べ続けられるなと、やっぱりただひたすらに感心するばかりだ。俺は以前何かの気まぐれで同じクッキーを一枚食べたとき、一口だけ齧っただけでその味わいに満足してしまった。想像を上回る甘さだったことを今でもよく覚えている。
非常に受け入れ難い事実ではあるけれど、この異色そのものの存在が、どうやらそういった類の非現実的なものだということは、いよいよ納得して理解せざるを得ないらしい。それはもう、非常に癪な話ではあるけれど。
ふたたびミニサイズの頬がクッキーを咀嚼しては膨らむ様子をぼんやりと眺めながら、まだあと三枚くらいはいけそうだなぁなんて下らないことを考えて、朝の時間は過ぎて行った。
ああ、本当はもっときっと、真面目に考えなければならない問題があるはずだというのに。